鈴木英夫〈その13〉 インタビュー:竹中和雄(美術監督)


『その場所に女ありて』
■美術助手からデザイナーとして一本立ちして


――東宝は他社に比べて師弟関係が希薄な会社だと聞いてますが、竹中さんが助手としていちばん就かれた方というと?

竹中 中古智さんと河東安英さん。それから松山崇さん。仰るように、東宝では誰か特定の人に師事して助手として働くということはなくて、助手会で決めて持ち回りで助手に就くんですけど、自然と流れみたいなものはありました。それでだいたい村木与四郎さんがチーフで、僕がセカンドというコンビが多かった。でも村木さんがデザイナーに昇進してからは、まもなく僕も一本立ちしたので、村木さんの助手として就いたということは一回だけだったような気がします。

――PCLの時代から美術監督をやっている北猛夫さんとかは?

竹中 北猛夫さんという方は、東宝のデザイナーには珍しいタイプで、技術者というより行政官というんでしょうか。たとえば制作部長をなさったり、上層部と折衝したり、予算を管理したり、そういう管理面に強い立場にいる人でした。だから僕よりも上の村木さんたちまでは一本立ちするときは、最初は北さんの名前を借りて連名でクレジットされるということが多かった。村木さんにしろ、阿久根巌さんにしろ、だいたいそうやって連名からスタートしているはずです。僕の時代になってからは、そういうのはなくなりました。東宝では最初まず3本は社員の身分でやって、4本目からは会社を辞めて社員から契約者になって仕事をするというシステムでした。

――鈴木英夫監督の作品では、小川一男という方がよく美術監督にクレジットされていますが、この小川さんという方は?

竹中 小川さんは鈴木さんと同じぐらいの世代の人で、系統的には松山崇さんの流れ。古澤憲吾さんの『日本一』シリーズをずっとやってらした。僕も二、三本助手で就いたことがあるはずです。

――そういった先輩たちの中で、竹中さん自身が最も影響を受けた美術監督というと。

竹中 そうですねえ。それぞれ全く個性が違いますからね。中古さんは非常に誠実な方で、ケレンがなくて、ストレートなデザインをなされる。松山さんは立体的なデザインが独特です。河東さんは同じ世代で、中古さんとは仲もよかったけど、デザインは正反対にいる人。思い切ったデザインを得意にされてました。壁一枚で何かサマになるような、単純化したデザインには独特のものがありました。中古さん、松山さん、河東さん、僕はそれぞれから影響を受けました。河東さんの晩年には、僕が河東さんの名前を借りて、河東さんの仕事をやってアルバイトをしたこともありました

――そういった美術監督の系譜というのは、東宝はプロデューサー・システムですから、プロデューサーの意向とか仲間とか、そういうものは関係しているんでしょうか。藤本眞澄派とか田中友幸派とか。

竹中 そういう部分は確かにあります。

――竹中さんの美術監督昇進の第1回作品は須川栄三さんの『「みな殺しの歌」より 拳銃よさらば!』(60)ですよね。助手から美術監督に昇進するのは会社からの辞令ですか。それとも誰かの推薦みたいなものがあるんですか。それにも助手会の影響力があるんですか。

竹中 基本はデザイナーとして東宝として契約している先輩がいますね。僕の助手時代は十数名いました。その人たちが助手の中からデザイナーに昇進させてもいいという人を推薦するわけ。たまたま僕がそれに引っかかった。僕よりいっぱい先輩がいたんですよ。逆に僕はびっくりして、とてもまだできないと思ったんだけど、須川さんが僕と同世代でもあったのでやる気になりました。

――『「みな殺しの歌」より 拳銃よさらば!』の美術は、昇進第1回にしては非常に大胆な美術でしたね。寺山修司ばりに時計ばかりが飾ってあったり、真っ暗なホリゾントにボクシングのリングだけがあったり。

竹中 (笑)。若気の至りです。無我夢中でやりました。監督が同世代だからやりやすかったというのが大きいんでしょう。。

――次の『若い狼』(61)は恩地日出夫さんのデビュー作で、恩地さんも同世代ですよね?

