名古屋のマキノ(第二篇)
前回はマキノ中部撮影所について書いたが、実は名古屋にはさらに知られていないもうひとつの撮影所があったというお話。その撮影所については、意外にも大逆事件に関与したある社会主義者が深く関わっているので、今回はそれについて書こう。

その前に映画勃興時代の名古屋の映画ジャーナリズムについて瞥見しておこう。 地元の映画史家である伊藤紫英の分類によると、名古屋の映画史は6つの時代に分けることができる。

1.常設館以前(1897~1907)
2.大須・万松寺時代(1908~1941)
3.戦争暗黒時代(1941~1945)
4.終戦復興時代(1946~1949)
5.栄町・広小路時代(1950~1954)
6.名古屋駅地区時代(1955~ )

付け加えておくならば、7として1980年代以降の「シネコン時代」というのを入れたいが、とりあえず1と2について駆け足で以下に補足しておく。

名古屋の映画初お目見えは、1897年2月28日、中区末広町の末広座が18時から報道関係者を招待してエジソンの開発したヴァイタスコープを上映したのが最初である。これは荒木和一という興行師が翌日の3月1日から興行するのに先立ったお披露目上映会であった。その2ヶ月後の4月24日、中区桶屋町にあった新守座で、今度はリュミエールのシネマトグラフが公開される。日本映画史では、最初に上映されたのはシネマトグラフ、次いでヴァイタスコープであるから、名古屋ではこの順序が逆になったということである。その年に開場した御園座でも、早くも9月には活動写真の興行が行われている。最近評伝が出版された「頗る非常大博士」こと駒田好洋も定期的に来演したようだ。

1908年になると、大須観音境内に名古屋で初めての常設映画館、文明館ができる。続いて、電気館、太陽館、世界館とできて、演劇専門であった港座が映画専門館に転身。しばらくすると、そこから東に歩いて10分ほどの万松寺新開地にニコニコ館(のちに帝国館と改称)、常盤座等、続々と映画館ができ、戦後まで大須・万松寺地区が東京における浅草六区の役割を担うことになる。ここまでが2の時代の大正時代の大須・万松寺時代の前期。1926年の昭和元年からは、映画が本格的に大衆娯楽の地位を得ていくにつれて、大須・万松寺の興行街がさらに賑わいを迎える後期ということになる。


ついでだが、1980年代に入るまで名古屋は大都市にもかかわらず、俳優を除き、ほとんど映画監督やスタッフを輩出していないが、一時的にこの地に住んだ人は多い。加藤泰もそのひとり。1916年、神戸に生まれた加藤泰が父親の実家である名古屋に移り住んだのは、1924年である。加藤が生涯の師とあおぐ伊藤大輔の映画を初めて見たのは、大須の港座で上映された『続大岡政談・魔像第一』(30)である。その頃、加藤泰は西区則武町に住んでいたから、いちばん近くの繁華街は円頓寺通りで、そこにあった豊臣館、芦辺館、二葉館、新明館といった映画館に、小学生から中学生の頃はよく通ったと、1983年3月5日に名古屋シネマテークで行われた講演で語っている(「加藤泰、映画を語る」収録)。なるほど、それだからこその『緋牡丹博徒 お竜参上』(70)なのである!

映画勃興期から無声映画全盛時代にかけて、名古屋の映画ジャーナリズムの世界では、名古屋新聞、新愛知新聞などの地方新聞の文芸欄のキネマ論壇、各映画館のプログラム「ミナト」、「チトセ」といった各映画館のプログラム、そして名古屋の映画愛好者による映画雑誌など早くから活発だったらしい。だが、たとえば映画雑誌の寄稿者は名古屋だけでなく、東京、神戸、大阪からも寄稿者があり、互いに交流を図っていたものの、映画史家の牧野守も指摘するように、名古屋に限定したローカル制を保持し、全国に進出しなかった(できなかった?)という特異な部分があった。


「中京キネマ」

「キネマ文藝」
名古屋における最初の本格的な映画雑誌は、1923年3月に創刊された「中京キネマ」である。編集兼発行人は名古屋新聞の映画欄担当の柄沢広之。創刊号にはヘンリー小谷も寄稿しているが、地元の古田昂生、里見香生、田中仙丈などが健筆を振るっている。しかし翌年の5月、柄沢広之が大阪毎日新聞に転出したため、廃刊。1925年、第2次「中京キネマ」が創刊される。発行人は名古屋新聞で柄沢の後任になった殿島蒼人。同人に古田昂生、加藤英一、社友に里見香生、石巻良夫。1927年に「キネマ文藝」と改題。執筆陣に、やがて中央にも進出する大内秀邦、久江京四郎、伊藤紫英等。すぐに再び「中京キネマ」に戻して、1930年頃まで続いたらしい。
ほかにも伊藤紫英が発行した「映画王国」(1923年創刊)、「キネマ王国」(1924年頃創刊)、「三等席」(1927年創刊)、「逆光線」(昭和初期創刊)、「顔」(1933年創刊)、「映画研究」(1934年創刊)、「シネ・アート」(1934年創刊)などがあるが、いずれも短命に終わった。


さて、前置きが長くなったが、「中京キネマ」に寄稿していた石巻良夫のことである。当時「名古屋新聞」の記者であり、創刊まもないころの「キネマ旬報」にも執筆する映画評論家でもあった彼こそ、マキノ省三が名古屋に作った撮影所と並び、短期間であるが名古屋に撮影所を作った人なのである。そして彼は同時に、大逆事件の折り、事件に関係した無政府主義者として取り調べを受けた名古屋派を代表する社会主義者なのであった。

