田中眞澄・木全公彦・佐藤武・佐藤千広篇「映畫読本 清水宏」(フィルムアート社)の増補改訂版が出版された。初版は2000年だったから、9年目の改訂となるわけだが、今回は初版時の校正ミス等を直した上に、佐藤千広による年譜が大幅に加筆されている(なのに表紙には「増補改訂版」の記載なし。嗚呼!)。
ちょうどいい機会だから、トリビアとして清水宏をめぐる3人の監督について書いておきたい。
実のところ、どの監督も家柄のよい、ぼんぼん育ちで、独立プロを自ら興して映画を作ったことという共通点だけで、直接的には清水宏とは何の関係もない。だが、『私に近い6人の他人』じゃないが、知り合いを6人だか7人だかをたどっていくだけで世界中の人と知り合いになれるという方法をとれば、その関係性は簡単につながってくる。3人とも清水宏にたどりつくまで6人も必要ない。割合身近な関係なのである。
実相寺昭雄
実相寺昭雄
実相寺昭雄といえば、その特異な苗字から父方は僧籍の出身ではないかと言われているし、実際そうだったらしいが、今回は彼の母方について書きたいと思う。
実相寺昭雄は1937年3月29日、父・実相寺崇文と母・英子の長男として生まれた。崇文は外交官。英子が崇文と結婚する前の姓は《長谷川》である。その父親、つまり実相寺昭雄にとって、母方の祖父にあたる人の名は《長谷川清》という。ごくありふれた名前である。私たちの世代だと「別れのサンバ」や「黒の船歌」を歌う盲目のシンガーソング・ライターを思い出してしまう。字は違うが、そういう名前の自主映画作家もいた。それほどありふれた名前なのだ。
実相寺昭雄の母方の祖父にあたる長谷川清は、福井県出身の海軍大将であった。実相寺昭雄によれば、長谷川清が旗艦出雲に乗っているときに、実相寺昭雄が生まれたのだという。長谷川清は初孫の誕生を艦上でワインをあけて祝ったとのこと。ちなみに、日本海大海戦を描いた有名な絵画で、三笠艦橋に立つ東郷平八郎司令長官の後ろで測距儀を覗いているのが長谷川清である(帽子しか描かれてないが……)。
さて、実相寺昭雄はもともと映画監督志望であったが、TBSに入社し、鬼才ぶりを発揮するが、1970年、TBSを退社して、実相寺プロを立ち上げ、ATGと共同製作で初の長編劇映画『無常』を監督し、一躍注目を浴びる。まあ、「注目を浴びる」という言い方は、都合のいい言い方で、もっと端的にいえば当初は芸術エロ映画ということで、裸見たさに集まった客で賑わい、ATGはじまって以来のヒットを飛ばしたのだ。なにせ主演は11PMのカバーガールとしてヤング(死語)のオナペット(またも死語)として人気があった巨乳の司美智子だ(ちなみに実相寺自身は貧乳好きである)。さらにテーマは近親相姦。そしてエロとは相性のよいゲージュツ映画。かのように難解がウリのATGの本質は、ゲージュツ=エロだったのだ。
『無常』が公開されたのは1970年8月8日。長谷川清は初孫が映画監督としてデビューしたのだから、と劇場に出かけた。彼が『無常』を観て、どのような感想を抱いたかは定かではない。長谷川清が89歳の生涯を閉じたのは、その1ヶ月後の9月2日であった。葬儀の際、実相寺昭雄は「そんなふしだらなものを見せるから寿命が縮んだんだ」と、親戚中のバッシングを浴びることになる。しかし、そんなヤワなじいさんじゃなかったんだよ、と実相寺は回想する。晩年の長谷川清は、「サンデー毎日」のクロスワードパズルとパチンコのかたわら、懲りもせずにせっせと芸者さんたちに手紙を書いていたんだから、と。
どうやら孫の映画監督のDNAをたぐっていけば、この母方の祖父に行き当たるのではないかと思われるが、この人物は、つい最近も井上ひさしが書き下ろした芝居の中で取り上げられた。2003年に初演され、その後何度も上演されているこまつ座の「紙屋町さくらホテル」(演出=鵜山仁)というのがその芝居。
物語は1945年12月の巣鴨プリズンからはじまり、時間はその7ヶ月前の広島へと戻っていく。そして紡ぎだされるのは、広島で被爆した悲劇の移動演劇隊さくら隊を題材にした物語である。巣鴨プリズンに戦犯として拘置されている長谷川清は、広島に原爆が投下される約2ヶ月半前の広島紙屋町の紙屋町さくらホテルに、天皇の密使として赴いていたのだ。長谷川清を演じるのは辻萬長。彼が帯びた密命とは、敗戦の色濃い日本に近い将来訪れるであろう本土決戦に備えて、薬売りに化けて各地の様子を探ることであった……。
