鈴木英夫〈その1〉鈴木英夫自作を語る








昨年末、NHK・BSで鈴木英夫の代表作『彼奴を逃すな』、『非情都市』、『その場所に女ありて』、『悪の階段』の4本が連続放映された。続いて、WOWOWではもう一生観られないのではないかと思っていた『蜘蛛の街』がふいに放映されるという〈事件〉があり、その興奮も醒めやらぬうちに、今度は、チャンネルNECOで『危険な英雄』が放映された。こうなるともう〈事件〉ではなく、〈奇跡〉といってもよいかもしれない。機は熟したのだ。私としても15年前に同好の士と鈴木英夫研究会を発足し、今日に至るまで「鈴木英夫、鈴木英夫」と連呼してきた苦労がやっと報われたという感じで、やっと肩の荷を半分だけ下ろした気がしている。

実は、NHK・BSの鈴木英夫特集には伏線があって、この放映には成瀬巳喜男生誕100年を記念して、成瀬作品がNHK・BSで連続放映されたことが大きく関係していることをご存知だろうか。

考えてみれば、成瀬と鈴木の関係は、鈴木が成瀬プロデュースによるオムニバス映画『くちづけ』の挿話を監督していることから、当然連想が働いてしかるべきなのだ。

一昨年、NHK・BSの番組に携わる旧知のディレクターから10数年ぶりに電話がかかってきて、まあどうでもいいような番組を作るお手伝いをして、ずいぶん不愉快な思いもしたのだが、その過程で局の別の番組編成プロデューサーがやってきて、「来年の成瀬生誕100年記念で、成瀬を放映したいのだが、相談に乗ってくれ」という依頼をされたのである。そのとき、彼が手にしていたのは、私も編著に名を連ねている、一部で悪評高い(苦笑)『映畫読本 成瀬巳喜男』(フィルムアート社、1995年)と、金子正且・鈴村たけし共著『その場所に映画ありて プロデューサー金子正且の仕事』(ワイズ出版、2004年)だった。

ひととおり、成瀬の話をしたあと、件のプロデューサーは『金子正且の仕事』をパラパラと開きながら、付箋のついたページを広げて、「この鈴木英夫という監督はどうなんですかね? 東宝から成瀬作品を購入するついでに鈴木英夫の作品も買おうかと思って」と突然切り出し、私を仰天させたのである。このとき、プロデューサーが熱心に購入したいといったのは『蜘蛛の街』だったので、「それは大映作品だから、東宝作品を選ぶとしたら…」とアドバイスをしておいた。まったくアテにはしていなかったけれども。

それから1年後、NHK・BSで成瀬特集が終わり、鈴木英夫作品について聞かれたことなんか忘れた頃、NHK・BSの放映映画案内番組「シネマの贈り物」を制作する、別のディレクターから電話があった。なんでも今度、BSで鈴木英夫作品を放映するので、「シネマの贈り物」で取り上げたいのだが、まるで資料がなく、困っているとのことで、本当に鈴木英夫をやるのかと私は再び仰天した。

そこで私は、近くの喫茶店で周囲の迷惑おかましなしにオタクレベルの薀蓄話までを得々と披露してまたもすぐに自己嫌悪に陥りながら、1995年に鈴木英夫研究会のメンバーと編集した同人誌「映画監督 鈴木英夫」をディレクターに貸し出した。同誌は、「映画前夜」を主催する映画記者・大高宏雄がオールナイトの企画で鈴木英夫を特集したいという希望を受け、私が作品選定をし、1995年12月2日に新宿ジョイシネマで鈴木作品のオールナイト上映する際に、劇場売りパンフのつもりで急遽編集されたものである。その後、ワープロ原稿のコピー紙じゃ見栄えがしないだろうということで、もうちょっとマシな形の装丁で1996年2月に再編集して再刊した。発行・編集人は田中英司・野口琢磨。編集はこの2人に私が加わった。

