Jフィルム・ノワール覚書⑮ 東映ノワール 深作欣二/佐治乾の反米ノワール2017年5月12日
自然主義リアリズムが身上の東映東京撮影所には、一方で片岡千恵蔵主演の『Gメン』シリーズに代表される、無国籍なアクション映画の系譜があったが、今ひとつ垢抜けずもっさりした感じを抜け出せないでいた。この時期、イキのいいアクション映画で業界をリードとしていたのは日活だったが、東宝も『男性NO.1 』(1955年、山本嘉次郎監督)で先鞭をつけたギャング映画という路線に、岡本喜八が登場し、新風を巻き起こしていた。


Jフィルム・ノワール覚書⑭ 東映ノワール 『暴力団』と『恐喝』2017年3月24日
日本映画を見ていると、しばしば外国映画を臆面もなくパクっていることに驚かされることがある。日活ムードアクションを代表する『夜霧よ今夜も有難う』(1967年、江崎実生監督)がハリウッドの往年の名作『カサブランカ』(1942年、マイケル・カーティス監督)の換骨奪胎であることはよく知られているところだろう。もっとも外国映画からのイタダキは、サイレント時代から日本映画の得意とするところで、山中貞雄の見事な翻案を映画評論家の岸松雄が「心ある踏襲」と評したことはあまりにも有名な話である。


Jフィルム・ノワール覚書⑬ 東映ノワール 『七つの弾丸』の革新性』2017年3月10日
映画の脚本家にはいろいろなタイプがいるが、日本で最も合理的な考え方の持ち主で、コンストラクションがガッシリしたホンを書く脚本家といえば、橋本忍をおいてほかはない。なにせ早い時期からカナタイプを使い、テープレコーダーをメモ代わりに利用し、読書のために速読術を習うという合理主義者で、時制や空間を行き来しながら鮮やかにテーマを浮き彫りにしていく脚本の構成力はずば抜けており、脚本作りのお手本として多くの専門学校が橋本作品を教材としてよく取り上げているほどである。


Jフィルム・ノワール覚書⑫ 東映ノワール 『白い崖』を検証する2017年1月17日
今回は今井正が監督した東映作品『白い崖』について書いてみたい。『白い崖』といえば、山本薩夫と並んで戦後の独立プロ運動を牽引した左翼監督である今井正にしては、似つかわしくないミステリ/スリラー映画だが、本人も認めるようにあまり成功したとはいえず、『キクとイサム』(1959年)と『あれが港の灯だ』(1961年)という傑作に挟まれて、今井のフィルモグラフィの中でも埋もれた作品というイメージがある。


鈴木英夫〈その16〉インタビュー:宝田明2016年11月15日
今回は、『青い芽』(1956年)、『花の慕情』(1958年)、『その場所に女ありて』(1962年)、『旅愁の都』(1962年)、『やぶにらみニッポン』(1963年)、『暁の合唱』(1963年)、『3匹の狸』(1966年)の計7本の鈴木英夫作品に出演なさった宝田明さんにお話を聞いた。


レッド・パージを生き抜いた男2016年10月11日
1985年から1990年代半ばにかけてのことだと思うが、三軒茶屋にある西友の5階にスタジオamsという映画上映スペースがあった。もともとは西友のお中元やお歳暮の催事場として使われていたスペースだったものを、小ホールに改造して当初は芝居やイベントをやっていたようだが、1985年頃からはシネクラブ的な映画上映スペースとして使われるようになったのだと記憶する。


Jフィルム・ノワール覚書⑪ 東映ノワール 関川秀雄の場合2016年9月9日
関川秀雄といえば、東横映画『きけ、わだつみの声』(1950年)や、独立プロで『混血児』(1953年)、『ひろしま』(1953年)、『狂宴』(1954年)など、反戦映画で知られる社会派の左翼監督であるというのが大方の認識だろう。しかし本当にそうだろうか。


Jフィルム・ノワール覚書⑩ 『警視庁物語』の時代 その42016年8月17日
今回は『警視庁物語』シリーズの第3期として、第19作『19号埋立地』から最終話の第24作『行方不明』まで取り上げる。デ-タ中、[事件名]はできるだけ劇中に登場する捜査本部が掲げる事件名に準拠し、特に登場しないものは便宜上の名称をつけた。セミドキュ・スタイルの映画であるのに加えて、事件が土地に結びついているものがあるため、できるだけ[ロケ地]を判別したが、映画から判別できるものには限りがあるため、分かったものだけを記載した。


Jフィルム・ノワール覚書⑨ 『警視庁物語』の時代 その32016年7月21日
今回は『警視庁物語』シリーズの第2期として、第10作『108号車』から第18作『謎の赤電話』まで取り上げる。デ-タ中、[事件名]はできるだけ劇中に登場する捜査本部が掲げる事件名に準拠し、特に登場しないものは便宜上の名称をつけた。セミドキュ・スタイルの映画であるのに加えて、事件が土地に結びついているものがあるため、できるだけ[ロケ地]を判別したが、映画から判別できるものには限りがあるため、分かったものだけを記載した。


Jフィルム・ノワール覚書⑧ 『警視庁物語』の時代 その22016年6月27日
今回は『警視庁物語』シリーズの第1期として、第1作『逃亡五分前』から第9作『顔のない女』まで取り上げる。デ-タ中、[事件名]はできるだけ劇中に登場する捜査本部が掲げる事件名に準拠し、特に登場しないものは便宜上の名称をつけた。セミドキュ・スタイルの映画であるのに加えて、事件が土地に結びついているものがあるため、できるだけ[ロケ地]を判別したが、映画から判別できるものには限りがあるため、分かったものだけを記載した。