長谷川清が戦犯として巣鴨プリズンにいたことは事実だが、彼が密命を帯びて広島に赴いたという事実はない。井上ひさしのまったくの創作で、芝居は虚実織り込んで物語が展開する。さくら隊の丸山定夫も園井恵子ももちろん登場するが、長谷川清の役どころは、芝居の狂言回しといった感じだから、立派な主役の一人である。
実相寺昭雄はこの芝居を初演で観劇し、フィクションとはいえ、劇中の祖父があまりにも格好いいので面映く感じたという。
さて、長谷川清のキャリアを語る上で欠かせないのが、実質的には彼が最後の台湾総督であったということである。在任期間は1940年11月27日から1944年12月30日までで、そのあとは海軍大将である安藤利吉がその職を引き継ぎ、そのまま敗戦処理にあたった。台湾総督任免の年、長谷川清、61歳。その夏には母のみやいが亡くなっている。
そしてこの台湾総督府在職中のエピソードこそが清水宏の名を呼び寄せることになる。それは李香蘭主演で清水宏が映画化した『サヨンの鐘』のモデルになった実話である。世の中には清水宏や李香蘭に興味があると称していながら、本音はそうじゃない連中が多いらしく、日本語でも英語でも清水宏について書かれた論文は圧倒的に『サヨンの鐘』に関するものばかりという退廃ぶりだから、どうも映画そのものよりも映画は単なる題材にしか過ぎないようだ。やれやれといいたいところだが、したがって、この実話についてはちょっとググればわんさと出てくるから簡単に分かる。しかし、それではあんまりだから、このエピソードを簡単に書いておく(参照『台湾に生きている「日本」』、片倉佳史著、祥伝社新書、2009年)。
台湾北東部にあるタイヤル族の集落、リヨヘンは標高1,200メートルにあった。戸数60戸、人口342名というから、あまり大きな集落ではないことが分かる。ここにサヨン・ハヨンという少女がいた。父ハヨン・マイバオの四女で、親孝行で明るい少女だったという。1938年、この地に警察官として赴任していた日本人、田北正記(たきた・まさのり)のもとに召集令状が届く。召集を受けた田北は集合場所の南墺に向かうことになった。折りからの台風でリヘヨンを出発した9月27日は暴風雨となり、荷物運びを買って出たサヨンは川を渡っている最中、足を踏み外し、濁流に呑まれて不帰の人となる。この事件は、1938年9月29日付の台湾日日新報に「蕃婦(=高砂族の女性)渓流に落ち行方不明となる」という見出しを付けて、全土に伝えられた。
それから3年後の1941年2月。台北市の公会堂で高砂族青年団の皇軍慰問学芸会「将兵の夕べ」が開かれ、リヨヘン出身の青年たちがサヨンの遭難した模様を演じ、これに合わせて女子青年団員が哀歌を披露したところ、臨席していた第18代台湾総督であった長谷川清の目にとまった。彼は、この物語に感激し、サヨンを讃えて、高さ40センチ、直径30センチの真鍮の鐘をリヨヘンに贈った。これが《サヨンの鐘》である。
折しも戦時体制下で、台湾の皇民化を進めていた時代にとっては、このエピソードはまたとない愛国美談としてプロパガンタとして利用されることになる。1941年7月には「乙女の真心」という歌が発売されている。作曲・古賀政男、作詞・西条八十、歌・渡辺はま子という黄金トリオである。渡辺はま子の回想によれば(「長谷川清傳」、私家版、1972年)、長谷川清との初対面は、1937年、渡辺はま子が皇軍慰問団として中国を訪れたときだったという。当時の長谷川は台湾総督に着任する前で、補支那方面艦隊司令長官兼第三艦隊司令官である。
清水宏が監督した映画『サヨンの鐘』は、でっちあげられた愛国エピソードに基づいて、松竹、台湾総督府、満映の3社が共同製作した。脚本は長瀬喜伴、牛田宏、斎藤寅四郎である。主演は満映の大スター、李香蘭。先ほど揶揄したようにやたら論じたがる人がいる作品だが、映画の出来そのものはロケーション効果や子供の描写に清水宏らしさをわずかに感じさせる程度で、また主演の李香蘭にしても特異な役柄ゆえ彼女の持つ汎アジア的アウラを感じることはかろうじてできるとしても、映画の出来としては平均点以下だというのが正直なところだ。
しかし長谷川清が映画『サヨンの鐘』を見て不機嫌になったのは、その出来にあったわけではない。ヒットした「乙女の真心」が劇中に使われておらず、別の曲の差し替えになっていたことを不快に思ったらしい、と渡辺はま子は書いている。