当初の予想を超えて、同誌は半年で500部完売し、私の手元にも1部を残すのみである。内容は、ジョイシネマのオールナイトで上映された作品について鈴木英夫監督自身に質問したインタビュー、司葉子さんへのインタビュー、鈴木監督とコンビを組まれたキャメラマン逢沢譲さんの寄稿原稿、鈴木英夫研究会メンバーによる論考、実現しなかった企画についてのコラムといった濃いものだが、鈴木監督が2002年5月2日に逝去されたため(キネ旬決算号の物故者リストには「没日不明」となっているが、当のキネ旬の2002年7月上旬号に、鈴木英夫研究会のメンバーである映画評論家・野村正昭による亡くなったときの日時や状況に関する記事を含む追悼記事を掲載している)、とくに監督へのインタビューは貴重な資料となってしまった。

本欄では、「映画監督 鈴木英夫」に掲載された鈴木監督のインタビュー部分を全採録する。なお、採録にあたっては、掲載時の原稿に若干手を入れ、補足情報を入れた。

■『不滅の熱球』


―企画の経緯からお聞きしたいんですが。

鈴木 これはね、いきなりホンで渡された。これはまったくプロデューサーの佐藤一郎さんの企画です。

――確か池部良さんは野球が全然できない人ですよね。

鈴木 できない。野球の盛んな立教大学の出身なのに、野球はまったく知らないというから、プロデューサーの佐藤さんと3人で後楽園球場に巨人-中日戦を観に行った。当時、中日は杉下がピッチャー。で、バッターが打つでしょ。すると、皆、ファーストの方に走るわな。と、池部君がサードを差して「なんであっちの方に走っちゃいけないんですか?」って(笑)。で、周りの人がウワッーって…。それぐらい野球を知らないんですよ、あれ(笑)。恥かしい思いをしましたよ。当時、沢村栄治さんとバッテリーを組んでいた内堀さんがコーチをしていた。その人に2週間ぐらい預けたかな。沢村のフォームに似たような投げ方を内堀さんにやってもらった。役者というのは根性あるなと思ったけど、2週間したらストレートなら沢村投手のフォームを真似して投げられるようになったね。本番のときに撮影の中井朝一さんがバッターボックスのこちら側に立って、キャメラのルーペを覗いているでしょ。で、良ちゃんがマウンドから放るわけ。ひとつ間違ったらレンズにぶつかるよね。それをぶつからないように来るんだね。驚きましたよ。あれには大したもんだと。

――内堀役の千秋実さんも同じ特訓をしたんですか?

鈴木 そりゃ、みんな教えてもらったんですよ。内堀さんにある程度付いてもらってね。

――じゃあ千秋さんも〈内堀的な〉フォームで球を受けてたんですね(笑)。『不滅の熱球』には監督役で笠智衆さんも出ていましたよね。

鈴木 あの人、「私、よく野球を知りません」なんて言ってたな(笑)。

――鈴木監督ご自身は野球をなさるんですか?

鈴木 やりましたよ。東宝では藤本真澄さんが野球好きですからね。で、シナリオライターと混合でワンチーム作っていた。当時、文藝春秋が主催でね、年に2回ぐらい試合をやるんです。そのときの僕ですか? セカンドを守るんです。打順は3番。セカンドで3番というのはあまりないでしょ。ピッチャーはプロデューサーの三輪礼二君なんかやったかな。藤本さんが音頭とるんだからね。みんな出ました。

――当時、司葉子さんは、まだほとんど新人ですね。

鈴木 そう、丸山誠治さんの『君死に給うことなかれ』でデビューしたすぐあとでしょう。僕は芝居ができないと「デコスケ!」と怒鳴ってましたからね。俳優というのはいろいろキャラクターがあるでしょう。たとえば、怒鳴りつけないとその人が持っているものを生かしてくれない人と、怒鳴りつけたら萎縮しちゃってそれが出せない人とあるんですよ。初めて顔合わせするときなんか、2、3日その辺が苦労するんですね。司君なんか怒鳴りつけていいですよ。ときどきあとで泣いてましたけどね(笑)。自分ではしごいたとは思わないけど、会うとみんな僕にしごかれたことを思い出すと言うんでね。そんなことあったか、と僕は言うんだけど…。しごかれた方は忘れないだね。嫌になっちゃう。司君まで「デコスケと早く言わなくなるようにと、涙を流して頑張りました」なんて言うんだ。

――司さんにはどれぐらい駄目出ししたんですか?