竹中 そうです。

――この作品は、『「みな殺しの歌」より 拳銃よさらば!』とは逆で、ロケが多い映画でした。望遠レンズで隠し撮りなんかしていた場面もあったと思います。

竹中 そうですね。夏木陽介と星由里子が上京する前の炭鉱の田舎は《炭住街》というんです。土門拳が撮った写真集で「筑豊の子供たち」という有名な写真集がありますが、そのイメージを狙いました。その《炭住》の荒廃した風景は身にぐっとくるものがありました。当時は集団就職とかいろんな事情があり、恩地さんは社会的な関心が強い人だからそのへんもやりたかったんじゃないですか。でもそれから何十年経って撮影所そのものが同じように荒廃するとは思わなかった(笑)。

――その次が谷口千吉さんの『紅の海』(61)で、続いて鈴木英夫さんの『その場所に女ありて』(62)になります。谷口さんも鈴木さんも竹中さんよりはずっと年上になりますが、同世代の監督よりやりにくいとかありますか。

竹中 その前に稲垣浩さんともやっています(『ゲンと不動明王』61)。若いのが出てきておもしろいなあということで使ってくれたんじゃないですか。やりにくいもなにもずいぶん可愛がってもらいました。息子みたいなもんだから。谷口さんはものすごくざっくばらんな方。大先輩なのにこちらの意見もよく聞いてくれました。

――稲垣さん、谷口さん、鈴木さん、それぞれ出自の会社は違うんですが、それによって美術部に指示するやり方とかクセがあるがあるとかは?

竹中 いや、それはないですが、稲垣さんは特別。あの方は自分で絵を描いてくるのが好きなの。

――スケッチを描いてくるということですか。

竹中 いえ、現場で。セットを組んでキャメラを据えてからイメージをふくらませていく。だからその余地がない完璧なセットを組んでしまうと機嫌が悪い。最初はそれを知らなかったから、「竹ちゃんはここから撮ってくれというメインのポジションをくれれば、もうあとは自分でやるから」と言われました。それが稲垣さんのスタイルでした。鈴木さんに関しては、そういうことはほとんど意識しませんでした。

――鈴木英夫さんは大映出身ですが、大映時代とフリーの時代はほとんどオールロケ。東宝に移籍されてからはセット中心の撮影に変化します。監督の狙いや撮影意図もあるでしょうけど、会社が美術費にかける予算の問題が大きいと思います。そのあたりについては。

竹中 他社のことはよく知らないんですが、その頃の東宝では極力セットに持ち込んでから撮るというのが当たり前でした。街まで丸ごと撮影所の中に作ってしまう。成瀬巳喜男さんの作品なんかそうですね。だから僕はそれが当然だと思っていました。

――それはセットの方が天候に左右されないし、撮影をコントロールしやすいということからですか。

竹中 プラスとマイナスがあるんです。セットで撮る利点は仰るとおり撮影をコントロー-ルしやすいということですね。成瀬さんの作品はセットで撮るのが適しているんです。よく伝説的にどこまでがロケで、どこからがセットか分からないと言われますね。ロケで撮った方がいいんじゃないかと思う作品まで当時はセットを組んでいた。しかし、それは撮影の効率という面で無視できないと同時に作品の内容や作家のスタイルにかかわることでしょう。

――ちなみに竹中さんが成瀬組に就いた作品は?

竹中 いちばん初めは松山さんがデザインした『夫婦』(53)で、あとは中古さんと『晩菊』(54)、オムニバスの『くちづけ』(55)、『驟雨』(56)『妻の心』(56)……そんなもんかな。



■鈴木英夫監督の書斎に建築雑誌があったので驚いた


――竹中さんが鈴木英夫組で就いた作品は?