Jフィルム・ノワール覚書⑦ 『警視庁物語』の時代 その12016年5月20日
セミドキュ・スタイルのJフィルム・ノワールは、1950年代初頭に隆盛を迎えるが、独立プロがブームを牽引したことからでも分かるように、そのほとんどは、スターを使わずにロケで製作できるという特質を利用した、低予算で即製の、いわゆるB級映画ばかりだった。ところがこのジャンルが胚胎していた可能性は、東映東京撮影所(大泉)で大きく花開くことになった。


Jフィルム・ノワール覚書⑥ 新東宝の衛星プロと日米映画2016年4月1日
1940年代後半、戦後の新作映画不足と、東宝争議の混乱による東宝の製作機能のマヒによって、これを補う形で、続々と独立プロダクションが誕生した。また、東宝争議やそれに続くレッドパージによって撮影所を追われた人材の中にも独立プロに活路を求めてやってきた人たちがいた。


テレビ・ディレクターが撮ったピンク映画2016年3月15日
1964年、文部省(当時)主催の芸術祭に1本のピンク映画が出品され、ちょっとした騒動になった。出品したのはピンク映画の老舗製作会社国映で、作品のタイトルは『裸虫』という。監督は「グループ創造」という集団名になっていたが、近年これはテレビ・ディレクターの今野勉の変名ということが明らかになっている。


Jフィルム・ノワール覚書⑤ 『蜘蛛の街』の登場2016年2月17日
今回は『蜘蛛の街』を取り上げる。監督は鈴木英夫。のちに主として東宝でスリラー/サスペンス映画に真価を発揮した監督である。『蜘蛛の街』は監督第2作で、彼が手がけた最初のスリラー/サスペンス映画になる。


Jフィルム・ノワール覚書④ 『暁の追跡』について2016年1月27日
『野良犬』(1949年、黒澤明監督)が公開されたちょうどその頃、イギリス映画『兇弾』(1950年、ベイジル・ディアデン監督)が、『裸の町』(1948年、ジュールス・ダッシン監督)に続いてようやく日本でも公開された(1950年8月15日公開)。


Jフィルム・ノワール覚書③『暴力の街』とその周辺2015年12月28日
前回、日本映画で最初の本格的刑事ドラマである黒澤明の『野良犬』を取り上げたが、これが刑事を主人公にしているという一点で、まだ戦争の記憶もなまなましく、軍隊や警察へのアレルギーが強い左翼陣営から批判されたということを紹介した。だが、その左翼陣営もセミ・ドキュの手法を使った一本の映画を製作する。山本薩夫監督が独立プロで製作した『暴力の街』(1950年)である。


Jフィルム・ノワール覚書② 黒澤明の役割2015年11月28日
戦後の日本映画におけるミステリ/サスペンス映画の歴史を考える上で、黒澤明の存在を抜きには語れない。黒澤明といえば、研究書や関連書籍もたくさん出ているし(上島春彦著「血の玉座」は必読!)、すでに改めて書くべき新しいことは何もないが、ミステリ/サスペンス映画に大きな足跡を残した黒澤がすべての出発点であったことを確認しておきたい。


Jフィルム・ノワール覚書① ノワールの誕生2015年10月8日
遅ればせながら、5月に亡くなった野村孝について書いておきたい。新聞の訃報記事のほか、映画雑誌の追悼文もぱらぱらと流し読みをしてみたが、『拳銃(コルト)は俺のパスポート』(1967年)を代表作に挙げ、大方が日活アクション映画を担った監督としてまとめていたが、それは正しい。ただ『特捜班5号』(1960)での監督デビューからダイニチ映配までの日活時代に監督した作品は30本にも満たず(それ以降の作品もわずか2本)、アクション映画だけでなく、歌謡映画や文芸映画などフィルモグラフィはバラエティに富んでいる。逆の言い方をすれば、会社に便利に使われた感もあるが、どうだろうか。


谷口登司夫が語る三隅研次2015年7月1日
今回は大映京都の編集マンとして長らく活躍された谷口登司夫さんにお話しを伺った。谷口さんは森一生監督の作品や三隅研次監督の後期の作品の編集を担当され、特に信任の篤い編集マンであった。話は森一生・三隅研次両監督のことから監督としての勝新太郎の話にまで及ぶ。


近藤明男が語る三隅研次・増村保造のことほか2015年5月21日
今回は『想い出を売る店』(85年)、 『ふみ子の海』(07年)、『エクレール・お菓子放浪記』(11年)を監督した近藤明男さんにお話を伺った。話は、学生のとき1本だけ助監督に付いた三隅研次監督のことから、師と仰ぐ増村保造監督、さらに勅使河原宏監督、自主映画界の異才にしてプロデューサーでもあり、本コラムでも取り上げた木村元保さんにまで及ぶ。


井上昭が語る三隅研次2015年3月12日
今回は井上昭監督に三隅研次監督についてお聞きした文章を掲載する。井上監督は1928年生まれで、1950年大映京都に入社。対して三隅監督は1921年生まれで、1941年日活京都入社。三隅監督のほうが生まれでは7つ年長、キャリアでは9つ上になるが、その間、日活が統合して大映になるという大きな変化があった。


俳優ブローカーと呼ばれた男【その四】2015年1月26日
話は星野和平が日活の契約プロデューサーとして、新国劇とユニット契約しようと思い立った、その少し前に遡る。新国劇では、一九五三年四月に明治座の夜の部で立野信之の第28回直木賞受賞作「叛乱」を戯曲化して上演し、大当たりを取っていた。


俳優ブローカーと呼ばれた男【その参】2014年12月20日
1953年9月、戦中の企業統合以降、製作を中断していた日活が製作を再開すると発表した。同時に調布に約2万坪の農地を一括購入して、撮影所建設に着手した。これに先立って、松竹、東宝、大映、新東宝、東映の大手五社は、所属俳優やスタッフの無断引き抜きを防止する協定案を話し合い、同年9月に全文を発表する。いわゆる五社協定である。