鈴木 そうね、ワンカット半日ぐらいかかったのも、たまにありましたね。いちばん時間がかかったのは、池部君の沢村投手が明日出征するというんで、接吻のシーンを要求したんだ。これがどうしても駄目なんだね。この辺まで行くと顔を反らしちゃうんだ、何回やっても。しまいに「私もやがて結婚しますけど、接吻なんてそのご主人とするために…どうしてもできません!」と(笑)。「おまえ、何言ってんだ。おまえ、いくつになったんだ。学校どこ出てんだ。演技者だろ、何言ってんだよ」って。理屈は分かるらしいですね。でも生理的になんか駄目らしいですね。苦労しましたね。このシーンを撮るのにね。よほど止めようかと思ったけど、止めたらこちらが負けだと思うからね。

――あそこはいちばん情感が高まってきていいところですけど。

鈴木 でも駄目ですね。ぎこちなくて、空々しくて。

――ラストのフィリピンの戦地をさまよう辺りは、かなり池部良的な、彼の戦争体験が入っているような感じですが。池部さんには野球以外の演技というのはどんな風に?

鈴木 良ちゃんは気分屋的なところがあってね。すごく調子のいい日と、なにか今日はチクハグという日があってね。で、それを指摘すると自分でも分かっているって言うんですよ。それじゃ言う必要はないだろうと思ってね。よし、やってみようということになるんだけど、あの人の悪いところは長いカットが撮れないんですね。感情がね、ずっと繋がっていかないんですね。どっかで自意識が働いちゃう。くっと瞬間白けちゃう。その点、笠智衆なんて人は立派ですね。いつでもセットに入ってきたら、その雰囲気になってますね。

――鈴木監督のお好きな役者というと?

鈴木 宮口精二なんかいいね。あの人の芝居にはとくに注文をつけたことはないなあ。やっぱり舞台で鍛えているから感情を持続させるのがうまいんだ。味があるでしょ、あの人。

――『彼奴を逃すな』や『黒い画集・寒流』の宮口さんはよかったですね。まあ、主役には地味だから無理ですけど。


■『危険な英雄』


――これは原案が須川栄三さんですね。

鈴木 そう。当時、助監督君たちが年に一回、自分たちの勉強シナリオを書いてて…。当時シナリオをプリントしてくれる会社が神田かどっかにあったんですよね。そこでサービスでね、助監督のシナリオを3000部ぐらい、台本みたいな本にして出したんですね。それで助監督たちがわざわざ持ってきてくれたんで読んだんです。ああいう(報道の)世界でドライに生きてく人間の姿が面白かった。当時としては割合新しい人間像だったと思うんですよ。それで、僕は本社の藤本(眞澄)さんのところへ行って、これやりたいですと読んでもらった。で、石原慎太郎を使う条件付きでOKが出たんです。慎太郎は決して僕の好んだキャスティングじゃないんです。藤本さんの条件だったんです。

――あの主役は仲代達矢のイメージですね。

鈴木 そうなんです。仲代なんて当時はそう名は売れてないけどね、僕はイメージだったんです。だから、小さい役だけどいちばんオーソドックスな記者の役で出てもらったんです。朝日新聞に(映画記者の)井沢淳という人がいてね。割合あの人のところにはちょいちょい話を聞きに行ってたんだ。新聞社についていろいろアドバイスしてもらった。新聞社については、かなり彼の意見を取り入れたところがあるんですよ。編集室とか、そういうところね。それで、当時ね、(試写を観た)井沢君が「あんな新聞社見たことねえ」なんてこだわるから、数日して朝日に行って井沢君を呼び出してね。「君、いい加減なことを言うな! 数寄屋橋から突き落とすぞ」って(笑)怒ったんですよ。数寄屋橋は当時はドブ川だったからね。

――須川さんのオリジナル・シナリオのまま撮られたんですか?

鈴木 そうです。藤本さんの命令で、長谷川公之さんが少し手を入れたかな。

――『危険な英雄』の司葉子さんは監督が起用されたんですか。

鈴木 僕とプロデューサーの金子(正且)ちゃんの合意で。とにかく、あの娘さ、おとなしい、お嬢さんっぽいのばっかりだから、とにかく役の幅を広げようと。未知の世界をあの子にも体験させようと…。そういう意図だったんですよね。

――石原慎太郎は役者としてどうでしたか?

