鈴木英夫〈その7〉 インタビュー:長谷川公之(脚本家)






脚本家の長谷川公之さんにインタビューしたのは、フィルムセンターで長谷川さんが脚本を執筆した『青い指紋』(52/青戸隆幸)という珍しい作品の上映があったときのことである。

『青い指紋』を製作したのは、『水鳥の生活』(39)、『或日の干潟』(40)など下村兼史の一連の動物映画製作で知られる理研科学映画である。『青い指紋』は、警視庁の全面協力を得て、犯罪捜査の過程を一種の再現ドラマのように、セミ・ドキュメンタリー・タッチで描いた作品で、64分という中編ながら新東宝の系列で劇映画として封切られた。

ところが、この映画は、東映東京撮影所の超ロング・ヒットシリーズ『警視庁物語』全25作(25作中、最初の先駆作品『終電車の死美人』を除く24作が長谷川公之脚本)の原型であるにもかかわらず、観る機会も滅多にない作品で、資料もほとんどなく、そればかりか今ではその存在すら忘れ去られている。いろいろと知りたいこともあった。同時に、長谷川公之さんは、鈴木英夫監督作品では『殺人容疑者』(52/共同監督=船橋比呂志)の脚本を構成なさった人であり(脚本=船橋比呂志)、『危険な英雄』(57)にも潤色でクレジットされている(脚本=須川栄三)脚本である。ちょうどいい機会なので、不躾にも一面識もない長谷川さんに手紙を出し、フィルムセンターで『青い指紋』を観ていただき、いろいろとお話を伺うことにした。1998年3月のことである。

長谷川公之さんといえば、代表作としてまず先述の『警視庁物語』(55~64)の名があがる。セミ・ドキュメンタリー・タッチのリアルな刑事ドラマを確立した記念碑的なシリーズである。学生時代から久板栄二郎の門下生として脚本を書きながら、一方で警視庁刑事部法医学室に勤務する鑑識官出身という、長谷川さんの異色のキャリアが大きく活用された作品群といってもよい。実際、長谷川さんは日活の『機動捜査班』シリーズの立ち上げにも深く関与し、全14作中7作の脚本を担当したほか、『明日はどっちだ』(53/長谷部慶治)、『地獄の午前二時』(58/関川秀雄)、『ザ・ガードマン 東京用心棒』(65/井上昭)、『一万三千人の容疑者』(66/関川秀雄)など多くの犯罪捜査映画の脚本を執筆し、刑事ドラマの第一人者としてあまりにも有名なのである。また『陸軍中野学校』全5作中3作を担当した脚本では諜報活動を、『女賭博師』シリーズ全17作中5作を担当した脚本ではイカサマ賭博のやり口を、実際に警視庁時代に経験・見聞したことを盛り込み、リアリティを吹き込んだ。

さらに、テレビでは『七人の刑事』のほかに、『日真名氏飛出す』、『キイハンター』、『プレイガール』、『非情のライセンス』、『科学捜査官』、『新幹線公安官』といった人気シリーズ、『土曜ワイド劇場』のサスペンス・ドラマ、『密約』、『女の決算』などの実録犯罪ドラマなども手掛けた。また、犯罪捜査の知識を生かして、月刊「シナリオ」に約10年にわたって連載された、創作に必要な犯罪捜査の基礎知識と、著者の体験を生かした専門的重要項目を解説した創作資料事典<創作のための「犯罪捜査」事典>は、「犯罪捜査大百科」(映人社、2000年刊)として単行本にもなった。

しかし、意外や長谷川さんのフィルモグラフィを見ると、守備範囲は広く、『ひまわり娘』(53/千葉泰樹)、『幻の馬』(55/島耕二)、『あゝ特別攻撃隊』(60/井上芳夫)、『女は抵抗する』(60/弓削太郎)、『鉄砲伝来記』(68/森一生)という作品が並んでいて、その職人ぶりには驚くばかりである。日本シナリオ作家協会、日本推理作家協会の会員であると同時に、東洋陶磁学会の会員でもあり、美術評論の分野でも活躍された。美術書の編著作も多く、中でも内外の美術贋作事件を取材した「贋作 汚れた美の記録」(アートダイジェスト、2000年刊)は上質のミステリを読むおもしろさという、まさに多芸多才・博覧強記の人なのである。

インタビューはフィルムセンターで『青い指紋』を鑑賞したのち、1週間ほど経ってから渋谷の喫茶店で行われた。長谷川さんの話のおもしろさに引き込まれ、内容は『青い指紋』や『殺人容疑者』の件だけにとどまらず、デビュー当時の話まで及び、二人とも話に熱中し、気がつくと延々5時間もしゃべっていた。楽しい時間だった。その時間も二度と体験できなくなったのは残念なことである。長谷川さんが2003年6月12日不帰の人となったからである。

今回掲載するのは、キネマ旬報1998年7月上旬号・7月下旬号に発表したインタビューのダイジェスト版から、誌面の都合で大幅にカットした部分を復元し再構成したものである。


