『私はシベリヤの捕虜だった』を製作したシュウ・タグチこと田口修治は、1905年3月、東京市・本所で開業医・田口潔矩(きよのり)の三男として生まれた。
田口家と修治
長男の桜村は、ハリウッドからキャメラマンのヘンリー小谷を連れ戻り、松竹キネマの基礎を築いた、松竹キネマ撮影所の初代所長だった人。この人はほかにも『名金』や『終篇ジゴマ』などの連続活劇のノヴェライズ作家としても活躍したり、日本に帰国した早川雪洲のマネジメントみたいなこともやっていたらしい。そのほかの多彩な活動を含む彼の業績については、「映画論叢33号」所収の「田口桜村――謎の松竹キネマ蒲田撮影所長」(藤元直樹)に詳述されている。
修治のすぐ下の四男の守綱は黒柳家に養子に入り、ヴァイオリニストとして名を成し、東京交響楽団のコンサートマスターを務めた人。その娘が黒柳徹子である。黒柳徹子が書いた、戦後最大のベストセラーである「窓ぎわのトットちゃん」には、「アメリカで映画関係の仕事をしていた伯父」として修治について触れている。
修治は弟の守綱とともに日本橋の三越呉服店の小僧になる。将来は英語が必要になる時代が来ると予見し、仕事の合間を見つけて英語の勉強をし、のちの日本ニュース映画社のアメリカ特派員として働くことにつながる。修治がキャメラに興味を持つきっかけになったのは、18歳の頃、体を壊して仕事を辞め、保養していたときに起きた関東大震災の焼け跡で小型キャメラを拾ったことだったという。その後、フィルム現像所で働いたのを皮切りに、二十世紀フォックス、MGM系のファースト・メトロン・ニュースなどのアメリカのニュース映画会社2社の日本支社で働き、日中戦争中は同盟通信社(共同通信社の前身)のニュース・キャメラマンとして、主に中国戦線で取材。1939年、新聞社・通信社系のニュース映画会社の統合により、「社団法人日本ニュース映画社」ができると、初代ニューヨーク支社長になる。その任にあった1941年12月、日米開戦により、敵国人としてエリス島の収容所に収監され、二か月余りの収容所生活ののち、日米交換船で帰国した。そのあたりのいきさつは本人が書いた「戦時下アメリカに呼吸する」(昭和図書、1943年)に詳しい。
その後、ソロモン群島ニュー・ブリテン島のラバウル海軍航空隊で日本人として初めて空中戦の映像を複座式戦闘機の後部座席から撮影することに成功。敗戦の一年前には、日本ニュース映画社のフィリピン・マニラ支社長に赴任し、この地で敗戦を迎えた。そして敗戦から二年後に帰国した。