鈴木 そりゃダメですよ。

一同(爆笑)。

――でも慎太郎の出ている映画の中では、いいですよ(笑)。かなりしごいたいんですか。

鈴木 そうですよ。そりゃもうね。傲慢? 現場ではそうでもなかったですよ。やっぱりひとりの良識でその雰囲気に入ってきたら、ということですね。ただ下手なだけ(笑)。

――彼自身は、あの役には、のってたんですか?

鈴木 そうです。だって、彼が「やりたい」と言って自分で藤本さんに申し入れたそうですから。彼は(東宝の)文芸部員だったんです。それで藤本さんがね、彼の意見を聞いて条件付きでOKでした。彼が藤本さんに申し入れしたんでしょう。

――まずいところで目をつけられてしまった…。

鈴木 そうなんですよ。ありがた迷惑(笑)。彼は10秒ぐらいのカットが撮れないんですよ。芝居やって6~7秒のところに来るとね、感情が一度空白になって、また戻るんですよ。その空白のところがダメなんです。繋がらなくって。どういうわけなのって聞いたら、「いや、すみません。自分で演技していて、この演技はいいのか悪いのかと、ふと白けちゃう」と言うんだよ。もう瞬間に、ふっと白けちゃう。いわゆる自意識ですよね。目の表現というのはそういう点はごまかせませんからね。感情が途切れちゃう。

――映画の後半、朝のシーンで印象的な郊外が出てきますが、ロケはお好きですか?

鈴木 いや、別に好きじゃないですよ。好きじゃないけど、セットだけというのはね、やっぱりスケールが…ドラマの幅が狭まっちゃうでしょう。こじんまりしちゃいますからね。多少はロケがあったほうがいいです。

――やっぱりロケだと天候とかその時の状況の左右されてしまうとか。

鈴木 そうなんです。それがもう辛いんです。

――芥川也寸志さんの音楽は、ギター1本でどこか『第三の男』のアントン・カラスみたいですね。

鈴木 彼はそれを狙っていたと思いますね。サスペンスだということでね。『彼奴を逃すな』のときもピアノの弦にリングをつけたり、いろいろ工夫していましたよ。

――プリペアード・ピアノですね。鈴木監督は、キャロル・リードはお好きですか?

鈴木 もう夢中でしたね。

――ヒッチコックはいかがですか?

鈴木 必ず観に行ってました。あとは外国映画ではワイラーが好きだったなあ。

【補足】『危険な英雄』の主題となった当時のマスコミの誘拐報道協定と映画についての興味深い言及があるブログ


■『燈台』


鈴木 これは金子ちゃんから来た話です。もうシナリオはできてました。主演の津島恵子のキャスティングも金子ちゃんでしょう。ロケは伊豆大島と熱海。熱海駅の上にあるゴルフ場。10日ぐらいかな、2週間ぐらいかかったのかな。青年と中年女性の恋の縺れのようなものをどうするか考えました。

――そのほかの配役も決まっていたんでしょうか?

鈴木 柳川慶子君なんか僕が希望したかな。まだ女優々々していない出たての頃。もう彼女は死に物狂いでやりましたね。それをこっちはキャッチすりゃいいんですよね。ところがあまり熱中しすぎてやり過ぎることがあるがあるんですね。そういうときはセーブしなきゃならない。

――河津清三郎さんは、鈴木英夫作品中、唯一の主演作になるんですが、これは監督の注文ですか?

鈴木 いや、あれはまあ、金子ちゃんからです。新興キネマで僕が助監督をしていた時分、彼は新興の大スターですからね。ある程度、気心が分かってるからね。現場に入ると仕事もしやすいというのはありますよ。

――誰をいちばんしごいたんですか? この質問ばかりですが(笑)。久保明?

鈴木 久保明ですよ(笑)。可能性を秘めている人はそこまで出そうと思ってね。

――金子さんのお話によると、この作品は筧正典さんが監督するはずだったとか。

鈴木 ああ、そうでしたか。それは知らなかったなあ。


■『その場所に女ありて』


――これは金子さんからの企画ですか?