■  デビューまで


――長谷川さんはもともと映画がお好きだったんですか。

長谷川 新橋に前線座という映画館があって、そこで外国映画を毎週のように通ってよく見てました。ドイツのウーファの作品とか。『砂漠の花園』(36/リチャード・ボレスラウスキー)なんて作品はそこで見ましたね。だいたい見る映画は外国映画が多かったんだけど、日本映画では松竹映画のファンでした。いわゆる大船調というホームドラマだね。ぼくはその後、いろんなタイプのホンも書いたけど、今でも自分の資質の原点は大船調にあると思っています。それでぼくは医者を目指して千葉大の医学部に入学するんだけど、映画が好きだから各大学の映研仲間に声をかけて関東学生映画連盟という組織を作ったんだね。メンバーの中には、のちに映画評論家になった荻昌弘や監督になった中平康がいた。彼らは東大だね。二人ともかなりの理論家だった。そうしたら、時事通信社の映画芸能班というところから関東学生映画連盟に世論調査の手伝いをしてくれないかという依頼があって、東京を7地区に分けて映画館の前で観客の意識調査をしたんです。それは戦後の初の映画観客の動向調査になったんじゃないかな。それが縁になってぼくは時事通信の映画芸能班でアルバイトをやることになった。「君ならどういう企画をやりたい?」と編集長に聞かれたから、ぼくは「戦争に作られた映画の総決算をやりたい」と。国策映画を作った監督や脚本家、戦後反戦映画を作った監督や脚本家にアンケートをするのはどうか、と提案したんです。「それならやってみろ」というんで、警察官僚になった佐々淳行の兄貴が朝日新聞社に勤めていたので、彼とぼくと二人で手分けしてリストアップして、取材しに行ったんですね。ぼくは木下惠介さんの『大曽根家の朝』(46)に非常に感銘を受けていたものだから、その取材で木下さんにお会いしたとき、「映画の勉強をしたい」と言った。そうしたら、木下さんが『大曽根家の朝』の脚本を書いた久板栄二郎さんを紹介してくれたんです。そこでぼくは久板さんの主宰していた戯曲シナリオ研究会に入り、脚本の勉強をはじめることになったんです。でも、ぼくは脚本家としてやっていくには、現場のことも知らなきゃならないと思ったんですね。自分よがりのホンなら現場を知らなくても書けるけれども、なぜそういうふうにホンが変わっていくのかということは現場を経験しないと分からないと思ったんだ。そうしたら木下さんが「おいで」と撮影現場に呼んでくれて。それが『わが恋せし乙女』(46)の現場でした。非公式にですが、助監督見習いということで移動車を押したりもしました。そのあと『結婚』(47)という作品にも就いて、毎日撮影に通いました。ずいぶん勉強になりましたね。

――長谷川さんはまだ学生ですよね。

長谷川 そう。家を出るときはカバンを持って学校に行くふりをするんだけど、逆の方向の電車に乗って大船に行くんですね。その頃、大船の撮影所長は細谷辰雄という人で、ぼくが行くと「また君か」と苦笑して。ある日、所長室に呼ばれて細谷さんに意見されて「君は親が君をどうして医学部に行かせているのか考えたことがあるか」と言われたわけ。要するに映画は水商売だからコースに乗って歩いているやつが好んでやるもんじゃない、親の期待を裏切らずにちゃんと学業を修めろ、そのほうが将来の生活も保証されるからというわけさ。木下さんにも説得されて、まず学校はちゃんと卒業しろと言われて、『結婚』に就いたのは途中まで。

――久板さんの学校での勉強は続けられていたんですか。

長谷川  続けていました。それでぼくが書いたホンを久板さんがまずまず外に出しても恥かしくないだろうと判断して、木下惠介さんに読んでもらうことになった。木下さんは新人が書いたにしては悪くはないんじゃないかと気に入ってくれて、松竹で映画化されることになったんです。木下さんは「このホンを読ませたい監督がいる」というわけ。そのときはそれが誰であるか名前を言わなかった。後日、ぼくが木下さんに呼び出されて行ってみると、そこにひょろっとしたひねくれた感じの若い人がいたのね。誰かと思ったら川島雄三。木下さんは川島さんのことを「今はつまらない作品を撮らされているけど、ぼくはこの人は才能があると思う。だから黙ってこのホンを川島雄三に任せないか」と言うわけ。ぼくは川島さんの作品をそれまで見ていたけれども、ぜんぜん評価できなくて乗り気になれなかった。『深夜の市長』(47)とか『シミキンのオオ!市民諸君』(48)とかの頃だね。その頃は監督というものは好きな題材を撮るもんだろうと思っていたし、まさか会社から与えられた企画で撮らされているなんてこちらも知りませんでしたしね。でもせっかくのチャンスだし、木下さんもそう言うんだからということでお願いしたわけ。そうしたら松竹の脚本部から外部の新人脚本家を起用するなという横槍が入ってね。その映画化の話は流れちゃった。その頃、「映画春秋」という映画雑誌があったでしょう。編集部はキネマ旬報の中にあったけど、ちょっと小型でなかなかハイセンスな映画雑誌でした。その「映画春秋」に久板さんと木下さんが口を利いてくださって、ぼくのホンが掲載されることになった。多分、松竹で映画化される話が流れたんで責任を感じてくださったんでしょう。それが「映画春秋」の挿絵を描いていた野口久光さんのプロデュースで映画化されることになった。野口さんはその頃、新東宝で契約プロデューサーをしていましたからね。