竹中 『その場所に女ありて』と『爆笑野郎・大事件』(67)。助手時代に阿久根さんの『殉愛』(56)、河東さんの『花の慕情』(58)に就きました。それぐらいだから僕はあまり鈴木さんと一緒にやっていません。

――晩年、僕が知り合った頃はそうでもなかったんですが、俳優さんに聞くと非常に気難しい人だという話ですが。

竹中 僕はそういう気難しいとかそういう印象は全然ありません。ただ助手時代の『殉愛』のときだったかな。確か八千草薫の家のセットだったと思います。撮影の前日、鈴木さんが下見に来られたときのことです。ドアの枠のデザインが気に食わない。額縁のちょっと出っ張った装飾が要らない。もっと平凡な枠に直してほしいと注文がついたのです。すでに出来上がっていたいくつもあるドアの枠を徹夜で造り直したことがあります。しかし、そんなことは後にも先にも一度だけで特別に気難しいということはなかったと思います。

――『殉愛』は撮影中に鶴田浩二が撮影の合間に自分の主宰する野球チームで試合をして、ケガをして撮影を中断していますよね。ほかにもいろいろ波乱があったみたいで。

竹中 だいたい鶴田浩二と鈴木さんが合うはずがない。

――鈴木さんは逢沢譲さん以外のキャメラマンと組むと、揉めることが多いというのもあるそうですね。

竹中 (笑)。僕もよく知りませんけど、たとえば岡本喜八ちゃんだって宮川一夫さんのような名手と組んだ『座頭市と用心棒』(70)のときは全然合わなかった。そういうようにいくら名人であっても、相性というのはありますね。相手が巨匠や名人であれば、個性も強いし、ぶつかりあうということは往々にしてあるんじゃないでしょうか。

――『その場所に女ありて』は、事前に鈴木さんから注文はありましたか。

竹中 何もないです。

――脚本をお書きになった升田商二さんは、東宝の宣伝部のデザイナーらしいですね。それで仕事で出入りしていた電通をモデルにして脚本を書かれたとか。

竹中 そうですね。それで僕も鈴木さんと下見のためにいろんなところを見て歩きました。そもそも広告代理店という仕事が今ほど有名じゃないから、何をしている会社なのか、当時はよく分からない。だから雰囲気を摑むために徹底的にロケハンはしました。狙いとしては司葉子が働いている広告代理店と、宝田明が働いている広告代理店と2つのセットをメインに作らなくちゃならない。それでまず銀座にあった昔の電通を見学に行ってスケッチをとりました。それから神田にあった博報堂にも行きました。それからほかにも二、三、小さな代理店も見て回りました。あとクライアントが出てきますね。製薬会社が2つ。老舗の会社と新興の会社と。山之内製薬とかなんだかんだと見て歩きました。とにかく先ほども言ったように、当時は広告代理店というのが何をしているところかよく分からない。代理店の中に連絡部というのがあるんだけど、それが何なのかも分からない。実はそれは営業のことなんだけどね。確かにクライアントとの連絡をしているわけだから、連絡部には違いないんだけど、広告代理店ではそういう呼び方をすることすら知らなかった。そういう時代でした。

――いちばん特徴的なのはデザイン室ですね。ほかの会社にはない部署ですから。

竹中 司葉子が働いている広告代理店のデザイン室はまったくの創作です。デザイン室そのものも見学して回ったんだけど、あまり印象に残らなかった。だから外国の建築雑誌からちょっとアイデアをいただいて。

――オフィス照明はタングステンではなく蛍光灯ですよね。録音ノイズが出てしまうし、画調もグリーンぽくなってしまう。それで撮影時には蛍光灯をタングステンに交換するという話をよく聞きます。

竹中 基本的にはセットだからそういう面倒な作業はありませんでしたけど、ロケセットの場合はそういうようなこともやらなくちゃならなくて大変でした。でも、そういう問題も今は割合簡単にクリアできるようになりましたね。

