コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 近藤明男が語る三隅研次・増村保造のことほか   Text by 木全公彦
今回は『想い出を売る店』(85年)、 『ふみ子の海』(07年)、『エクレール・お菓子放浪記』(11年)を監督した近藤明男さんにお話を伺った。話は、学生のとき1本だけ助監督に付いた三隅研次監督のことから、師と仰ぐ増村保造監督、さらに勅使河原宏監督、自主映画界の異才にしてプロデューサーでもあり、本コラムでも取り上げた木村元保さんにまで及ぶ。

――近藤さんは早稲田の学生だった頃から大映東京撮影所で助監督して働かれています。そのきっかけから聞かせてください。

『ザ・ガードマン』1966年度版DVD-BOX
近藤僕は実家が京王線の下高井戸というところで、都立千歳が丘高校に通っていました。高校に入った頃から急速に映画が好きになって、名画座や近代美術館(フィルムセンターの前身)に通って、将来映画の仕事をやりたいなあと思って、どうしたら映画に仕事に携われるものかなと、いちばん手っ取り早いのはどこかの助監督になるのがいちばんいいわけです。たまたま下高井戸の僕のうちの何軒か隣に大映の助監督さんがいると聞いて、その人を訪ねていったわけです。それが高校2年生のときかな。それでなんとかならないですかと聞いたら、その人が昔は黒澤(明)さんにしろ、市川(崑)さんにしろ、大学なんか出なくても映画会社に入ることはできたし、助監督になることもできたけど、今は映画会社に入って助監督になりたいなら、少なくとも高校は卒業してせめて大学に入学してからにしなさい、それからもう一度来なさいと。まあていのいいお断りですよ。岡崎明という増村(保造)さんのチーフをやっていた人でした。それで僕は付け焼刃で勉強して、たまたま早稲田の教育学部に受かったものですから、もう一度岡崎さんを訪ねていった。そうしたらテストみたいなことをされました。大映の『ザ・ガードマン』というテレビ・ドラマをやってた人だったから、そのホンを書いてこいと。それで2か月ほどの間に脚本を書いて持っていったのかな。それから三隅(研次)さんが東京撮影所で1本撮ることになったが、そのチーフを自分がやることになったので、ついては学生を見習いに付けることはできるが、お金は出ないがいいかと言われて初めて助監督として付いたのが『雪の喪章』(67年)です。