ところがまだ先の話がある。清水宏が『サヨンの鐘』の撮影のため、台湾に赴き、松竹を留守にしていたあいだに、松竹では清水宏の横暴ぶりと女性関係を糾弾する決議が採択され、清水はこの映画完成後、事実上松竹を追放されてしまうのである。そして清水は戦後、独立プロ運動の先駆けとなる蜂の巣プロダクションを設立し、自主製作に乗り出す。しかし独立プロの運営は楽ではない。そこに清水の親友であり、先に新東宝とプロデューサーとして契約していた岸松雄の手引きで、新東宝で『小原庄助さん』をはじめとする7本の映画を監督しながら、蜂の巣プロで映画製作を続けることになった。
脆弱な基盤にあるといっても新東宝は大手の映画会社である。プロデューサー・システムの下で、スターの持つ興行力は無視できない。訓練された俳優より素人を好む清水は、さっそく『小原庄助さん』で主演の大河内伝次郎と衝突する。清水が新東宝で監督した作品の中で唯一素人に近いキャスティングが実現したのは、新東宝最後の作品『何故彼女等はそうなったか』だけである。映画に起用された何人かの新東宝スターレットの中に、田原知佐子の名がある。彼女はこの本名からのちに原知佐子に改名。彼女がやがて実相寺昭雄と結婚するのは、なにかの因縁か。
また、『サヨンの鐘』の脚本を書いた牛田宏については後述する。
おまけとして、長谷川清の家族を記しておく(「長谷川清傳」より転載)。
妻 長谷川 須磨子
長男 長谷川 肇
妻 京子(旧姓:市川)
孫 治美
孫 寿
長女 一枝
次女婿 実相寺崇文
妻 英子
長男 昭雄
三女婿 野間口光雄
妻 康子
長男 之雄
長女 純子
次女 正子
勅使河原宏
勅使河原宏も毛並みの面では実相寺の上をいく。いうまでもなく父は草月流の創始者・勅使河原蒼風なのだから。東京美術学校時代は日本画を専攻したが、卒業後は映画の魅力に取りつかれ、亀井文夫に師事したのち、1962年に勅使河原プロを設立して『おとし穴』で発表。長編劇映画第1作とする。この『おとし穴』はATG初の日本映画として配給された。
勅使河原には中断期間があるので、あまり映画の作品数は多くないが、実はテレビ作品であるためカウントされてない傑作が少なくとも2本はある。『新座頭市』の第25話『虹の旅』と第26話(最終話)『夢の旅』がそれである。DVDがリリースされているから内容は見ればよいから省略するが、オンエア時に見ていた記憶をたどって当時の感想を書けば、「唖然とした」。『夢の旅』の放映のときは、風邪で発熱していたせいか、まるで悪夢を見るような、次々に展開するシュールな映像に「ヤケクソ……」と呟いた気がする。すでに勅使河原の映画をほとんど観ており、熱心な勅使河原ファンだったにもかかわらず、テレビのゴールデンタイムでこのような作品が突如放送されることは、かなり事前から広報されていたとはいえ、座頭市の目が開くという設定と、展開するシュールな映像の数々はあまりにもまだ尻の青いシネフィル小僧にとっては不意打ちだった。生意気にも、これは視聴率低迷で打ち切られる番組に対して、勝新=勅使河原が仕掛けた最後っ屁だと考えたものだ。
勅使河原宏と勝新太郎の出会いといえば、安部公房の小説を映画化した『燃えつきた地図』だが、これは明らかに失敗作。しかしこの作品を勝新が勝プロで製作したことは、その後勝新自ら監督業に乗り出すのに大きな影響を与えた。
俳優・勝新太郎ではなく、監督・勝新太郎がいかに特異な作風を持っていたかは、改めて検証しなければならないが、ひとことだけ書いておくと、大映京都を代表する編集マン、谷口登志夫が『3×4X10月』の編集を担当したとき、明らかに武は監督としての勝新を意識していたと証言している。事実、武は次の『あの夏、いちばん静かな海。』では自らが編集を行うことになる。やがて武は勝新最大の当たり役であった座頭市をリメイクし、自身の最大とヒット作にする。
綾瀬はるか主演の『ICHI』の無惨さに懲りない日本映画界は、またも香取慎吾主演で『座頭市』をリメイクするそうだが、そういう再生利用がもたらす金属疲労ならぬ腐食までいっちゃっている近年の映画界の話はさて措き、慌てて清水宏に話題をつなげなくてはならない。
実は、下母澤寛の「ふところ手帖」の短い挿話を映画化したらどうか、と大映に持ちかけたのは清水宏だったのである。このことは、「座頭市DVD-BOX」の特典ブックレットに書いておいたのだが、その後何の反応もないので、繰り返し連呼しているが、やはり反応がない(泣)。どういうことなのか、再び書いておこう。