――司葉子が働く代理店のデザイナー室の天井に銀紙みたいなものが貼ってありました。

竹中 銀紙よりはもっといい材質の、メタリックな感じのする合板を貼りました。

――それは鈴木さんの指示ですか。

竹中 いや、僕のアイデア。僕は監督と打ち合わせをするときにクドクドと言わない方なんです。こっちが提案することを監督が分かってくれるだろうという前提がある。だから大体こちらが意図しているものを半分でも絵として活かしてくれりゃいいやと思っているんだけど、あの場面は僕の意図を鈴木さんがよく汲んでくれた。あれは空調のダクトの下に貼り付けてあるんですけども、デザイン室で働く人を映しこんだり、無人のデザイン室を反射で間接的に見せたりして、デザイン室の場面になるシーンの冒頭で鈴木さんはうまく使ってくれた。

――ピローショットみたいなものですね

竹中 普通ならビルの外から、真夜中なのにデザイン室だけ煌々と電気が点いているというような外景を使うとかしますよね。それじゃありきたりでおもしろくない。それで僕が天井のダクトの下に貼り付けたメタリックな板を使って、鈴木さんはそういう状況をうまく表現してくれたんです。時間経過も反射の間接的な描写だけで分かるようになっていますね。

――反射した画像にデスクだけしか映ってなかったら、もうデザイナーはみんな帰ったあとだと、すぐに分かりますね。

竹中 そうです。撮影が終わって照明を落としますね。たぶんそのときたまたま鈴木さんは部屋から漏れてダクトの下に反射している光を見て思いついたんじゃないかと思う。僕の意図を鈴木さんに説明しなくてもよく汲んで活かしてくれたんで嬉しかったです。一方の宝田明の方の会社は、電通がモデルで、窓を造らずにガラスブロックをクールな光の壁にして、無機質に並んだデスクや個室のプレートの奥行きに、確かパース(遠近法)をつけたはずです。『アパートの鍵貸します』(60、美術=アレクサンドル・トローネル)というビリー・ワイルダーの映画があったでしょう。あのオフィスの場面からヒントを得たんです。あの映画を観て僕はちょっとショックを受けて、ずっとやってみたいなあと思っていたんです。

――司葉子が働く代理店の表側はどこですか。

竹中 銀座の松屋へ行く通りだったと思うですが、そこに大沢商会という映画関係の会社があって、表はそこを借りて撮影しました。ちょうどその正面が銀行でした。ギリシャ神殿風の丸柱で飾りが並んでいる。セットではそれを窓の外に丸ごと作りました。あの頃はまだ発泡スチロールがなくて、全部石膏で少しミニチュアにして作りました。だからあれは書き割りじゃない。僕は成功したと思っているんだけど、カネがすごくかかって会社には怒られました(笑)。

――司葉子が酔っ払って歩くところはロケですか。

竹中 あれはロケ。数寄屋橋近くの泰明小学校の横で撮影しました。

――雀荘は?

竹中 セットです。

――東宝のサラリーマン映画を観ていると、必ず会社の屋上が出てきて重要な舞台になりますよね。それは東宝のお約束なんですか。

竹中 いや、鈴木さんの場合はちょっと特別なんじゃないでしょうか。あの人、屋上好きなんです。それともうひとつは、世の中というかオフィス街を俯瞰で見渡すという視点の導入ですね。

――今ではなくなってしまいましたが、屋上から見える宣伝用のバルーンもアクセントになっていますね。僕も子供の頃の繁華街の空はみんなあんな感じでした。

竹中 森永だったかな。特殊な形をしたバルーンがありましたよね。鈴木さんはこの仕事で僕のことを気に入ってくれたんでしょう。ウチに連れていってくれたんですよ。何の用があったわけじゃないと思うし、どういう流れでだったか忘れてしまいましたが、ただひとつだけ鮮明に覚えているのは、鈴木さんの書斎の蔵書の中に「新建築」という月刊誌があったことです。あれ、毎月購読していたんですね。まず監督で建築雑誌を定期購読するような人はいないでしょう。それでこの監督は要注意だな、と(笑)。

――でも、激しく意見のやりとりがあったり、特別指示があったわけではないんでしょう?