鈴木 そうじゃないです。これは、本社に所属していた人たちに須川君のような(シナリオ研究の)組織があって、そこのパンフレットに載っておったんです。ポスターなんかを作る東宝のアートセンターに升田商二という人がいて、その人が書いたものです。それがプリントになっておったんですね。それ、本社関係のものだから僕らが読む機会は少ないんだけどね。たまたま本社に行ったときにそれがあって借りてきて読んで、これやりたいと出したわけです。升田君は電通とも関係があるし、東宝のそういうセクションにいた人ですからね。僕らには分からない世界の人ですから、(シナリオを読んで)もうびっくりしましたね。こういう職場があって、こういう職場があるんだと。今とは時代が違いますからね。だからチェックがありましたよ。あんまり電通に差し障りのあるようなことは避けてくれと。その種のチェックがありました。

――監督は競争の現場にあるドライな人間関係を描くのがお好きですね。

鈴木 そうですね。だから僕はメロドラマが撮れないんですよ。メロドラマにならないから会社はいつも不満ですよ。『花の慕情』だとかね。メロドラマを会社は狙っているけど、僕はちょっと…。ついリアリズムの手法で撮っちゃうから。

――冒頭の場面で女性たちが男言葉を使って、逆に男性社員がお茶汲みでもしそうな雰囲気ですが、これはその種の業界を描くための演出だったんでしょうか?

鈴木 登場人物はキャリアウーマン、その当時はBGといったけどね。外部に出たら第一線で働く女性たちですよね。それを表現するには、ああいうところで、ああいうシーンを出したらいちばん端的に表現できるだろうと。

――大塚道子のキャスティングは絶妙ですが、起用のきっかけは?

鈴木 やっぱしね(ああした女性を演じるには)まず最初にある程度教養みたいなものを持っていなくてはいかんでしょう。メロドラマ的な女優はいるけれども、そういう感じを持った人は少なかったということと、それから、あの人があの(男言葉の)科白を言っても不思議じゃないでしょ。あの人のパーソナリティとして。で、俳優座か何かの芝居を観て、一回あの人を使いたいなあと思っていたんですよ。

――男勝りのキャラクターについては女優さんたちには、かなり説明なさったんでしょうか。

鈴木 そりゃホンを読ませりゃいいんです。あれほどの人ならシナリオを読めば、ちゃんと自分でキャラクターを掴みますよね。

――女優さんがたくさん出てきますけど、誰をいちばんしごいたんですか?

鈴木 ま、水野久美なんかしごいた方ですね。

――監督の周りにいる女性のキャラクターなんかを、演出に取り入れることはありますか?

鈴木 いや、そりゃあくまでもホンのとおりです。もちろんそうです。そうしないと、どうしても自分の好みのものが入っちゃうから似てきちゃうんです。多少は手直しをしていますが、基本的にはオリジナル・シナリオのとおりです。

――これは逢沢譲さんとのお仕事ですが、逢沢さんのキャメラって割合奥行きがあると思うんですが…。

鈴木 ええ、そうですね。ひとくちに言って縦の構図と横の構図がありますよね。僕は縦の構図が好きなんですよ。だから逢沢君と合うんです。だから軽い喜劇だとかは縦の構図を使ったら駄目なんです。あれは横の構図を使ったほうがいい。サラリーマンものとかはね。ところが僕はサラリーマンものをやっても縦の構図が好きで使っちゃうから、重くなちゃうんですよ。だから「おまえのサラリーマンものはなんだ、あれは!」と怒られちゃうんですよ。

――鈴木監督がウィリアム・ワイラーをお好きなのは、ワイラーも縦構図の人だからでしょうか?

鈴木 …かもしれません。いろんな人物の心理要素や葛藤みたいなもの、それにはやっぱり縦構図というものが出しやすいと思いますね。

――そうしますと、サスペンスものとか、心理描写で追い込んでいくものには、やはりスタンダートサイズが向いていると…。

鈴木 と思いますね。

――でも、この時期はシネスコに移行する時代で、鈴木監督はシネスコでも『脱獄囚』、『非情都市』、『目白三平』シリーズ、『黒い画集・寒流』、『その場所に女ありて』と傑作快作ばかりですけど。

鈴木 キャメラマンがよかったからでしょう。

――スタンダートからシネスコへの移行というのはいかがでしたか? たぶん『脱獄囚』あたりからですね。

鈴木 ええ、ちょっと慌てましたね。僕よりもキャメラマンが最初慌ててました。フレームの両脇が空き過ぎちゃうでしょ。これを、どう立体的に埋めていくかと。キャメラマンがいちばん苦労していました。

――司葉子さんにとっては『その場所に女ありて』が代表作といっていい演技だと思いますが。

鈴木 司君には、女としての〈色気〉を出すということにずいぶん神経を使いましたね。仕事をバリバリこなし、タバコを吸うわ、麻雀はするわという男顔負けでも、女の色気は体全体から出していなくちゃいけない。だから司君には腰のところにヒップパッドをつけてもらいました。

――それはまた観る楽しみが増えてきました(笑)。司さんは確か『非情都市』でもヒップパッドをつけていましたね。

鈴木 そんときに味をしめてね(笑)。

――ちなみに相手役の宝田明は監督からご覧になると?