俳優ブローカーと呼ばれた男【その弐】2014年11月7日
1952年、日本映画界は相次ぐスターの引き抜きや独立に揺れていた。その最大の震源地となったのは松竹であった。


俳優ブローカーと呼ばれた男【その壱】2014年10月7日
敗戦直後の映画界で“俳優ブローカー”なる存在が注目されはじめた。元来、スタジオ・システム下の映画界では、映画俳優は映画会社が育て、売り出すものだった。映画スタアは映画会社が作り出すものだったのだ。そのため、ほとんどの俳優は特定の映画会社に所属し、専属契約あるいは年契約や本数契約を結んでいた。


林土太郎が語る三隅研次のことほか2014年8月29日
今回は大映京都の録音技師・林土太郎さんにお話しを伺った。三隅研次監督のことだけでなく、大映京都のことや林さん自身にことも語られているので、これだけでも貴重な記録ではないかと思う。ただ録音機材の調子が悪いのに気付かず、内容をじゅうぶん再現できなかったのは残念だったが、エッセンスを抜き出して再録する。


森田富士郎が語る三隅研次2014年7月30日
6月11日、森田富士郎さんが京都市内の病院で亡くなられた。享年86。大映京都の伝統を引き継ぐ映像京都を代表する撮影監督(キャメラマン)であった。大映京都のプログラム・ピクチュアの撮影を数多く担当し、『大魔神』(66年、安田公義監督)の撮影でキャメラマンとしての最高の栄誉である三浦賞を受賞。大映倒産後は映像京都の設立に参加。1970年代以降は五社英雄や勅使河原宏の女房役として多くの作品の撮影を担当した。


反共プロパガンダ映画を再見する【活字篇】 第3回2014年6月25日
『私はシベリヤの捕虜だった』を製作したシュウ・タグチこと田口修治は、1905年3月、東京市・本所で開業医・田口潔矩(きよのり)の三男として生まれた。


反共プロパガンダ映画を再見する【活字篇】 第2回2014年5月26日
『私はシベリヤの捕虜だった』の撮影は、1951年暮れから、北海道千歳の広島村に建設されたラーゲリのオープンセットから始まった。この作品がアメリカ当局から資金供与された反共プロパガンダ映画であることは表立って明らかにされていないが、この作品がシベリアに抑留された旧日本兵の苦難を描いたものであることは撮影中から知られており、映画製作を反対するプラカードを掲げた一団による抗議も受けた。そんな中、ラーゲリのセットの一部がボヤで燃えるという不審火騒ぎが起きた。


反共プロパガンダ映画を再見する【活字篇】 第1回2014年4月22日
今回は、2014年2月22日にエスパス・ビブリオで行われた「反共プロパガンダ映画を再見する」と題した、『私はシベリヤの捕虜だった』(52年、阿部豊・志村敏夫共同監督)の上映と講演イベントで、ざっくりとお話したことを、その場では話しきれなかったことも含めて、改めて本コラムでまとめてみた。


豊島啓が語る三隅研次2014年3月11日
今回は大映京都最後の助監督として、三隅研次に就いた豊島啓(ひらく)さんにお話しをうかがった。豊島さんの父上は京都在住の映画評論家・故・滝沢一さんで、その影響もあって子供の頃から映画ファンで、父親の伝手で大映に入社したのだという。


木村元保さんのこと2014年2月5日
旧聞に属する話題だが、昨年、東映系で封切られた『蠢動―しゅんどう―』は、時代劇ファンの三上康雄監督が「見たい時代劇がなくなり、自分で作るしかないと思った」と自主製作で作られた作品だった。


三國連太郎の企画2013年8月30日
俳優の佐藤浩市の名前は、父親の三國連太郎が敬愛する監督の稲垣浩と市川崑にあやかって、一字を拝借し命名されたことは、よく知られたエピソードだが、では何人の人が即座に三國が出演した稲垣浩作品や市川崑作品を挙げることができるだろうか。


中岡源権が語る三隅研次2013年7月12日
「新藤兼人が語る三隅研次」に続き、今回は大映京都を代表する名照明技師、中岡源権さん(2009年死去)に三隅研次監督についてお聞きしたときの記録を掲載する。中岡さんが三隅研次監督と組まれたのは、『女系家族』(1963年)、『とむらい師たち』(1968年)、『鬼の棲む館』(1969年)、『尻啖え孫市』(1969年)、『座頭市 あばれ火祭り』(1970年)など、あまり多くはないが、三隅組のスタッフの多くがすでに鬼籍に入られたので、2005年に文化庁・映画賞を「映画功労表彰部門」(映画照明)で受賞され、授賞式に上京された折に、空いた時間に三隅監督について伺った。


映画と読みのお話2013年6月17日
“吉田喜重”は“よしだ・よししげ”か、それとも“よしだ・きじゅう”なのか。どちらでもいいじゃないの、本名と通称の違いなんだからと思っていたのだが、「吉田喜重DVD—BOX」刊行のお手伝いをしていたときに、ジャケットなど印刷物をデザインするアート・ディレクターに「監督の名前でローマ字のロゴを作りたいんだよねえ。で、どっちにしたらいいの?」と訊かれたので、この機会に直接監督に訊ねることにした。「戸籍上は“よししげ”ですが、海外では通称の“きじゅう”で通しています」という返事。結局、監督本人の希望で“KIJU”というロゴを使ったのだった。


「母に捧げるバラード」のこと2013年5月14日
松村邦洋の“ひとり『アウトレイジ ビヨンド』”をゲラゲラ笑いながら見ていたら、続いて松村は定番ネタである金八先生=武田鉄矢のモノマネをやり、それを見ていて突如思い出したことがある。武田鉄矢が、当初彼を一躍有名にしたヒット曲「母に捧げるバラード」という題名を冠にした映画で俳優デビューを果たすはずだった、ということだ。