ブログならともかく映画雑誌でもベテランの映画評論家が「座頭市」の原作をよく調べもせずに、いまだに「原作はわずか数行」とか書いている記事を見かけるので、まずは改めて書いておきたい。原作は子母澤寛が「週刊読売」に1955年10月9日号から12月25日号に連載した歴史随筆集「ふところ手帖」所収の「座頭市物語」で、子母澤が取材先の下総国で聞いた話をまとめた、原稿用紙にして10数枚の短編である。
清水宏がそれを読んでいたのは偶然ではない。清水は大変な読書家であると同時に食通でも有名。ならば、子母澤寛のグルメ随筆「味覚極楽」の愛読者だったのは当然だった。彼はまた自らが映画化しようとしていた企画を友人の映画監督に譲るほど、映画の企画者としても先見性があった。有名なところでは長塚節の「土」を映画化するように内田吐夢に薦めたのは清水なのである(もっとも内田吐夢のほうは、自分からこれを映画化したいと希望したことはほとんどない)。
そんな清水だから、自宅を訪れた大映企画部の久保寺生郎に「座頭市物語」の映画化を提案したところで何の不思議はない。清水自身は、『何故彼女等はそうなったか』を最後に新東宝を辞め、溝口健二の誘いで大映に移籍したものの、『母のおもかげ』を最後に実作からは遠ざかり、1961年に買い求めた京都の自宅で悠悠自適の日々を送っていた(養蜂家の物語を映画化する企画はあった)ので、自分がこの盲目の居合い抜きの達人の話を映画化するつもりはない。大映で座頭市を映画化したらおもしろかろうと、自宅にご機嫌伺いと称して日参してくる久保寺に話しただけである。
いうまでもなく清水は按摩好きで、近年、不様にリメイクされた『按摩と女』に代表されるように自作にたびたび按摩を登場させている。余談だが、清水が松竹に在籍し、城戸四郎に可愛がられていた頃、松竹蒲田撮影所にはサングラスの所長付運転手がいて、「按摩」というあだ名があったそうである。その姿が子母澤の「座頭市物語」を読んだときに脳裏に浮かんだのかは定かでないが、久保寺生郎からその話を伝え聞いた大映の企画課長の奥田久司は、上司の企画部長である鈴木晰也にその話をあげることになった。話を聞いた鈴木の脳裏には、勝新太郎が演技開眼し出世作ともなったヒット作『不知火検校』が浮かんだのだろう。鈴木は企画に難色を示す社長の永田雅一を説得すると、映画化に向けての準備に取りかかる。
さっそく鈴木は、子母澤と交流があり、『不知火検校』の脚本家であった犬塚稔に「座頭市物語」の脚色を打診し、了承を取り付けた。犬塚の回想によると、企画部員が子母澤原作の「父子鷹」映画化の契約のため、子母澤を訪ねた際、「座頭市物語」映画化の契約も一緒にしてきたのだという。原作契約料は15万円という破格の安さであったらしい。しかし物語といえるほどのものがほとんどないので、犬塚が子母澤の原作の設定だけを生かし、脚本を書き上げた。したがって座頭市の直接の生みの親は犬塚稔である。
しかし大映から独立した勝新はあることで犬塚の逆鱗に触れ、ある時期を境に二度と仕事を一緒にすることはなくなる。一方、もともとの企画の発案者である清水宏からの提案を大映に持ち込んだ久保寺生郎は、この功績を勝新に認められ、勝が独立すると、大映倒産と同時に勝プロのプロデューサーとして招聘されることになる。
勝プロ第1作は『座頭市牢破り』。監督は山本薩夫。続いて製作したのが勅使河原宏監督の『燃えつきた地図』である。したがって勅使河原が座頭市を演出するのは当然のことなのである。
武智鉄二
なにかと映画史的に話題の『黒い雪』を高校生の頃に名画座で見てから、「話題性だけでおそろしく退屈」と断定しつつも、やはり『白日夢』の1981年版が話題になると、観に行ってしまって激しく後悔し、さらにビデオ黎明期にオリジナル裏ビデオとして流通していた『高野聖』が話題になると、繁華街の怪しげな店に出かけてベータテープでそれを買い求め、これまた激しく後悔し……武智鉄二というと、個人史ではそういうことしか思い出さない。確かに家柄はいいし、カネは持っている。話題性も抜群である。が、しかしね、拷問まがいの退屈さに耐えるこっちの身にもなってよ。『白日夢』の退屈きわまる場面の数々は、所詮勅使河原になれなかったシュールな描写の下手糞な模倣ではないか。なんでもまたこの『白昼夢』って、愛染恭子がリメイクするそうだね。嗚呼。なんでも今度のやつは、今岡信治が共同で監督しているらしいじゃんか!
