コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 俳優ブローカーと呼ばれた男【その四】   Text by 木全公彦
話は星野和平が日活の契約プロデューサーとして、新国劇とユニット契約しようと思い立った、その少し前に遡る。新国劇では、1953年4月に明治座の夜の部で立野信之の第28回直木賞受賞作「叛乱」を戯曲化して上演し、大当たりを取っていた。

2・26事件の映画化
「叛乱」は、日中戦争前夜の1936年2月26日、皇道派の青年将校らに引き起こされた軍事クーデター事件、いわゆる2・26事件の全貌に迫ったノンフィクション小説である。物語は、5・15事件後に陸軍内で起きたクーデター未遂事件の顛末を描くことから始まり、皇道派将校の一人ひとりの葛藤・苦悩する心理を点描しながら、陸軍内部の権力闘争と陰謀、天皇の統帥権の問題にも射程に取り込み、歴史的事件の全体像と核心に肉薄する。

映画化については、小説が発表された直後から、新東宝、松竹、大映、東映の4社間で原作の争奪戦が繰り広げられ、新東宝の手に落ちた。新東宝落札にあたって大きな役割を果たしたのは、当時東京プロを主宰していた星野和平の存在があったといわれている。星野はこのとき新東宝を通じて自らが製作した東京プロ作品を配給しており、新東宝との関係が深かった。オールスター・キャストの超大作である『叛乱』の映画化を実現するためには、星野の豊富な人脈が必要だったが、星野は独立プロデューサーであるから五社協定の枠外にいてなおさら好都合であった。さらにこの企画は、慢性的な累積赤字に苦しんでいた新東宝としても、久々にヒットを飛ばした『戦艦大和』(53年、阿部豊監督)に続く、戦争映画大作としてうってつけの作品だった。

こうして、『叛乱』のキャスティングは、新東宝の俳優とフリーランスの俳優を中心に、ユニット出演する新国劇の俳優、星野がマネジメントする木暮実千代、鶴田浩二ら、民芸、文学座、俳優座、第一協団等の新劇の俳優が加わって、オールスター・キャストが実現した。