ついに発見?「黒澤明のエロ映画」2013年3月28日
以前より本欄をお読みの方は、「黒澤明のエロ映画」というお題のコラムをご記憶であろうか。今回は映像特典付きのその続報。


座頭市・その魅力【その2】2013年2月28日
『座頭市』は、大映の屋台骨を支える主力シリーズに急成長し、勝新太郎の『悪名』『兵隊やくざ』とともに、勝新三大シリーズとして、俳優・勝新太郎の代名詞にもなった。盲目、酒好き、女好き、博奕好き。居合斬りで次々と悪い奴らをぶった斬る。


座頭市・その魅力【その1】2013年1月31日
「大映は盲目(めくら)で目があいたといわれるが、そのとおりだ」 1965年の大映恒例の新春パーティで、上機嫌の永田雅一大映社長がいつにも増してボルテージの高いラッパを高らかに響かせた。いうまでもなく「盲目」とは勝新太郎主演の「座頭市」シリーズのことである。この頃の大映では「座頭市」シリーズが次々とヒットを飛ばし、ほかにも大映を代表するスターの二本柱、勝新太郎と市川雷蔵、通称“勝・雷’s”のシリーズ作品が大映の屋台骨を支えていた。


三國連太郎『台風』顛末記 【その4】2012年12月25日
三國連太郎が悪戦苦闘しながら初監督作品『台風』を完成させた頃、三國が『台風』と同時進行で掛け持ち出演していた映画に大きなトラブルが発生していた。


三國連太郎『台風』顛末記 【その3】2012年11月21日
『怪談』(65年、小林正樹監督)と『飢餓海峡』(65年、内田吐夢監督)のスタッフは、三國連太郎が自ら製作・監督する『台風』の撮影を優先するので、たびたび三國待ちになるスケジュールの調整に頭を悩ませることになったが、肝心の三國は「今村昌平の映画に接する態度、描写、ベルイマンの作品のつきつめかたがお手本だ」(「映画芸術」1965年1月号、「独立プロ二つの誤算」)とうそぶきながら、『台風』の撮影に没頭していた。


三國連太郎『台風』顛末記 【その2】2012年11月9日
三國連太郎は、自らのプロダクションによる自主製作映画『台風』を製作・監督するにあたって、他社出演も認めるという東映の専属契約を本数契約に変更する。


三國連太郎『台風』顛末記 【その1】2012年10月18日
少し前のことだが、週刊誌に三國連太郎が老人福祉施設に入院していたという記事が載った。なにしろ高齢であるから、そのようなこともあるかもしれない。残念なのはもう三國さんに取材をする機会がたぶん永遠に失われてしまったということで、取材の約束をし、準備をしていた者としては残念な思いにとらわれている。


「秘蔵ポートレイトで山田五十鈴を偲ぶ[抄]」2012年9月20日
雑誌「東京人」10月号(No.316)に山田五十鈴追悼記事を書いた。


鈴木英夫<その15> 『九尾の狐と飛丸』をめぐって[後篇]加筆・訂正しました
1963年に大映を退社した中島源太郎は、まもなく企画会社〈グエン・プランニング・センター〉とアニメーション製作会社〈日本動画株式会社〉を設立する。〈グエン・プランニング・センター〉の社章の〈G〉は、〈源太郎〉のイニシャルの〈G〉でもあった。


鈴木英夫<その14> 『九尾の狐と飛丸』をめぐって[前篇]2012年7月10日
和製フィルムノワールの名手である鈴木英夫と長篇アニメーションという組み合わせは、なかなか想像しがたいものがある。それも題材は九尾の狐とくると、意外な感じがする。わたしが聞いた鈴木本人の回想によると、日本動画製作の長篇アニメーション『九尾の狐と飛丸』(68)に鈴木が参加することになったきっかけは、大映の後輩である増村保造の依頼によるものだったという。


【新藤兼人が語る三隅研次】2012年6月4日
新藤兼人監督が亡くなった。この人は寿命というものとは無縁に延々「最後の作品」を撮り続けるものと思っていたが、百歳にしてついに天寿を全うされた。謹んでご冥福をお祈りしたい。
以下は三隅研次関係者にわたしが断続的にインタビューした未発表の文章のうち、新藤兼人監督に取材した部分である。


『ある女の影』覚え書き2012年5月8日
1965年にTBS系列で放映された「近鉄金曜劇場 岡田茉莉子アワー」は、女優の名前を冠にしたテレビドラマ・シリーズの中でも、特に毎回質の高いドラマで評判になった。しかし、残念ながら作品が残っていないため、現在言及されることがほとんどない。


やっとかめ、名古屋のマキノ(外伝)2012年3月28日
マキノ中部撮影所の跡地に2年振りに行ってみた。名古屋にあったこの撮影所については、2年前に当コラム「名古屋のマキノ(前篇)」で少し書いた。今回は、もう少し詳しく当地を探訪してみた。


ガミさんの遺言2012年2月2日
“ピンク映画界の三國連太郎”と呼ばれた名優・野上正義の一周忌を過ぎて、1カ月後にこの文章を書いている。野上正義が亡くなったのは2010年12月22日だった。ピンク黎明期から47年にわたって活躍し、生涯に出演した映画は、一般作も含めて千本以上と言われるが、正確な数を知っている者はない。


『お荷物小荷物』とその時代 後篇2011年12月21日
大好評のうちに『お荷物小荷物』の放送が終了したあと、続篇である『お荷物小荷物・カムイ篇』がはじまったのは、前作から10ヶ月後の1971年12月4日のことだった。以後、1972年4月15日の最終回まで全20回放送され、前作同様に実験的な手法で領土問題に斬り込んだ姿勢が話題になる。しかし、『沖縄篇』が最終回のみ現存しているのに、残念ながらこの『カムイ篇』のテープは一話も現存していない。