ところが、最近、彩プロが武智鉄二作品を大量にリバイバルしたので、またも懲りもせず、誘蛾灯に集まる蛾のごとく、イメージ・フォーラムに出かけてしまい、全作観てしまった……(現在、ジェネオンからDVDが発売中)。やはり印象に変化はない。ただもう退屈であった。ところがひとつ発見があった。そこで発見したのは、プロデューサーとしてクレジットされている《長島豊次郎》の名であった。
実は、誰あろう彼こそは『サヨンの鐘』の脚本を書いた牛田宏の本名なのである。
長島豊次郎はキネマ旬報の「1976年版日本映画監督全集」によると、「1907年6月13日、福岡県企救郡曾根村下曾根に生まれ」となっているが、自伝「道」(創思社、1973年)によれば、台湾の嘉義生まれで、幼い頃、実父が家族を捨てて九州に戻り、以来、養父とともに、台湾の台南で暮らしたとなっている。それによると、母親が若くして急死すると、台北にある洋服屋の小僧として働きに出るが、それがイヤになって、14歳で九州にいる実父を頼って日本に渡り、実父の暮らす九州の小倉で実父とともに住んだという。この実父というのは、よほどルーズだったらしく、のちに徴兵されて長島は自分に籍がないことを知り、愕然として、父を恨むことになるが、それはまた別の話。
16歳になると、映画界にあこがれて家出同然で上京し、松竹俳優研究所に応募するが不合格。馬丁と新聞配達をしながら、牛原虚彦にコネをつけ、牛原の口利きで1925年松竹俳優研究所第1期生として、本人曰く「裏口で」入所する。そこでもっとも仲良くなったのは同期の笠智衆である。研究所を卒業後、俳優部で《牛田宏》の名でエキストラ程度の出演をするようになる。あだ名は「モーちん」もしくは「モーちゃん」。
自伝「道」には、この時代の巨匠、またはその後の名匠となる監督たちが助監督だった頃の若き日の様子が詳細に描かれていて興味深い。以下、引用する。
「その頃の監督陣は、野村芳亭が将軍様で、牛原虚彦、池田義信、島津保次郎が御三家として、威張っていた。しかし裏方の評判は、昼弁当に焼売が余計についたとか、特別の鰻丼が出たとかによって、御三家が、いっぺんに平大名になったりすることもあった。/助監督では、小津安二郎、清水宏、五所平之助、成瀬巳喜男たちがいて、清水宏は少しも動かないので銅像と言われ、五所平之助はよくこまめに働くので「チョコ平」と呼ばれていた。成瀬巳喜男の下に「す走りの仙太」と言われる助監督がいて、何もかも一人でやってしまうので、トップの成瀬が昼行燈の綽名をつけられて「飯だけ一人前に、人より先に食べやがる」と、昼飯を食べている姿に、痛烈な皮肉を浴びせられていた」
長島豊次郎自身はというと、鈴木伝明に擦り寄り、松竹を退社して不二映画設立しようという独立騒ぎでは一緒に行動を共にするように誘われたが、断ったという。後輩として大部屋に入ってきた三井弘次とも仲良くなった。親友の笠智衆は小津安二郎に重用され、それを脇から見てうらやましく思ったりする。やがて三井弘次も「与太者」シリーズで売れっ子になっていく。いつしか自分は所帯を持つ身になっていたが、一向に俳優として芽が出ない。見かねた妻が監督になるよう勧め、助監督試験を受けることを考えるようになる。が、ここでひと思案。
以下、再び「道」からの引用。