――それは『東京のヒロイン』(50/島耕二)のことですか。

長谷川 そうです。それがぼくのデビュー作になった。まあ、実際は映画になるまでいろいろあっただけどね。それでぼくは野口さんに呼ばれて「君はこのヒロインの役を誰にやってほしいだ」と聞くんで、ぼくは外国映画みたいなつもりで書いたから、本当はキャサリン・ヘップバーンと言いたいところだったけど、日本映画だから「高峰秀子にやってほしい」と答えたんです。「監督は誰がいいか」というんで、ちょうどその頃、島さんは『グッドバイ』(49)という映画を高峰秀子主演で映画化して、それはソフィスティケイテッドな感じでなかなかよかったのね。それで「島耕二さんなら」と答えた。そのとき野口さんは何も言わなかったけど、あとから野口さんに呼ばれて「市川崑でやりたい」というわけ。ぼくはその頃たいていの日本映画は見てましたから、当然市川さんの映画も見ていたんだけども、『東宝千一夜』(47)とか『花ひらく』(48)とか『三百六十五夜』(48)とか全然評価できなかった。そうしたら野口さんもあきらめてぼくの希望を入れてくれて島耕二さんが監督することになった。ただ高峰秀子は無理だというんだね。契約の関係とかいろいろあったんでしょう。それでその頃、島耕二さんと熱愛中だった轟夕紀子が主役をやることになった。ぼくは轟夕紀子が若い頃に出た『暢気眼鏡』(40/島耕二)なんて映画を見ていてなかなかいいなあと思ったけど、もうその頃はぼくらから見ればオバハンだもんね。ちょっと太ってきていたしね。まいったなあと思ったけど、こちらもまだ新人だしね、それ以上は抵抗できなかった。

――長谷川さんが脚本を書いた作品では、封切りは『東京のヒロイン』より『君と行くアメリカ航路』(50/島耕二)のほうが先になっていますね。

長谷川 それはね、『東京のヒロイン』の撮影を銀座でやっていたときに、お昼にラーメンを食べに行ったのね。それは外階段を上がっていくビルの上にあるラーメン屋で、食事を済ませて帰るときに、轟さんが階段から落ちて尾骶骨を折って1ヶ月入院することになって撮影中止になったんです。ただその間スタッフを遊ばせておくわけにいかないんで、急遽野口さんが代案で出してきたのが『君と行くアメリカ航路』だった。急いで撮影に入らなくちゃいけないから、「3日でホンを書け」と。ぼくはプロになった途端、そういう現場を経験したということになりますね。野口さんは音楽方面に顔が利くから灰田勝彦に話をつけて、相手役は新東宝で売り出し中だった香川京子でやることになった。香川京子のデビュー作『窓から飛び出せ』(50)は島耕二さんの監督だったからね。あとはキューバン・ボーイズとか当時人気のあったジャズ・バンドを野口さんの顔でズラリと揃えてね。最初野口さんはカラーでやると言ってたんだけど、会社が穴埋めで作る映画にそんな贅沢はいかんということで反対されて結局モノクロでやることになったんだけど、野口さんとぼくで抵抗して、パートカラーで撮ることになったんです。水着のコンテストの場面があるんだけど、審査員の坊屋三郎が眼鏡をかけると、ズラリと並んだ水着美女たちがカラーになってね。そこで坊屋三郎が「おおっ! 天然色だ」というギャグを入れて。

――それは見たいなあ。新東宝の作品はなかなか見る機会がないので、またの楽しみにとっておきます。ところで、そのあと長谷川さんは藤本プロの同人になられるんですけど、それはどういうツテだったんですか。

長谷川  野口さんは顔が広いから、脚本家の井手俊郎さんを紹介してもらったんです。でも井手さんは当時、まあ遅咲きではあったけど大輪の花を咲かせた大家でしょう。恐れ多くってぼくはあまり話もできなった。ところがぼくの『東京のヒロイン』が載った「映画春秋」に井手さんがお書きになった『女の顔』(49/今井正)が載っていたんですね。それで井手さんがぼくのホンを読んだのかどうか分からないけど、だんだん声をかけてもらうようになり、井手さんが『若人の歌』(51/千葉泰樹)をやるとき、一緒に書いてくれないかと言われてお手伝いしたのが最初。それで誘われて藤本プロに入って。ぼくは同人の中で最年少でした。ぼくはその頃、本名以外でもペンネームで仕事をしているんですよ。というのはさっき話した『君と行くアメリカ航路』の原案を赤坂長義という、のちに新東宝で監督になった男が書いたんだけども、彼が江利チエミ主演の音楽映画を手伝ってくれというんだね。その頃、赤坂長義はアルバイトのつもりでしょうが、ホンを書いたりしていた。ぼくはそのとき知らなかったんだけど、引き受けてみたら、その映画の第1稿は蓮池義雄という男が書いているわけ。蓮池義雄とぼくとは久板栄二郎の同門で、ぼくとしてもそういうのはあまりいい感じがしなかったんで、赤坂長義に話したら、それならペンネームにしようと赤坂長義とぼくとで「北田一郎」というペンネームをでっちあげた。

――それは『青春ジャズ娘』(53/松林宗恵)のことですか。

長谷川 そう。確かクレジットは「蓮池義雄、北田一郎」となっているはずです。ほかにも『チエミの初恋チャチャ娘』(56/青柳信雄)とか赤坂長義との共同で「北田一郎」のペンネームで書いています。