『お荷物小荷物』とその時代 前篇2011年11月10日
やはり『お荷物小荷物』のことを書いておくことにする。今よりもっと年をとって恍惚の人になってしまう前の備忘録代わりである。なぜなら、佐々木守脚本による、この伝説的テレビドラマは、番組を収録したビデオテープが貴重であった時代のスタジオドラマであったから、第1シーズン「沖縄篇」の最終回をかろうじて残すだけで、やりくり用として残りは全部マスターテープごと消されてしまい、もう見ることができないドラマだからだ。


駅弁才女と呼ばれたマルチタレント2011年8月9日
東日本大震災で甚大な被害を出した岩手県大槌町の沖合にある蓬莱島は、井上ひさし原作のNHKドラマ『ひょっこりひょうたん島』のモデルとされる。未曾有の津波の襲来で、陸と島を結ぶ防波堤は流され、島にあった弁財天の鳥井と灯台が破壊された。でも、毎年、恒例になった4月29日の「ひょうたん島祭り」は今年も開かれたそうである。


1973年の鈴木清順と加藤泰、または個人的な体験2011年6月28日
最近、ネットサーフィンをしていたら、とあるツイッターにこんなやりとりがあった。「封切りのとき見ているという自慢する輩がいる」というような内容で、「それがどうした」とタンカを切って、フォロワーたちもそれに賛同しているというものだ。そうかなあ。同時代体験だけに安住してそれを相対化できないでいる、ボケた“ノスタル爺”はどうかと思うが、「どうした」と言って切り捨てればいいってものじゃないという気がする。物事は時代と切り離すことで見えるものと、同時代だから分かるものがあると思うが、そんなの当然ではないか。


続・合作映画の企画2011年4月27日
キング兄弟が日本で見たであろう『ゴジラ』(54)に触発されて、イギリスで着ぐるみのよる怪獣映画『怪獣ゴルゴ』(61)をユージン・ルーリー監督によって製作したことはすでに述べた「ある日米合作映画の企画」。そのときに書き忘れたので補足しておこう。『怪獣ゴルゴ』の監督ユージン・ルーリー(またはルージーン・ロウリー、ユージーン・ローリーなど多数の表記あり)の代表作といえば、映画史上初のアトミック・モンスター映画『原子怪獣現わる』(53)がよく知られており、レイ・ハリーハウゼンの本格的デビュー作になったこの作品こそが、『ゴジラ』の原型になったという説がある。


「東京人」3月号特集「青春の深夜ラジオ放送」のおまけ2011年2月9日
私もエッセイを2本寄稿しました。「笑福亭鶴光のオールナイトニッポン」をマクラにして、「愛川欽也のパックインミュージック」「私のロストラブ」「深夜版ラジオ漫画」「セクシー・オールナイト」とへと至るH系の深夜放送についてのエッセイと、ベリカードについてのコラムの2本。このほか、本誌は新旧のパーソナリティへの取材や各界著名人のエッセイなど充実した内容となっており、なかなか読ませる特集になっている。


ある日米合作映画の企画2010年12月28日
なにかと話題の『SPACE BATTLESHIP ヤマト』であるが、その生みの親ともいうべきプロデューサーの西崎義展の怪死には正直驚いた。個人的にはヤマトではなく、吉田喜重が監督するはずだったメキシコとの合作映画の裏側についていろいろ聞きたかったが、それも果たせずに終ったことを残念に思う。


黒澤明のエロ映画 解決篇2010年9月21日
1951年9月10日、第12回ヴェネチア国際映画祭で黒澤明の『羅生門』(50)がグランプリを受賞する。その知らせは12日には日本の各新聞に掲載されて一躍日本中の話題となる。

黒澤明のエロ映画 第一篇2010年8月20日
黒澤明は1910年3月23日生まれだから、今年2010年は黒澤明生誕百年にあたる。そこで世界のクロサワの知られざるエロ映画についてちょいと書いてみよう。「エロ映画の黒澤明」ではない。正真正銘「黒澤明のエロ映画」である。

日劇ミュージックホールと映画人2010年7月20日
前回の「ピンク映画と実演」でストリップに言及したので、せっかくだから今回は日劇ミュージックホール(以下「日劇MH」と略す)と映画人の関わりについて書いてみよう。といっても、日劇MHは正確にはストリップではなく、トップレス・レヴューと言ったほうが正しい。

ピンク映画と実演 名古屋死闘篇2010年6月9日
マキノ雅弘が京都で『此村大吉』を撮影していたときのエピソード。「十三ぐらいの女の子が、パーッと前に出てきて、<いい男やなあ鶴田浩二、オメコしてくれ>と、ずばり面とむかっていうんです」(「山上伊太郎の世界」、竹中労、白川書院、1976年)。なるほどねえ。さすが関西、子供までストレートやなあ。

名古屋のマキノ(第三篇)2010年5月17日
最初はマキノ雅広生誕百年のときに、「なんでマキノ中部撮影所があった名古屋が盛り上がっていないんだろ?」と思ったのがきっかけであった。そのとき、昔から漠然と考えていた疑問も再浮上してきたので、ちょうどいい機会だからと、一面識もない地元の映画史家に電話をして、いろいろ質問をしてみたのである。

名古屋のマキノ(第二篇)2010年4月19日
前回はマキノ中部撮影所について書いたが、実は名古屋にはさらに知られていないもうひとつの撮影所があったというお話。その撮影所については、意外にも大逆事件に関与したある社会主義者が深く関わっているので、今回はそれについて書こう。