竹中 まったくなかったです。逆に飲みに行こうと誘ってくれた。鈴木さんはお酒飲めないのに。銀座に何回か連れて行かれました。その中のひとつが、店の飾りでロウソクが並んでいて、蝋が垂れているバーがあった。それが司葉子が宝田明に陥落する前に連れていかれるバーのモデル。僕は鈴木さんがバーに行くような人だとは思わなかったからびっくりしたんだけど、ある日、銀座のバーの若い女の子二人を引き連れて六本木に遊びに行ったことがありました。まだ六本木に米軍相手のパンパンがいる頃の話ですよ。その中にキャンティってあるでしょ。

――米兵の慰安所ですね。

竹中 そう。そこへ行って、そこからみんなで女の子のアパートにしけこんで、ポーカーをやったり。鈴木さんってそんなふうに見えないでしょ。だから硬いだけの人じゃなかったんですよ。そういう一面も見せてくれました。

――セットの図面は読める方でしたか。

竹中 そりゃ監督なら読めるでしょう。『その場所に女ありて』では、鈴木さんに言われて直したところがあります。司葉子のアパートのところ。あれは当時僕が入っていた1DKの公団住宅をモデルにして図面を引いたんです。奥にベッドがあって、ダイニング・キッチンがあって、手前が玄関。図面を見て、すぐに鈴木さんに入り口の位置を正面から横手にしてくれと言われました。理由は聞かなかったけど、そのときはっとしたのは人物が入ってくるとき、ドアを開ける段取りを省略して、すっと入ってくるように見せたかったんじゃないかと。図面を見せたときにすぐにそういう反応が返ってくるので、セットについてはよく分かっている人だと思いました。そんなことぐらいかなあ。現場であれこれと変更を言われたことは一切ありませんでした。

――『その場所に女ありて』はフジカラーのフィルムが使われていましたが、美術デザインをするときにそれぞれのカラー・フィルムの特色も考えるのですか。

竹中 もちろん考えます。でも、どのメーカーのフィルムがいいとか指定はできませんよ。しかしちゃんとそれぞれのフィルムの特性は知っておかなければならない。さっき蛍光灯の話がでましたが、当時のフジはブルーは強く出たけど、グレーの発色はよくなかった。ちょっと青味がかっている。そういうことも考慮してデザインするんです。

――竹中さんは『その場所に女ありて』で日本映画技術賞の美術部門を受賞されていますね。

竹中 これは毎日映画コンクールと並んで大変古くからある賞で、賞をいただいたことは嬉しかった。受賞理由を聞いたら、やはり天井に貼り付けたメタリック板が効いたらしい。

――『爆笑野郎・大事件』についてはいかがですか。

竹中 あれは企画そのものが鈴木さん向きじゃなくて、何か恥ずかしそうというか申し訳なさそうというか、そういう顔で、僕らにあんまり真面目に考えなくてもいいよと言われました。本人としても不本意だったと思います。だからロケハンで九州に行ったときは豪遊しました(笑)。用もないのに湯布院まで行って温泉につかったりね。長崎から北九州一帯まで鈴木さんや中井朝一さんたちとグルリと遊び回って帰ってきました。

――結局この作品が鈴木さんの最後の映画で、これ以降、辞令で鈴木さんはテレビ部に移動になりますね。竹中さんにとって、鈴木さんは一回り上なので、同世代の須川さん、恩地さんと比べると、また接し方も違ったと思うのですが、総括していかがですか。

竹中 そりゃ、須川さんや恩地さんは同世代だし、二人とも鼻っ柱が強いからケンカもしたけど、はっきり物を言うからやりやすかった。村木忍さんが美術をやった須川さんの『君も出世ができる』(64)なんか僕もちょっとお手伝いしたけど、あれは今観てもすごい。鈴木さんはやはり年上なので、須川さんたちみたいに腹を割って話すということはなかったけど、あまり一緒にやっていないのに、先ほども言ったようにずいぶん可愛がってもらいました。鈴木さんの『その場所に女ありて』は僕にとっても代表作のひとつだと思っています。今でも、渋谷のコーヒー店では鈴木さんの定席だったテーブルが、その主を待っているように見えます。

2008年8月20日、祖師谷大蔵にて
インタビュアー・構成:木全公彦