(承前)
『怪談』(65年、小林正樹監督)と『飢餓海峡』(65年、内田吐夢監督)のスタッフは、三國連太郎が自ら製作・監督する『台風』の撮影を優先するので、たびたび三國待ちになるスケジュールの調整に頭を悩ませることになったが、肝心の三國は「今村昌平の映画に接する態度、描写、ベルイマンの作品のつきつめかたがお手本だ」(「映画芸術」1965年1月号、「独立プロ二つの誤算」)とうそぶきながら、『台風』の撮影に没頭していた。
ベルイマンに触発されて
この時点で三國は今村昌平の作品には出演していないから、純粋に今村が監督した作品(『にっぽん昆虫記』や『赤い殺意』)を見て感心していたのだろう。問題はイングマル・ベルイマンの名を三國がどうして挙げたのかだが、脚本にはなかった女性の自慰の場面を急遽思いつきで加え、三木弘子に演じさせたのは、実は三國がベルイマンの『沈黙』(63年)を見て、イングリッド・チューリンが自慰をする場面に刺激されたからだった。
『沈黙』を配給した東和は、日本のスクリーンに初めて登場した自慰シーンを宣伝文句に使い、自慰に耽るイングリッド・チューリンが喘ぐ写真をポスターに使用した。だがこれを映倫が黙って見逃すはずがない。映倫は倫理規程六「性及び風俗」の6「一般に隠蔽すべき習慣として認められる事柄の描写や、観客の嫌悪を買うような下品な描写は避ける」という条項に該当するとして、東和側に強硬に修正を求め、本篇の自慰シーンが約30秒切除されることになった。したがってポスターにあるカットは当時公開されたバージョンにはない。
三國がこのバージョンの『沈黙』を見たのは、『台風』のクランクイン直前かインしたあとの空き時間だったと思われる。『沈黙』が日本でロードショー公開されたのは1964年5月16日(東京)。成人映画として封切られたが、外国製のポルノ作品やいわゆるエロダクション映画と呼ばれる国産ピンク映画以外で初めて女性の自慰が描かれた芸術作品として、マスコミが大きく取り上げ話題になっていたので、ロードショーが終わったあとの下番舘や地方映画館でも上映が続いていたのだった。
〈彼はイングリット(原文ママ)・ベルイマン監督の『沈黙』をみて姉の自慰行為シーンにすっかり感心、『台風』の中でも雑貨店の未亡人(三木弘子)の自慰シーンをとり入れた。これがすばらしい出来ばえ、三國監督は「思いつきはテレずに生かせ」とニヤニヤ。(略)フィルムは回しっぱなしに近い消費家。完成作が1万1千フィートなのに3分の1の段階でなんと4万フィートを使っている。(略)いつも愛用しているのがポラロイド。ワンカットごとにとって、それをつぎのシーンの参考にする。スプリクターのあやふやな記憶をポラロイドで確実にしているわけだ。山本学、岩本多代ら若いスターは「前の演技がわかってやりやすい」と、ポラロイド・カメラの使用は好評だ。〉(「中日スポーツ」1964年9月3日付)
〈撮影の進行ぶりは全体の半分を撮り終えた。このなかで、映画のトップシーンに近い後家(三木弘子)のオナニーシーンが撮影された。三木は雑貨商の一児をかかえた後家さん。女盛りなのにセックスの発散がない。周囲では村の青年・山本学、村娘の志村たえ子の性のたわむれに刺激されて、一段と体がほてり真夜中、自慰行為にふける場面だが、その夜、三國監督がふとアタマにひらめいて急きょこのシーンを設定することになった。「果たしてこのショッキングシーンはドラマの中に必然性はあるんですか――」と演じる三木はこばんだが、論議の末、三國は「台風のため断絶された村の状況と、貧しい環境ゆえにそこから脱出できない女の欲求をこのシーンで表現したい」と力説。とうとう三木を口説いてOKさせてしまった。三國の強引さと人柄がそうさせたわけだ。撮影はロケ隊が泊まっている旅館の一室。それも午前2時、スタッフはオフリミットにして三國と前田カメラマン二人きり。三國と三木が打ち合わせの末、三木がワンピース一枚でタタミの上にペタリと座り、右手が、両脚の奥にのびて……そして悶え、エクスタシーの表情演技をやってのける。カメラは三木の真上からねらうのだが、雨の降るガラス越し……という設定。水とガラスでぼかしてその異様さをカメラに収めた。三國はかねてからベルイマンの『沈黙』のつきつめ方を手本にしている――といっていただけに、このシーンの描き方も多分にベルイマンをねらったのでは――と評判されているが、わが意を得たり……と三國はニンマリ。〉(「内外タイムス」1964年9月1日付)