鈴木 ああ、大根でしたね。しごき甲斐? それはありましたね。東宝の専属俳優ですからね。これはもう絶対監督のいうことを聞きますよ。『その場所に女ありて』での彼の起用は、営業上の意味もありました。金子ちゃんサイドの意向ですね。

――完成当時の社内での評判はいかがでしたか?

鈴木 ダビングをやっているときに、珍しく所長の芝山さんに呼ばれましてね。何だと思って行ったら「今度の作品、出来がいいそうですね。お疲れでしょうけど、続いて宝塚に行って『旅愁の都』をやってください」と言われたから、会社は気に入ってくれてんだなあと思ったんですよ。それ、まだダビングやってる最中ですからね。出来上がりは観てないわけですよ。その段階で言われたから、金子ちゃんあたりがそういうふうに言ったんじゃないかな。試写を観てから分かるけどね。これはブラジルのサンパウロ映画祭でグランプリをもらったんですよ。それで、当時、外務省から通知がきたんで驚きましたよ。ただ、僕は次の仕事があったために行けなかったんです。そうしたら外務省から、グランプリのブロンズ像を送ってきましたけどね。ええ、今でもありますよ。当時のサンパウロの新聞を添えてね。その時の主演女優賞には司君も候補にあがったけど、最優秀主演女優賞はソフィア・ローレンだったらしいね(注:監督の記憶間違い。このときは『私生活』のブリジット・バルドーが主演女優賞を受賞した。『その場所に女ありて』のサンパウロ映画祭出品の題名は『愛と野望の狭間で』)。


■『悪の階段』


鈴木 これは僕がね、自分で南條範夫さんの本(「おれの夢は」)を読んでね。勝手に脚本を書いて金子ちゃんに見せたんです。そしたら金子ちゃんが本社に出してくれた。『悪の階段』というタイトルは営業部が付けたものです。

――これは限定した場所を舞台にしたサスペンスですね。

鈴木 普通だとワイドで撮らなくちゃならんのだけど、ワイドでなくスタンダートで撮らせてくれ、白黒にしてくれと申し入れたんです。藤本さんは「営業部に相談せにゃならんから2、3日返事を待て」と言って、結局OKしてくれたんですよ。それでカラー・シネスコの時代に白黒・スタンダートにしてもらったんですね。映画の舞台になる不動産屋のセットは、町外れにあるというイメージで東宝のステージに建てました。

――コンテなんかは相当に考えられるでしょうね。

鈴木 どのように撮っていくかというのは幾通りもあるわけでしょ。その中からひとつだけをピックアップして画にしてカットを割っていくわけですからね。やっぱり大変ですね。それからサイズね。どのサイズで撮ろうかなってね。

――役者さんは、みなさん芸達者な人たちばかりですね。

鈴木 みんなこの当時はギャランティが安いんですよ。芝居がうまくても、この頃は脇役クラスの人ばかりだから。製作費がなかったせいもあるけど、スターバリューがまるでないから、よく営業部がOKしたね。

――鈴木さんは、『蜘蛛の街』でも、当時は主役級でもなく、スターでもなかった宇野重吉と中北千枝子さんと起用なさってますし、『その場所に女ありて』の大塚道子の例もあるし。

鈴木 『蜘蛛の街』を撮るときは、大映から京マチ子を使えと言われましたけどね。中北千枝子でやりたいと言ったら、会社が「誰だ、それは?」って。宇野重吉も当時は鶏小屋みたいな汚い家に住んでいてね。貧乏暮らしであまり有名じゃなかった。

――『悪の階段』では、団令子がいちばんギャラが高そうですね。

鈴木 彼女をいちばんしごきました(笑)

――団令子のどこが駄目だったんですか?