石巻良夫は、1886年10月1日、愛知県岡崎市に生まれた。早稲田大学に進学し、社会主義に接する。1903年、早稲田大学を中退し、名古屋に帰省し、民雄社という出版社を興すが長く続かず、地元の「扶桑新聞」に入社する。まだ19歳であるというのに社説の主筆記者という待遇であったという。1906年あたりから、石巻は社会主義を説く記事を書くようになる。彼は紙上で、日露戦争を批判し、疲弊した経済の責任を政府に突きつけ、統制経済の無意味さを説いた。こうして石巻良夫は、名古屋を代表する社会主義の理論家になっていく。
しかしあくまで彼は青白きインテリにしかすぎなかった。1909年、無政府主義の啓蒙運動をしていた箱根太平台林泉寺の住職、内山愚童(1911年、大逆罪に連座して死刑)が名古屋を訪れて石巻良夫に会ったときの様子が「幸徳事件 大審判判決文」の中にある。
<「東京の同志者は政府の迫害に苦しみ、幸徳、管野等は暴力革命を起す計画をなし、紀州の大石もまたこれに与り、大阪方面にも三、四の同志ありて大石と連絡成れり。暴力革命には爆裂弾の必要あり、幸徳の宅には外国より爆裂弾の図来り居り、横浜の曙会や紀州の大石等は爆裂弾の研究をなし居り、幸徳、管野は爆裂弾あらば何時にても実行すべしと言い居れり、一朝革命を起せば至尊を弑せんよりは先ず皇儲を害するを可とす、この地の同志者の決意如何」と説き、もってその同意を促したれども、また志を得る能わず>
まあ、要するに理論先行のひ弱いインテリの悲しさ(実際、石巻は病弱で、学者タイプであった)、結局はひるんだのだろう。同じ証言で、愚童は「石巻は実行の人ではなく、理論だけの主義者」と語っている。
ところが、大逆事件(1910年発覚、1911年刑執行)がおこると、そのあおりを受けて、石巻の著作「労働運動の変遷」「原始的共産制」は発禁、石巻自身も別件逮捕される。ここで石巻はあっさりと社会主義を捨てると約束する。結局、彼は起訴を免れるのだが、これを転向とみるのでなく、脱落または挫折とみなす学者も多い。

1914年、不景気の中で物価の高騰に対して庶民の怒りがくすぶる中、かねてより名古屋の鉄道料金が高いことがマスコミを巻き込んで論議になり、その結果、不満を募らせた名古屋市民約5万人以上が電車への投石をはじめ、市内の各地で、電車会社の施設、本社社屋、役員宅への投石・放火・破壊等されるという、いわゆる「電車焼打事件」が起こる。事件は陸軍名古屋第五師団が鎮圧するが、当時「名古屋新聞」の記者として経済欄を担当していた石巻は、大いに関心を持ったものの、かつての社会主義者として無力感を感じて新聞社を退社。
その後、名古屋の財界人浅井竹五郎の世話で、名古屋銀行集会所の嘱託として振替係に転身する。彼が映画に興味を持つのはこの頃である。なにしろ語学は得意で、とくに英語、フランス語はかなり堪能。かたっぱしから外国の映画文献を読み漁り、「キネマ旬報」をはじめとする映画雑誌に寄稿し、「活動写真経済論」や「欧米及日本の映画史」、「発声映画の知識」などの本を上梓する。評論ではチャップリンの初期映画を取り上げたほか、異色なのは、彼は映画を経済活動の点から映画国富論として展開したことにある(「活動写真経済論」は「日本映画論言説大系(第2期16)」に収録)。傾向映画には言及はないが、「キネマ旬報」誌上では、寿々喜多呂久平の『雄呂血』(25)を高く評価し、心情溢れる批評を書いていることは書き添えておこう。
昭和初期には、石巻は財界人の協力を得て、名古屋市昭和区八事に撮影所を建設する。東京から新劇の役者や舞台俳優を招いて自主製作を行ったらしい。チャップリンに傾倒していたから、脚本・監督・美術まですべてを自分でこなしたうえ、ときには自ら主演もしたという。それらの作品の題名も内容もよく分からない。<私が名古屋でおいて動儉貯蓄宣伝の目的で、『希望に輝く』(全4巻)を製作したのは、大正13年4月であるが、つづいて14年8月には、愛知県生活課の援助の許に、花柳病予防宣伝の『青春の罪』が製作された。日活でも近く教育部を設けた>と、石巻自身が書いているらしいから、省庁の宣伝映画が多かったのだろう。劇映画も作ったらしいが、これもよく分からない。映画撮影所もあまり長く続かなかったようだ。

1935年、石巻は名古屋を離れて東京に一家をあげて転居する。古い知人を頼って、そのツテで松竹の城戸四郎の知遇を得て、しばらく広報の宣伝文やシノプシスを手がけて糊口としていたという。1945年、誕生日と同じ10月1日歿。享年59。戒名は「至誠院映光良禅居士」。

なお、大逆事件が東海地方の社会主義者たちに及ぼした影響は、柏木隆法編著「大逆事件の周辺―平民社地方同志の人びと」(1980、論創社)に詳しい。本稿の石巻良夫についての文章は、この書物に拠るところが大きい。

以下、つづく。

Text by 木全公彦