名古屋のマキノ(前篇)2010年3月12日
今年2010年は、名古屋開府400年記念だそうである。つまり名古屋城ができて400年経つということ。それを記念して、地元では荒俣宏をゼネラル・プロデューサーに招いて(名古屋出身じゃないのに!)、いろんなイベントも企画されていると聞くが、ちょっと肝心なことを忘れていませんか、ってんだ、てやんだ、こんちきしょう!(江戸弁かい!)。名古屋といえば、かつてマキノ雅広が所長を務めたマキノ中部撮影所があった場所ではないきゃーも。ああ、それなのに、それなのに。

清水宏をめぐる3人の監督2009年4月23日
田中眞澄・木全公彦・佐藤武・佐藤千広篇「映畫読本 清水宏」(フィルムアート社)の増補改訂版が出版された。初版は2000年だったから、9年目の改訂となるわけだが、今回は初版時の校正ミス等を直した上に、佐藤千広による年譜が大幅に加筆されている(なのに表紙には「増補改訂版」の記載なし。嗚呼!)。 ちょうどいい機会だから、トリビアとして清水宏をめぐる3人の監督について書いておきたい。

鈴木英夫〈その13〉 インタビュー:竹中和雄(美術監督)2009年3月31日
2008年にアテネフランセ文化センターで「鈴木英夫映画祭2008」という上映会とシンポジウムがあったので、『その場所に女ありて』の上映とシンポジウムのある最終日、『悪の階段』で助監督を務めた小谷承靖監督と、『その場所に女ありて』で美術監督をなさった竹中和雄さんをお誘いし、ニュープリントで上映された『その場所に女ありて』を鑑賞していただいた。今回のインタビューはその直後、竹中さんに改めてインタビューを申し込み、実現したものである。

鈴木英夫〈その12〉 インタビュー:新藤兼人2009年2月26日
今回は日本映画界で最高齢の現役監督・脚本家として活躍されている新藤兼人さんにインタビューした。最新作『石内尋常高等小学校 花は散れども』(08)でも衰えを知らぬ創作意欲は圧倒的で、今年97歳を迎える人とは思えない若々しさには脱帽するばかりである。

鈴木英夫〈その11〉 インタビュー:土屋嘉男2008年3月11日
鈴木英夫監督の『殺人容疑者』(52)という作品は、これまでほとんど情報のない幻の作品だった。 キネマ旬報によれば、出演者欄には《劇壇人》とあるだけで、どうやらまだ文化座に籍があった丹波哲郎の主役デビュー作で、土屋嘉男も映画初出演しているらしいということ、製作会社の電通DFという会社が電通映画社の前身であるらしいこと、鈴木英夫は途中から《船橋比呂志》なる人物と監督を交代したこと、そして脚本の構成を担当したのは長谷川公之であること。

「妄執、異形の人々Ⅱ」特集の裏側で2007年12月11日
2007年、シネマヴェーラ渋谷で行われた特集上映「妄執、異形の人々Ⅱ」の裏側について、少し書いておきたい。

鈴木英夫〈その10〉 インタビュー:司 葉子2007年11月08日
今回は、鈴木英夫作品でキャリアウーマンからメロドラマのヒロインまで、多彩な役柄を演じ、監督に最も信頼されていた女優、司葉子さんにお話を伺った。 司さんに鈴木英夫監督についてお話を伺うのは、同人誌「映画監督 鈴木英夫」(1995年初版)以来、3度目になる。日本映画を代表する名匠たちの作品に数多く出演なさった大女優だというのに、こちらの不躾な質問にも、ときおりいたずらっ子のように「うふふ」と笑って、気さくに答えてくださる司さんの人柄が、鈴木監督も好きだったに違いないと思う。

9月のCS・BSピックアップ2007年9月14日
映画がナマモノだと思うのは、たとえば現在邦画界を席巻している難病純愛ものブームは、あと10年もすればあれは一体何だったのか理解できない現象になっているに違いないということである。それでいえば、現在の視点から往年のヒット映画シリーズを考えた場合、私にとってその最大の謎は、三益愛子主演の「母もの」シリーズが何本を作られ、大ヒットしたという事実である。
鈴木英夫〈その9〉 インタビュー:池部良2
前回は、池部良さんにインタビューし、『殺人容疑者』にクレジットされている《船橋比呂志》こと蜷川親博について、お話を伺った。少し時間があったので、池部さんが『不滅の熱球』(55)、『大番頭小番頭』(55)、『脱獄囚』(57)、『黒い画集・第二話/寒流』(61)の計4本の鈴木英夫作品に出演なさっていることもあり、池部さんが企画され、鈴木英夫監督とはじめて一緒に仕事をされることになった『不滅の熱球』についても伺った。

鈴木英夫〈その8〉 インタビュー:池部良1
先ごろ、インタビュー本「映画俳優 池部良」(志村三代子、弓桁あや編、ワイズ出版、2007年刊)が出版されたばかりの池部良さんにインタビューを行った。