■  『青い指紋』


――話は前後しますが、『若人の歌』の翌年には、長谷川さんは『青い指紋』の脚本を書かれます。製作会社はPR映画やニュース映画を製作している理研科学映画社です。戦前は下村兼史さんの記録映画で知られている会社で、『青い指紋』の直後、日米映画を併合して新理研科学映画社と改名します。『青い指紋』の製作のいきさつについて聞かせてください。

長谷川 長谷川 その頃、ジュールズ・ダッシンの『裸の町』(48)が公開されて、ぼくはそれを見て「ああ、こういう映画があるんだ」と感心したんです。それからイギリス映画で『兇弾』(46/ベイジル・ディアデン)という映画が公開された。製作されたのは『裸の町』より先だったけど、日本への輸入は後になったんです。これが『裸の町』の源流みたいな作品でいい映画だった。スコットランド・ヤードの殺人担当の刑事、庶民的な年寄りの刑事と若い刑事のコンビなんだけれども、それが事件を地味に捜査していくという映画でね。

――『夜歩く男』(48)というドキュメンタリー・タッチの刑事映画もありました。監督はアルフレッド・ウォーカーになっていますが、ノン・クレジットでアンソニー・マンが共同監督したらしいですけど。

長谷川 その映画は知らないけど、当時はそういった映画が外国ではブームだったんでしょう。その頃の日本には刑事ものなど皆無で、推理ものと言えば飛んで来る拳銃弾も体を交わして避けるという主人公=多羅尾伴内みたいなものだった。ぼくはその頃、警視庁の鑑識の法医学室というところにいたんです。それはぼくが映画の世界に入ることを望まなかった親父との取り引きでもあったわけだけど、そこに行けば臨床のように追いまくられることもなくヒマだからと、すすめてくれる人があったので、その言葉を信じて、だったら合間に映画を見たり、シナリオを書けると、まあいい気なもんでね。しかし、実際、仕事に就いてみると、毎晩のように現場に呼び出される破目になって。しかし、ぼくもそれが段々おもしろくなってね。事件の内側に入っていけるわけだし。それにコロシの現場に行って、死体から死因や凶器や死亡時刻の推定をしたり、犯人を推理したりして、それで犯人が掴まったりすると、あいつが推定したことは当たってるっていうようなことを刑事たちから言われて、ぼくも若かったから得意になっていた。ちょうどその頃、上島雅文さんというプロデューサーがいてね。最初はそういう捜査活動を描いた映画を作れば、警視庁のルートを通じて売れるんじゃないかと思ったらしいな。それで警視庁に来て、捜査を作り事ではなく、ドキュメンタルに描いた映画を作りたいと広報課に相談したら、ウチには映画をやっているやつがいるって言われて、鑑識課に在職していたぼくのところへ回されて来た。そこで作った企画を、検討した上で、警視庁が後援することになった。ついては現場のことが分かってる脚本家がいいということになって、ぼくが課長に呼ばれてシナリオを担当することになったわけ。もちろんぼくは警視庁側の人間ですからノーギャラです。公務員としての仕事だから。あとからオメガの腕時計をもらったけど、それぐらいならいいだろうと、上の方からも言われてね。シナリオの執筆は、虎ノ門に旅館を取ってもらって、そこで監督の青戸隆幸さんやプロデューサーの上島さんと打ち合わせながら、夜に書き、朝になるとぼくはそこから警視庁に通うことになった。出来たホンは警視庁に提出して、各部門がチェックして製作開始の許可が降りた。完成した映画のプリントを一本、警視庁に寄付するということになったんじゃないかな。警視庁がいかにあの映画に協力したかという例はね。あの映画に出てくるロケセットは、建物や部屋なんかはみんな本物で、鑑定している部屋もぼくが在職していた庁内の法医学室だし。殺人現場で検証しているときの鑑識課員たちも全部現職。

――長谷川さんも法医技師の役で検死の場面に出演されてましたね。

長谷川 ええ。ただ刑事は顔が割れるとまずいというんで、役者を使いました。

――関山耕司さんとか、織田政雄さんなんかが出てました。当時はまだ無名だったんでしょうけど。

長谷川 キャスティングも地味だし、それに作りはプリミティヴというか、幼稚なんだけれど、今までの多羅尾伴内よりは意味のあるものができたんじゃないでしょうか。それで製作費を回収するために、警視庁も了解して、劇映画各社に上映を持ち回ったんですが、当時はあのような映画に手を出すのは新東宝ぐらいしかなかったんでしょう。にもかかわらず封切ったら当たったんだよね。あるときね、一課の刑事がぼくのところに来て「先生に聞きたいことがある」っていうんだ。「先生は『青い指紋』という映画の脚本を書いたか」と聞くんで「そうだ」と答えたらね。上野署で強姦殺人犯が自首してきたっていうんだな。その事件はぼくも現場に行ってたからよく知っていたんだけど、寛永寺境内の石灯籠の脇に若い女の強姦死体があってね。遠くから見たら陰部のところが白くって最初は老女だと思ったんだけど、近づいてみるとそれは蛆虫だった。暑い盛りだから蛆が湧いていたんだね。それが白毛に見えたんだ。蛆はその成長を測定することで、殺人の日時が特定できるから、鑑識官がそれを収集しなきゃいけない。そんときは陰部に這い回る蛆をピンセットで摘んでビニールに採取しながら、ぼくもなんでこんなことまでやらなきゃいかんのか恨んだものです。でね、そのときの現場の雰囲気からすると、これはお宮だなと思ったわけ。場所も場所だし、目撃者もいないだろうと。遺留品もないし。それなのに、ぼくのところにやってきた刑事があのときの事件の犯人が自首してきたと言うんで意外に思ったんです。ふつう、そういうケースは良心の呵責から夢でうなされて自首するケースが多いんだけど、そういうときは自首してくるまでかなり時間がかかるんだ。年単位でね。ところが寛永寺の事件の場合は、発覚してからまだ数日後だった。そこで取調べの刑事がいろいろ聞いてみると、犯人が言うには、上野の映画館で『青い指紋』という映画を見て、自分は抜かりなくやったと思ってたんだけど、最後にあの女のハンドバッグをガサったときに指紋が残ったんじゃないかと。『青い指紋』は指紋でアシがつくという映画ですからね。つまり犯人は、自分は前科があるから当然指紋で割れるだろう、それより自首した方が得だと思ってやってきた、というわけです。しかし、実際の検査では、ハンドバッグには指紋なんかついてやしなかったですよ。