鈴木 もう、ひとつひとつ…。とくに山崎努君とのカラミだね。ひとりで玄関にいるところなんかワンカット撮るのに半日かかったよ。でも、彼女は東宝入社第1回が、僕の『目白三平物語・うちの女房』で八百屋の娘役をやったから、僕には頭が上らんのです(笑)。どうしても駄目なときですか? もうそういう日は止めて、明日までに考えてこいと。

――鈴木監督は入社第1回とか移籍第1回とかの俳優さんを起用されることが多いですね。『不滅の熱球』の司葉子さんは入社第2回、『非情都市』の三橋達也さんは東宝移籍第1回だし。やはり役者しごきに定評があるからですか? 『社員無頼』の佐原健二さんはあんまりしごかれるんで自殺を考えたとおっしゃってましたよ。

鈴木 ああそう? そりゃ下手だからだよ。成瀬巳喜男さんがね、僕が使った役者を最初に使うときは仕上がりぐらいを聞きにいらしてね。「どう?」なんて。「みっちりしごいておきましたら」と言うと「ふふふ」と笑ってらっしゃいました。

――『悪の階段』に話を戻しますけど、久保菜穂子というキャスティングは異色ですね。

鈴木 あれは金子ちゃんが呼んできたんじゃないかなあ、きっと。あの頃、まだ久保菜穂子なんて僕の意識の中にはなかったもの。あんまり知らなかったんです。

――撮影日数はどれぐらいですか?

鈴木 東宝はね、割合ゆったりしているですよ。大映に比べてですよ。こんな添え物でも割合ありました。東宝の場合スケジュールで苦労することはないんです。延びたら延びたでいいんだから、どうってことないです。

――興行成績はどうだったんですか?

鈴木 そりゃ駄目ですよ。僕の映画でいちばん入ったのは『続・三等重役』。あとは添え物だし、ヒットなんかしたことがない。

――自分の作品を観直していかがですか?

鈴木 うまくいっていないところばかり目について反省してばかりです。

1995年11月7日、渋谷にて採録
初出「映画監督 鈴木英夫」(1995年12月発行、1996年2月改定版発行)
インタビュアー:田中英司、田中眞澄、丹野達弥、野口琢磨、木全公彦
インタビュー構成:野口琢磨




鈴木英夫研究会が発足するきっかけになったのは、1994年春、今は亡き三軒茶屋スタジオamsの「鈴木英夫特集上映(東宝時代の26本を日替わり上映)」を通じてであった。30席ほどの小さな劇場に連日通いつめる、「シネフィル」なんていうシャレた呼称とは縁遠い、失業者、バーのマスター、パラサイトのニート、留年学生、ガードマン、アルバイター、ビル清掃業者、売れない映画評論家、自称映画研究者といった出自も背景もバラバラの映画オタク――すなわち年間1000本単位で映画を観るような無為徒食の映画獣たち(♂)が、お忍びで自作を連日観にいらしていた鈴木英夫監督を発見し、自然にその周りに集まったのである。

普段は近親嫌悪のためかあまり仲がよくなく、剣呑な雰囲気さえ漂う連中が、渋谷の料亭にお招きした鈴木英夫監督、プロデューサーの金子正且氏、キャメラマンの逢沢譲氏を囲んで、ビールを飲みながら熱心に話を拝聴する姿はなんだかとてもおかしかった。そのまま全員で二次会になだれ込み、ふだんは〈連帯を求めて孤立を恐れず〉というよりも自ら望んで孤立している狷介な唯我独尊の映画獣たちが鈴木・金子・逢沢の3氏に代わる代わる根堀り葉堀り質問し、深夜まで和気藹々と談笑した。嘘みたい。

その後、東京においては、前出の大高宏雄の「映画前夜」主催による新宿ジョイシネマのオールナイト上映、大井武蔵野館での2度にわたる特集上映、テアトル梅田・京都みなみ会館の特集上映、2002年のアテネフランセ文化センターの特集上映へと至る。浅草東宝のオールナイトでも特集が組まれた。浅草東宝のオールナイトを除く、関東地区の全企画は非力ながら私も協力させていただき、上映作品を選定し、ちらし作成協力などをさせていただいた。