8月のCS・BSピックアップ
映画生誕100年を迎えた1995年、BFI(でしたっけ?)の音頭取りで、世界各国の映画生誕100年記念映画が製作された。その中のフランス篇ではゴダールがフランスの映画生誕100年記念実行委員長であるミシェル・ピコリに向かって、「不思議の国のアリス」のマッド・ティー・パーティをもじって、「どうして映画100年を祝う必要がある?」「毎日祝えばいいじゃないか」と言う。まったくその通りだと思う。
7月のCS・BSピックアップ
冷奴がおいしい季節になってきた。豆腐は栄養満点で簡単に調理ができて、日本酒の肴にはもってこいの完全食材だ。日本酒と豆腐を愛した監督といえば、成瀬巳喜男と中川信夫である。とくに中川信夫の場合、監督の愛した酒と豆腐にひっかけてその命日(1984年6月17日に死去)を「酒豆忌」と呼ぶことになっている。
6月のCS・BSピックアップ
チャンネルNECOの「鈴木英夫特集」の最後を飾る「その場所に映画ありて 鈴木英夫の世界part3」は、全部で5本の作品を放映する。 製作年代順に、『殺人容疑者』(52)、『危険な英雄』(57)、『社員無頼・怒号篇』(59)、『社員無頼・反撃篇』(59)、『悪の階段』(65)というラインナップ。
5月のCS・BSピックアップ
先月に引き続いてチャンネルNECOでは鈴木英夫特集がある。第2回は大映作品『蜘蛛の街』(50)を含む6本を放映する。まず鈴木が得意としたミステリ/スリラーのジャンルからは出世作『蜘蛛の街』、東宝時代の代表作の1本でもある『彼奴を逃すな』(56)、三橋達也東宝移籍第1作『非情都市』(60)の3本。風俗コメディのジャンルからは『チエミの婦人靴(ハイヒール)』(56)、『青い芽』(56)、『大番頭小番頭』(55)の3本の計6本。
4月のCS・BSピックアップ
チャンネルNECOが4月から連続3ヶ月にわたり、「鈴木英夫の世界」と題して鈴木英夫監督特集を行う。やったー! 放映作品は全部で16本! 鈴木英夫は、日本映画の全盛時代にプログラム・ピクチュアの監督として過したわりに、全部で共同監督作品も含めて全部で36本の監督作しかない寡作の監督だったので、実にその半分が放映されることになる。私も未見の作品があるので、このチャンネルNECO関係者にはこの英断に深く感謝!!
鈴木英夫〈その7〉 インタビュー:長谷川公之(脚本家)
脚本家の長谷川公之さんにインタビューしたのは、フィルムセンターで長谷川さんが脚本を執筆した『青い指紋』(52/青戸隆幸)という珍しい作品の上映があったときのことである。

3月のCS・BSピックアップ
2月はサボってしまってすみません。 さっそくチャンネルNECOのラインナップから。ザ・シリーズ」では、千葉泰樹監督&加東大介主演の『大番』4部作が登場。作品は順に『大番』(57)、『続大番・風雲篇』(57)、『続々大番・怒濤篇』(57)、『大番・完結篇』(58)という並びで、正確にはシリーズというより連続ものである。
1月のCS・BSピックアップ
最初は定番になった日本映画専門チャンネルと衛星劇場の共同企画から。「日本映画の巨匠たち」と題して、黒澤明、小津安二郎、溝口健二、成瀬巳喜男、木下惠介といった巨匠の作品を放映する。
12月のCS・BSピックアップ
12月は、日本映画専門チャンネルと衛星劇場の共同企画として、「スタア銀幕歌合戦~映画で蘇る昭和ヒット歌謡曲」特集が放映される。ちょうど東京国立近代美術館フィルムセンターでも1月から「日本映画史横断② 歌謡・ミュージカル映画名作選」という特集上映が行われるので、この機会にまとめて歌でつづる日本映画史を堪能したい。
鈴木英夫〈その6〉 対談:鈴木英夫×木村威夫
今回は、鈴木英夫監督と美術監督の木村威夫さんの対談を掲載する。鈴木監督がまだお元気な頃に収録したもので、未発表のものである。当時は鈴木さんの大映時代の作品が観られる日が来るなんて思いもよらなかったため、資料の少ないそれらの作品について、あまり多くを語ろうとしない鈴木さんに、それらの作品を未見のこちらしても質問をする取っ掛かりがなくて、尋ねあぐねていたのである。そこで、大映時代にコンビを組んだ木村さんにご連絡を差し上げて、渋谷の喫茶店で対談をしていただくことにした。

11月のCS・BSピックアップ
今年は三島由紀夫生誕81周年にあたる。昨年は、生誕80周年を記念して、行定勲監督によって『春の雪』が映画化された。三島の小説をもとに作られた映画は、三島自身が監督した『憂国』(66)を含めて、全部で30本ある。WOWOWと日本映画専門チャンネルでは、三島由紀夫特集が放映される。
鈴木英夫〈その5〉 再録『蜘蛛の街』を見て(江戸川乱歩・島田一男対談)など
まず朗報から。10月のチャンネルNECOに大映時代の鈴木英夫作品『恋の阿蘭陀坂』(51)、衛星劇場に『目白三平物語・うちの女房』(57)が登場する。前者は長らく上映プリントがなかった超レア作品。しかしながら、鈴木監督の決して得意ではないジャンルの作品で、本人も「失敗作です」という一語であまり多くを語っていなかったが、評価は観てからでも遅くない。別に傑作じゃなくてもよい。つまらなくなければ、めっけもんである。なんてたって(おそらく)半世紀ぶりの登場なんだから。

10月のCS・BSピックアップ
橋本忍といえば、日本映画を代表する脚本家。黒澤明の脚本執筆における世界にも類のないユニークな共作スタイルは、全盛期の黒澤映画のおもしろさを支える原動力になったことは衆目の認めるところである。
鈴木英夫 <その4>
今回は監督の岩内克己さんにインタビュー。岩内さんは、50年に東宝、東映、宝塚映画の契約演出助手になり、53年、東宝助監督部に入社。『六本木心中・愛して愛して』(63)で監督昇進。『エレキの若大将』(65)、『レッツゴー!若大将』(67)、『ゴー!ゴー!若大将』(67)、『リオの若大将』(68)、『ブラボー!若大将』(70)といった「若大将」シリーズのほか、『砂の香り』(68)というATGもかくやという作家性の強い作品も発表している。