――おもしろい話ですね。

長谷川 ま、それほどにあの映画は、当時にしては珍しく作りものめかずにリアルにできていたから、前科のある犯人がガクリとなるようなショックを与えたってことでしょうか

――『青い指紋』は最初に殺人事件が起き、それから鑑識の鑑定や刑事の足を使った捜査が克明に描かれます。しかし、ある程度まで捜査が進んだ状態で迷宮入りになってしまう。しばらくして別の殺人事件が起こる。現場に青い指紋のついた遺留品があり、それがビリヤード場のチョークの粉が付着したものだと分かる。調べていくと、どうも最初に迷宮入りになった事件と同一犯人らしいという粗筋です。これは元になった事件というのはあるんですか?

長谷川  事件そのものはないと特にありません。ただぼくも毎日事件に接していたわけだから、ディテールはあちこちの事件を参考にしたと思います。

――それにしては再現フィルムと思うほどリアリティがありました。主任が新聞記者たちとやりとりする場面もリアルでした。

長谷川 そのへんはぼく自身が警視庁にいて実際に見ていたわけだから。


■  『殺人容疑者』


――そのセミドミュメンタリー・タッチの犯罪捜査映画は、次に『殺人容疑者』へと進展していくわけなんですが……。

長谷川 今日、君と会うんでちょっと調べてみたんですが、『殺人容疑者』は『青い指紋』の3ヶ月ぐらいあとなんですね。とすると『青い指紋』をやっている最中に、すでに『殺人容疑者』の企画が進行していたのか、ぼくは『青い指紋』の完成を見る前に『殺人容疑者』の企画に係わっていたのか……。どうもぼくの記憶からすると、『青い指紋』が出来たあとに『殺人容疑者』に係わっていると思うんだけど。『殺人容疑者』は電通映画社の製作ですから、多分、『青い指紋』が出来てから公開までに間があったので、その間に電通映画社のプロデューサーの大条(敬三)さんが試写か何かで見たんでしょう。いずれにせよ、『青い指紋』を見て、「ああいうようなものをやりたいんだ」とぼくのところに言ってきたような記憶があるんです。ぼくは『青い指紋』の出来に満足してなかった。『裸の町』に較べれば規模も小さいし、小さなプロダクションの製作でしたからね。だから『殺人容疑者』をやりたいと言ってきたのも、電通DFプロダクションという小さなプロダクションだから、正直言ってぼくはあまり乗り気じゃなかったんです。それでぼくがあまり乗り気でないことを大枝君に言うと、「それなら協力はしてくれるか」というわけ。全体の構成と誰かに書かせた脚本の直しをやってくれないかと言われたんです。警視庁の課長からも手伝ってやれと言われたんだと思います。それでないとぼくは公務員だから勝手にそういう仕事を受けられないからね。そういう両方からの要請でぼくがやることになった。東宝の助監督で、池部良と親しかった蜷川親博という人がいた。彼も池部良と一緒に新東宝に移籍したのかな。でも新東宝でもはじきだされてちゃったんだ。それで記録映画のほうに来てたんじゃないかと思うんだけど。で、蜷川親博が再起を賭けて、助監督をさせることは決まっているんだけど、これにホンを書かせたいけどどうかというわけです。ぼくは誰でもよかったから、彼でいいということで、その蜷川氏が船橋比呂志という名前で、ぼくと会ってホンを書くことになりました。ホンを書くにあたって実際に捜査はどのように進むんだということを彼に話して、ホンにする段階で、当時無名だった丹波哲郎がスカウトされて、それで丹波が主役をやることになったんです。その段階で鈴木さんが監督するということが決まったんじゃないかな。ホンができて、ぼくが直したりして、警視庁と警察庁、科学捜査研究所の3つが後援する許可もとって、それでクランクイン。そのへんの事情はよく分からないけど、最初は鈴木さんが監督したんじゃないかと思います。そのうちに鈴木さんが途中でいなくなっちゃった。それで蜷川氏、つまり船橋比呂志が進行していく上で、彼は本来は助監督なんだけど、監督もしたんじゃないでしょうか。田町のドブ川のところで撮影をやったりしていました。犯人が追い詰められてドブ川を逃げるところ。だから『殺人容疑者』は鈴木さんと船橋比呂志の共同監督作品になっているんじゃないでしょうかね。