浅草東宝の番組に関しては、鈴木英夫研究会のメンバーであるドクター・ジョーンズの意見を反映したそうだから、新興宗教の布教活動みたいなもんである。同じく研究会のメンバーである映画評論家の野村正昭には『映画100物語 日本映画篇』(読売新聞社、1995年)に『その場所に女ありて』を紹介してもらい、映画史家の田中眞澄や評論家の片山素秀にも事あるごとに鈴木英夫について雑誌「SPA!」をはじめとしてあちこちで書いてもらうなど(時にはサブリミナル的に!)、研究会のメンバーは地道な布教活動を進めていった。日本映画のクラシック映画のビデオを通信販売する「キネマ倶楽部」の担当者も研究会のメンバーだったので、当然『その場所に女ありて』をリリースするように画策した(が、リリースされたビデオの売り上げは最低だった(。´Д⊂) ウワァァァン!)。2000年の8月には湯布院映画祭で特集上映があったが、これは野村正昭の働きかけや映画祭代表である田井肇がかつて鈴木監督の助監督であったことからでた企画である。恐るべし、映画獣どもの底力!

アテネフランセ文化センターではほかに、「監名会」の会場として鈴木監督を招いて『その場所に女ありて』を上映したり、外国人の日本映画研究者が集まる「キネマ倶楽部」(前出のビデオ通販レーベルとは無関係)の協賛企画「転形期の日本映画」で『危険な英雄』を上映したりしていただき、そのたびにボンクラな私を司会やら解説者役で引っ張り出していただき、感謝している。

そして。

やっとテレビ放映まで勝ち取りました!!

といっても、むやみに浮かれているわけではない。こっちとら、「踊らにゃそんそん」の平成阿波踊りの風潮は大嫌いだし、なによりも鈴木英夫作品のすべてが傑作だというつもりは毛頭ないからである。決して数の多くはない作品の中には駄作や明らかな失敗作も多い。当たり前である。傑作揃いなら映画史に埋没して、今日まで誰も注目しないというわけがない。当時はB面だった鈴木清順だって当時から熱狂的な支持者はいたからである。

ともあれ、おだてに乗って鈴木英夫研究会の幹事を務めることになったお調子モンの私は、その後、監督と出身地が近いこともあって、個人的に親しくお付き合いするようになった。私は監督の人柄を知るにつれ、作品はもとより人間的にも鈴木英夫という人に信頼感とシンパシーを持つようになった。鈴木監督は、融通の効かぬ頑固な自分を恥じる含羞の人であり、誠実さと気遣いを感じさせてさせてくれる几帳面な老紳士であった。実際には日本映画全盛の量産時代にあって、監督作品がすべてプログラム・ピクチュアにもかかわらず、わずか35本の劇映画という数字は、鈴木監督の不器用さを物語るもので、内心忸怩たる思いもあっただろうが、その不器用さはどこか古傷を抱える古武士のような印象を与えた。

また、東京国際映画祭のヤングシネマ部門の上映会場で鈴木監督の姿を見かけたり、ソクーロフを上映している劇場でばったり会ったりして、こちらの思っていた以上に新しい映画も熱心に観る人であることを発見し、驚いたこともあったけれど、しかし、このささやかな交流は、下戸である監督の希望で渋谷の喫茶店でときどき雑談をしただけの短い期間で終わってしまった。その喫茶店は鈴木監督が東宝に移籍した折に、成瀬巳喜男監督に連れてこられた喫茶店で、監督曰く「成瀬さんを前にして緊張してコーヒーの味がしなかった」そうだが、それからずっと鈴木監督のお気に入りの場所であった。鈴木監督は高齢ではあったが矍鑠とされていたので、私もまさか急に体調を崩されるとは思ってもみなかった。訃報に接したとき、もっと体系的なインタビューをしておけばよかったと悔やまれてしょうがない。

今回から数度にわたり、鈴木監督本人や関係者の証言を中心にして、不定期ではあるが、鈴木英夫についての文章をアップしていくこの試みは、鈴木監督に大きな借りを作ってしまった私のささやかな恩返しである。

《上映会のお知らせ》
鈴木英夫作品『その場所に女ありて』、『やぶにらみニッポン』、『非情都市』の上映を含む
ラピュタ阿佐ヶ谷「銀幕の東京 失われた風景を探して」5月28日~7月28日