9月のCS・BSピックアップ
先月に引き続き、一周忌を迎えた石井輝男の話題から。石井プロダクションの報告によれば、身内のいなかった石井監督の墓をどこにするかという段になり、監督に縁の深い網走市に相談したところ、財団法人網走監獄保存財団(博物館網走監獄)が協力してくれることになり、博物館敷地内に映画『網走番外地』に関する石碑と展示コーナーを設置することになったそうである。8月5日に納骨と一周忌法要を済ませたあと、翌6日には監獄博物館の門前に出来た「映画『網走番外地』石碑」の除幕式が行われたという。
8月のCS・BSピックアップ
石井輝男監督が亡くなって、早いもので8月12日で1年になる。チャンネルNECOの「ようこそ「新東宝」の世界へ」では、その1周忌を記念して石井輝男監督の新東宝時代の作品が放映される。『鋼鉄の巨人』(57)、『天城心中・天国に結ぶ恋』(58)、『猛吹雪の死闘』(59)、『黄線地帯(イエロー・ライン)』(60)の4本。う~ん、正直なところ少々つらい作品もあるが、この中で唯一のカラー作品『黄線地帯』はライン・シリーズの1本として出色の出来。石井映画の美神・三原葉子のコケティッシュなグラマラスぶり(定番になったHなダンスもあるよ!)、殺し屋に扮した天知茂の色悪ぶりと歯の浮くようなキザな科白の数々を楽しみたい。
鈴木英夫〈その3〉逢沢譲
久しぶりにキャメラマンの逢沢譲さんにお会いした。1995年に鈴木英夫研究会を結成したとき、鈴木監督を囲む親睦会にお招きして以来だから、実に11年ぶりになる。年賀状のやりとりはしていたので、お元気であることは承知していたが、つい生活などというくだらないもののために忙殺され、ずいぶんとご無沙汰してしまった。

7月のCS・BSピックアップ
夏になると、「戦争映画」というのはいつのまにか定番になったようである。いくら「反戦の誓いを新たに」といったところで、「夏といえば怪談」という業界の、今やルーティンとなり果てた思考停止的安易な発想と同様に、こうなると戦争映画も季節モノのジャンルに変わりなく、邦画各社は今年も商魂たくましく戦争映画のDVDを続々リリースしている。その点ではこの数年のCS・BSも変わりない。といっても、プログラム・ピクチュアの消滅、ビデオやDVDの普及といった映画環境の変化によって、映画に季節感がなくなった昨今からすると、これも夏の風物詩といったら怒られるかな?
鈴木英夫〈その2〉金子正且
金子正且さんは、東宝の大プロデューサー、藤本眞澄の片腕と活躍し、小津安二郎の『小早川家の秋』(61)、木下惠介の『なつかしき笛や太鼓』(67)、成瀬巳喜男の『女の中にいる他人』(66)、『乱れ雲』(67)といった巨匠の作品から、1960年代には主に単独で新人監督の作品をプロデュースし、東宝の〈新しい波〉に一役を買ったプロデューサーである。鈴木英夫監督とコンビを組んだ作品は11本で最多。鈴木監督とは一緒に旅行に出かけるような間柄で、鈴木監督が亡くなるまで公私共に親しくお付き合いのあった方である。

6月のCS・BSピックアップ
偉大な監督の条件とは、名前に隠されているのではないかと思ったのは、2000年にフィルムセンターで“偉大なるK”と題して、黒澤明、木下惠介、小林正樹の特集上映が行なわれたときのことである。この3人に「四騎の会」の残りのひとり市川崑を加えると、見事に4人ともに「K」という頭文字がその名前に潜んでいることが分かり、たかが名前ごときなどとは言ってはいけないのではないかと思ったのである。
鈴木英夫〈その1〉鈴木英夫自作を語る
昨年末、NHK・BSで鈴木英夫の代表作『彼奴を逃すな』、『非情都市』、『その場所に女ありて』、『悪の階段』の4本が連続放映された。続いて、WOWOWではもう一生観られないのではないかと思っていた『蜘蛛の街』がふいに放映されるという〈事件〉があり、その興奮も醒めやらぬうちに、今度は、チャンネルNECOで『危険な英雄』が放映された。こうなるともう〈事件〉ではなく、〈奇跡〉といってもよいかもしれない。

5月のCS・BSピックアップ
先ごろ、日本映画監督協会が創立70周年を記念して、著作権を映画監督の手に奪還するアピールを宣言したプロパガンタ映画『映画監督って何だ!』(伊藤俊也)が製作され、特殊な形ではあるけれど、一般の観客にも公開された。
4月のCS・BSピックアップ
今村昌平といえば、かつては一時代を築いた巨匠であり、存命する日本の映画監督の中では大島渚と並んで、最も世界に名の知られた映画監督の一人。にもかかわらず、どうも最近は映画ファンに人気がないようで残念だ。カンヌ映画祭でパルムドールを受賞した『楢山節考』と『うなぎ』が今村にとって最良の作品ではないということが逆に災いしているのかもしれない。好みの問題はさて措いて、やはりイマヘイといえば、日活時代がいちばん充実していたのではないだろうか。
3月のCS・BSピックアップ
アカデミー賞の影響なのか、3月のBSはアカデミー賞関連の作品が並び、毎年同じ作品ばかりで新味がない。テレビ局の改編前の時期という事情もあるのだろう。それにしても、ビデオショップにしろ、BSにしろ、アカデミー賞かカンヌ映画祭ばかりをピックアップしてあまりにも芸がない。今日、どこの映画祭もディレクターの独断と偏見で特徴づけられていることを勘案すれば、今後、多チャンネルのデジタル放送時代を生き残るためには、番組の編成にももっと個性的な独断が求められるのではないかと思う。
日活ロマンポルノ
ジェネオン エンタテインメント(株)から、2~3ヶ月に一度のペースで日活ロマンポルノの名作が続々とリリースされている。 毎回、15本ずつというハイペースでリリースされる作品には、初パッケージ化される作品も多く、「最後のプログラム・ピクチュア」であった日活ロマンポルノの全体像を俯瞰できるラインナップとなっている。