「俳優学校の裏口入門を思い出して、その頃、次期の所長だと言われるほどの勢力を持っている、清水宏監督に白矢を立てたが、相手は暴君ネロのような男で、傲岸不遜と傍若無人を一緒にした振舞いで、撮影所の中をのし歩いてる様子を思い浮かべて、どうしたら一番良い方法で、清水監督に手蔓で、裏口入門ができるかを考えた。/あの温和しい、誰からも好かれる笠(智衆)でさえ、何とかして清水宏に引き立てて貰おうとして、取ってくっつけたお世辞を言って、一喝されたことを知っているだけに、これは容易ならんことだと、身の引き締まる思いだった。/清水監督は、癇癪玉を破裂させる癖があって、このときにぶつかった者は、何もしないのに、容赦なく罵倒されるか、あの太い腕で張り倒された(略)/あるとき機嫌の良い潮時を狙って、助監督になりたいことをおずおず述べると、清水監督は、例の天邪鬼を出して、そっぽを向いて、返事もして呉れなかったが、二、三日して所長に呼ばれて、お前は助監督の試験に落第したぢゃないかと、威嚇されたり、揶揄されたりして、とにかく清水が責任を持つからという話で、俳優から助監督に転向することを許された」
こうして長島は、《牛田宏》の名義のまま、フランク・キャプラの『或る夜の出来事』の翻案で傑作といわれる『恋愛修学旅行』から、清水宏の助監督として働くことになる。
これから先は清水宏の暴君ぶりに再録するのもしんどい描写が続く。殴られ、二階から蹴落とされ、あげくのはては自分のしたウンコに鼻を押し付けて「ああ、いいウンコだ」と言え、と強要され……。しかし「こんなに怒ることを好きな監督は、映画界ではちょっと珍しい方だったが、それでいて他の監督たちに比べると、人気の点では一番であった。小津安二郎の、一歩も自分のふところに寄せつけない芸術家肌の冷たさ、気さくで、誰にでも愛想のいい五所平之助の、本音をださない老獪さ、島津保次郎の吝嗇からくる個人主義より、明けぴろげで、親分肌の気質を持っている清水宏に、近づく人が多かった」というのだから、いくら清水が親分肌であっても長島豊次郎も相当のマゾと体質といえる。だが、文章から察するに人間洞察は一流のものがあったと思う。
『サヨンの鐘』の脚本に参加したのは、彼が台湾育ちであったからだろう。しかし先述したように、清水が『サヨンの鐘』の台湾ロケから大船に戻ると、待っていたのは大船追放令であった。残された長島は、1946年、《牛田宏》の名前を返上し、本名の長島豊次郎で監督昇進を許される。第1回作品は、大部屋同然であった高橋貞二の初主演作でもある『物交交響楽』(2巻もの)。しかし城戸四郎に失敗作の烙印を押され、その後2作監督するが、いずれも失敗作ばかりだったようである。今度は監督の才能にも見切りをつけてプロデューサーに転身。フィルモを瞥見すると、メロドラマや番組を埋めるだけの2流映画ばかり手がけている中に、小林正樹の『泉』だけが異彩を放っている。
武智鉄二と知り合ったのは、松竹が配給した『紅閨夢』に名前があることからすると、おそらく松竹サイドからお目付け役として形だけのプロデューサーとして派遣されたのが縁になったかもしれない。しかし、武智監督、大映配給の『浮世絵残酷物語』にもその名があることから、武智とウマが合ったので武智に引き込まれたかもしれず、どうもそのあたりの事情は自伝「道」にはまったく書かれてないので、想像の域を出ないのが残念だ。どうもこの長島豊次郎という男、才能はなく、劣等感を抱え、そのことにいつも煩悶していたようだが、お人よしで人間を見る目は持っていたようだ。
長島豊次郎、1975年10月17日肝臓ガンで死去。晩年は親友だった笠智衆のマネージメントをしていた。笠智衆が自伝「俳優になろうか」(日本経済新聞社、1993年)に「小津さんばかりでなく、忘れられている清水宏監督をもっと評価してほしい」(大意)と書いた背景には、こういう理由もあったのである。
◎本文は2007年6月23日(土)にアテネフランセ文化センターで行われた「清水宏を再見する」で、講演した内容を書き言葉に直し、加筆して掲載したものです。