――鈴木さんは船橋比呂志という人には会ったこともないとおっしゃってました。そういう映画をやった記憶はあるが、一緒に誰かと共同監督したという記憶はないし、船橋という人に会った記憶はないとおっしゃってました。

長谷川 ああ、じゃそうかもしれません。大枝君という人は蜷川親博と友情関係にあったわけ。それでこの映画で蜷川を男にしてやりたいということだったんじゃないかな。大枝君というのは若いけど、とても優秀な人でした。この映画が完成する前に死んじゃったのかな、完成してから死んだのかな。僕は当時芝公園に住んでいたんだけど、大枝君の家は新橋の駅のすぐそばに古くからある大枝医院の甥っこでしたから、僕の家にも近いので、あのへんの旅館をとって、そこに蜷川氏も来て、確か丹波も来たような記憶がある。そこから大枝君は叔父さんの病院で泊まりに行ったり、旅館のほうに来たりと、行ったり来たりをしていたと思います。ある日、叔父さんの家に這いつくばるように入ってきて、大枝君はそこで死んじゃったの。心臓麻痺か何かでね。過労死だね。ぼくの知らないような苦労もあったんでしょう。その苦労のひとつは鈴木さんが途中で失踪した問題かもしれない。鈴木さんは当時もう『蜘蛛の街』を撮ったあとかな。

――そうです。

長谷川 だからね、大枝君にしてみれば、『殺人容疑者』という新しい作品を、僕のホンで、『蜘蛛の街』が評判だった鈴木英夫でやれば間違いないと思ったんじゃないでしょうか。でも製作会社は小さなプロダクションだから、ぼくと同様に、鈴木さんも乗り気じゃなかったんじゃないですか。まあ、それでも 部分演出でもいいからということで引き受けたんじゃないかな。そうすればタイトルは飾れるわけだから。ぼくは鈴木さんが途中でいなくなっちゃったから、ずいぶん無責任だなという印象を持ったんだけどね。病気だったのかなと思ったけど。まあ、それほど追求するような映画でもないからいいかなと思っていたけど、最初から多分部分演出ということで話ができていたんだろうと。とにかくぼくが見学に行ったときは船橋君が撮っていました。大枝君もある時期から船橋君のデビュー作品にしてやりたいと思っていたんじゃないでしょうか。

――鈴木さんのお話では、企画から関わった記憶がなくて、突然やってくれと話がきたと言ってました。

長谷川 ぼくもあれに関しては鈴木さんと会ったことがないんですよ。でもホンをやっているときに来て、意見ぐらい言ったのかなと気もするんだけど、それにしてもそういう記憶もないんです。船橋君はピッタリとぼくにくっついてましたけど。

――『殺人容疑者』はまだ見る機会がないのが残念です。ただし、こうした流れの作品で、田口哲監督がプレミア映画という製作会社で撮った『26人の逃亡者』(59)という映画は見ました。冒頭に指名手配中の凶悪犯26人の顔写真が出て、その中のひとつが物語として始まる。最後には「あなたがこの映画を見ている隣の席に殺人者が潜んでいる」といったようなナレーションで終わるんですが。新東宝で配給された作品です。これも犯人が指紋を焼く場面があった。

長谷川 あのね、そういう流れは『青い指紋』が最初にあって、それから『殺人容疑者』でしょ。『青い指紋』が当たったから、新東宝は味をしめて、そういう映画を作るようになった。それから大映でもそんな作品が作られた。ぼくのところにもシナリオを書いてくれといってきました。北原義郎の主演。これを主役で売り出すって言うんでね。それでぼくは『誘拐魔』(55/水野洽)という作品を書いたんです。電話の逆探知などを織り込んでね。ぼくは前の『青い指紋』や『殺人容疑者』より満足がいくホンが書けたと思ったし、大映は理研科学や電通と違って劇映画の会社なんでちゃんとしたものができると思っていたんだけど、ところが大映はスター・システムの会社でしょう。会社はどこで北原を見せるんだというわけ。見せるのは事件だと言ったんだけど、スター・システムに妥協して中途半端な犯罪映画みたいになっちゃいました。

――そのあとになりますが、長谷川さんは鈴木英夫監督の作品では、『危険な英雄』でまだ助監督だった須川栄三さんのオリジナル脚本を潤色されています。

長谷川 藤本(眞澄)さんに頼まれて、捜査の細部にリアリティを出す肉付けをしました。モンタージュ写真のところとか最新のそういった捜査の細部についてですね。


■ 『警視庁物語』事始


長谷川 『警視庁物語』は、そういったぼくが手がけた一連の犯罪捜査映画を見ていた東映のプロデューサーの斎藤安代さんが、2本立の体制を作っていくのに、金がかからないいい企画がないかという会社側の要請に応えて、ぼくがやったような刑事ものを提案したところから始まったんです。斎藤さんの提案に坪井与本部長がおもしろいんじゃないかということで乗ってくれて。ぼくに自由に書かせるという条件で、会社にしてみればまあまあの作品が出来ればいいということになってね。ぼくは大映で懲りていたから、スター中心の映画になるんだったら、ぼくはやる気がないということを斎藤さんを通じて会社側にも伝えてもらったところ、分かったと。ただコストを安くするため一度に2本作れということになったんです。

――ギャラは1本半の1セット計算ですか?

長谷川 そう。そうすれば会社としては2本作っても安くあがるわけだからね。ぼくは長年の夢が叶うなら、脚本料なんかどういう計算でもいいと思った。しかし、シナリオが出来上がると、2本のうち1本は好きに書いてもいいが、もう1本は今までどおりに分かりやすい作品にしろと言われたものでした。

――『警視庁物語』の前に小林恒夫監督の『終電車の死美人』(55)というのがあって、これは脚本が元朝日新聞の記者の白石五郎と当時新人の森田新。長谷川さんが『警視庁物語』というツノガキを付けたタイトルで始めて、のちにシリーズとなった第1作はワンセットで執筆をした2本のうちのどっちですか

長谷川 『逃亡五分前』が第1作です。続けて封切られたのが『魔の最終列車』(共に56/小沢茂弘)。つまり『逃亡五分前』は『青い指紋』のように捜査過程を描いていく作品ですが、『魔の最終列車』の方はカメラが犯罪者側の方までいって、アクションがあったりした映画になったわけです。しかし、2本が出来上がってみると、会社の思惑は見事に外れて『逃亡五分前』の方がずっと高く評価された。それでイケるんじゃないかってね。でも会社はなおも普通の映画のスタイルにこだわってました。でも、段々とこれでいいということになって、結局24本もやることになりました。なぜ、それを東映がやったというと、助監督の登竜門として都合がいいし、スターがいらないということがあったのね。『警視庁物語』シリーズからは村山新治さんを始め、東映大泉の優秀な新人監督がずいぶん誕生しました。その上にほとんどオールロケみたいなもんだから、別働隊みたいにやらしておけばいいし、お金がかからない。黙ってても2本ずつできてくるわけ。これが『警視庁物語』の温床を作った理由でもあるんじゃないでしょうか。『青い指紋』を久々に見返して思ったんだが、あれ、刑事が7人の設定になってるんですよね。当時は意識してなかったんだけれど。

――ああ、それは気づきませんでした。

長谷川 ぼくは見ながら勘定したら、あれ、7人いるなあと思ってね。主な役になってる刑事は3人いる。なぜかというと3人ぐらいはキャラクターをはっきりさせようとしたんだね。たとえば刑事仲間で個性を際立たせる場合、「鬼」と「仏」と「閻魔」というのがいい。「閻魔」というのは取り調べのとき、厳しくなる刑事のこと。その3人を中心に置いて、ほかの刑事は刑事ABCでもいいんだけど、捜査がひとつ筋で展開していくと話が単調になるし、テンポが出ないから、3筋ぐらいを平行に展開していくと広がりが出る。ひとつが詰まれば、別の方が動いていく。そうすると、3筋ぐらいで動いていくと、2人コンビで捜査に当たるということになって2人が3組で6人、それに捜査主任を入れると7人になるという勘定だね。『警視庁物語』でもそんなわけで7人ぐらいがいいのかなと思っていたんです。『青い指紋』からそう作りでやっていたというのは、改めて気がついたけど、そういう流れがテレビの『七人の刑事』にも及んでいったんです。テレビで最初にああいったものをやりたいといってきたのは、五社英雄だった。それまでは彼と面識がなかったんですが、彼の方からぼくのところに訪ねてきて、それで『刑事』というのをフジテレビでやったのかな。その次に『刑事物語』というのをやって。そうしたらTBSが刑事ものをやりたいと言ってきて、それが『七人の刑事』になった。

――『日真名氏飛出す』というのもありますね。

長谷川 あれは私立探偵もので、双葉十三郎さんがやってたものにぼくが加わったという感じで、『七人の刑事』よりもっとずっと前です。それよりも前、『青い指紋』をやった直後に、ぼくはラジオで『犯人を挙げろ』という番組を毎週1回やった。出演は武藤英司に宮川洋一、それに安田洋子。これは『兇弾』のような刑事もので、やもめで娘のいる年取った刑事と若い刑事のコンビという組み合わせでね。これも延々と続きました。

――キネ旬で『青い指紋』を批評なさってるのが双葉十三郎さんなんですよ。双葉さんは海外ミステリの翻訳もなさってますから。批評の方はなかなか辛口ですが。

長谷川 うん、双葉さんは翻訳ミステリでは草分けでしょ。だからそういうものに対しては詳しいわけだ。ぼくはこのときもう双葉さんとは個人的に知っていたんです。

――長谷川さんは『警視庁物語』の小説も書かれていらっしゃいますね。

長谷川 あれはリライターによるノベラリゼーション。実際にぼくが書いたわけじゃないけど、出来たものには目を通してレトリックが気にいらないところは直したりしました。のちに春陽堂文庫に入って、しばらく売れていたようですね。当時は映画の宣伝にもなるしね。だからぼくの刑事ものは、まず記録映画風な劇映画から『警視庁物語』シリーズに展開して、ノベラリゼーションとラジオドラマ、それからテレビの『七人の刑事』へと発展したことになるわけです。


■ 時代の鏡


――ちょっと基本的なことを伺いたいんですが、法医学部の司法解剖と鑑識とはどういうように連係しているんですか。それと行政解剖の違いとはどうなんでしょうか?

長谷川 解剖は警視庁が委嘱するわけ。行政解剖というのは、東京都の監察医がするのね。今はどうなってるか知らないけど、中央線で東西に分けて、東側で発生した死体は東大、西側の死体は慶応と、発生した現場によって自動的にこの二つに振り分けられた。じゃあ、行政と司法とはどう違うかというと、他殺、または他殺の疑いのある死体は全部司法解剖、行き倒れや変死は行政解剖。だから行政解剖をやってるうちにこれは他殺の疑いがあるということになった場合は、行政から司法に切り換えられることはありますが、逆の場合はない。死体を発見した段階で警察が監察医を呼んで、監察医が検死して、そして警視庁からは刑事たちと共にぼくらみたいな者が行って、そして合議して、これは行政だとかこれは司法に回そうだとか決めるわけ。そのとき、法律的に死体に係わるのは監察医です。ただこの死体に関する法医学的な鑑識や死体関連の残留物、たとえば強姦殺人であれば精液であるとか、縊死であれば脱糞などの検査なんかについては、こっちがやる。監察医はどんな状態で死んでいるというのはあまり関係ない。切り刻んでそこから分かることを調べればいいわけでね。ぼくらの場合は分秒を争うから、現場に駆けつけ、医学的な知識によって知り得る捜査上の手掛かりのすべてを調べてから、解剖に渡すわけです。

――『青い指紋』を見て驚いたんですが、あの当時から警視庁の科学捜査というのは結構進んでいたんですね。

長谷川 まあ、国際的にもあんなものだったと思いますよ。外国はもうちょっとシステマティックになっていたとは思いますがね。それまでは「おい、こら」でやっていたわけでしょう。証拠第一主義になったのは、敗戦後、アメリカの指導によってでしたから。それでああいった科学捜査研究所みたいなものができたんですからね。ぼくが劇場映画でああいうものをやったのは、それまでの荒唐無稽な捜査ものが厭だったからです。自分が警視庁の中に身を置いて、そういうものに対する不満があったからですよね。そういった積み重ねがあって、今ではテレビドラマの捜査ものも科学的、または合理的にまあまあの水準を保つようになったと思いますね。

――犯罪というのは世相を反映した鏡として、興味深いと思うのですが。たとえばメッカ事件の正田昭とか。これはマキノ雅弘さんが映画化してます。『恐怖の逃亡』(57)という題です。宝田明と安西郷子主演で。あんまりおもしろくなかった。

長谷川 あれは事件からほとぼりが冷めないうちに映画化したんじゃないかな。

――そうです。だからいってみればキワモノ映画なんですが。それから『恐怖のカービン銃』(54/田口哲)という映画もあったし、三島由起夫が「青の時代」で小説にした光クラブ事件とか。

長谷川 ぼくもメッカ事件は現場に行きました。新橋だったかな。それから吉展ちゃん事件も。バラバラ事件も行ったな。吉展ちゃん事件はぼくが東映映画のためのホンを書いたんです。テレビ朝日でも吉展ちゃん事件はやりましたが、それはぼくではありません。

――長谷川さんのは、関川秀雄さんが監督した『一万三千人の容疑者』ですね。

長谷川 そう。そのほかにテレビでは外務省の機密漏洩事件や滋賀銀行の事件。京都の女子銀行員が男に入れ上げて、公金横領しちゃった事件です。それから青山学院の教授が教え子を犯した事件とかね。君がさっき言ったように、犯罪というのは時代の鏡なんです。だから鏡の中に映っている歪んだ時代相が的確に反映されていて極めて興味深いというわけです。

――最近、外国で流行してるプロファイリングについてはどうお考えですか?

長谷川 君はどう思いますか?

――あれは事件をシステマティックに集計して犯人像を割り出すという意味では、ある種の統計学だと思うんですが、実際に事件が起こらないと何の意味もなさないところは金田一耕助と変わらないではと思うんです。白人の30代男性とか、別に大層にプロファイリングなんて呼ばなくても、そんなことは分かると思うんです。ドラマを作るうえの要素としてはおもしろいと思うんですが、実際の捜査活動において役に立っているとは思えない

長谷川 そう。ぼくもあまり興味がないですね。

――DNA鑑定というのもありますが……。

長谷川 うん。DNA鑑定というのは、個人認識や親子鑑定に利用しようってわけですけど、人間の遺伝子がすべて読めちゃうわけでしょう。そこまで人間がオールマイティであっていいものかどうか。科学というのは常に両刃の剣で、使い方ひとつなんだろうけど、たとえばクローンの問題にしろ、あれは臓器移植のスペアにもなりうるわけだしね。それがモラルとしてよいことなのかどうか。そうすると、権力や金でそれを手に入れようとする人間が現れるわけだし、行きずりに人間を殺して、その臓器を手に入れようとするやつが出てくるってこともあり得るわけだからね。それは防ぎようもないことでしょう。だからそういう意味では、科学が極端に進歩するというのはある意味では人類の終焉じゃないかと思うんですけどね。

(1998年3月24日 渋谷にて)
インタビュアー&構成:木全公彦

次回は、長谷川さんのインタビューで明らかになった、『殺人容疑者』の脚本を書き、鈴木英夫と並んで共同監督にクレジットされている「船橋比呂志」こと「蜷川親博」について、もっとも親しかったという池部良氏にその件について取材したので、掲載する予定でいる。お楽しみに。