「東京人」3月号特集「青春の深夜ラジオ放送」のおまけ
私もエッセイを2本寄稿しました。「笑福亭鶴光のオールナイトニッポン」をマクラにして、「愛川欽也のパックインミュージック」「私のロストラブ」「深夜版ラジオ漫画」「セクシー・オールナイト」とへと至るH系の深夜放送についてのエッセイと、ベリカードについてのコラムの2本。このほか、本誌は新旧のパーソナリティへの取材や各界著名人のエッセイなど充実した内容となっており、なかなか読ませる特集になっている。

■  鈴木清順も手掛けたラジオドラマ


「東京人」3月号

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「東京人」3月号の内容は次のとおり。

  対談 日付が変わると事件が起こる
亀渕昭信×秋本 治

たったひとりで聴いている、何百万もの人たち
談・谷村新司 聞き手、文・網倉俊旨

最先端で考えていることを話せる実験の場
談・爆笑問題 太田光、田中裕二

深夜から朝まで、どの時間帯も一期一会
談・吉田照美

気づいたら、“人間ラジオ”になっちゃった
談・永六輔 聞き手、文・松田健次

本音で隣人の心に波紋を広げたい
談・小島慶子

なつかしの番組
内田樹「昨日の続き」ほか/
林真理子「野沢那智と白石冬美のパックインミュージック」/
サエキけんぞう「大瀧詠一のゴー!ゴー!ナイアガラ」/
鹿島茂「ララバイ・オブ・トーキョー」/
宮沢章夫「糸居五郎のオールナイトニッポン」「林美雄のパックインミュージック」/
朱川湊人「あのねのね/中島みゆきのオールナイトニッポン」/
山崎浩一「FM25時 きまぐれ飛行船」/
玉袋筋太郎、斉藤 環「ビートたけしのオールナイトニッポン」/
関川夏央「城達也のジェットストリーム」/
黒澤 薫「コサキンのスーパーギャング」/
いしいしんじ「中島らもの月光通信」/
細馬宏通「矢野顕子の若いこだま」

安田講堂崩落前夜 政治の季節と深夜放送
文・御厨貴

三愛、山野楽器、綾瀬のディスコ……夜中のラジオCM
文・泉麻人 絵・イソノヨウコ

ロックは闇夜に封切られた 深夜DJ福田一郎の信頼感
文・近田春夫

ラジオのない人生なんて
文・高田文夫

僕が「電波系ラジオ教徒タケシ派」になった理由
文・水道橋博士 絵・とみこはん

性の芽生えはこの番組。
「笑福亭鶴光のオールナイトニッポン」「私のロストラブ」
「愛川欽也のパックインミュージック」「深夜版ラジオ漫画」ほか
お楽しみはベリカードから
文・木全公彦

ミッドナイトコラム
深夜、おなじみだったあの音楽、あのフレーズ/
忘れられないテーマ曲をもう一度/
孤独な夜、そっと寄り添う「ドライバーズラジオ」/
ラジオ新時代が到来!?多様化する聴かれ方/
未来の「デジタルラジオ」とは?
文・松田健次 絵・イソノヨウコ

深夜放送は、世につれ、DJにつれ。1950年代~2011
文・松田健次

24時をまわる、ラジオをつける
深夜放送番組表

NHK「ラジオ深夜便」の現場を訪ねて
文・与那原恵

江戸東京博物館で知る ラジオが茶の間の主役だったころ
 
で、まず私の原稿の訂正。H系深夜放送についてのエッセイ「性の芽生えはこの番組。」の締めで「とどまることを知らぬ電波メディアのエロへの希求は、深夜ラジオを追い越して深夜テレビのエロ路線が限界に達することで頂点を迎える。そしてそれが国会で問題になるのはもうちょっと後の、世に言うバブルと呼ばれる時代のことである。」でなっているけど、これは「バブル」ではなく「バブル前夜」の間違い。1984年、民放各局が深夜枠で揃って放送を開始した『TV海賊チャンネル』(日本テレビ)、『ミッドナイトin六本木』(テレビ朝日)、『夜はエキサイティング』(東京12チャンネル)の3番組のエスカレートするエロ路線が、当時郵政省(現在の総務省)で問題化し、衆議院予算委員会で取り上げられたのは確か1985年だったはずである。ということで、謹んでここに訂正いたしますデス。

そんなこんなで、掲載誌が届いたので目を通したら、当然、世代やどこで視聴していたかということによって思い出に残る番組は違うと思うが、『セイ!ヤング』(文化放送)、『パックインミュージック』(TBS)、『オールナイトニッポン(ANN)』(ニッポン放送)の御三家の中で、『オールナイトニッポン』(中でも「たけしのオールナイトニッポン」)を挙げている人が多いのは、全国を網羅するネット局の多さのせいか、執筆者の偏りのせいか。まあ、いい。私の場合、この東京発の御三家に加えて、地元の東海ラジオ『ミッドナイト東海』を聞いていたが、森本レオが馘首されるきっかけになった発言を小6のときにたまたま聞いていたことは本誌でも書いたとおり。森本レオのあとを継いだつボイノリオも舌禍事件を起こし、わずか5か月で降板。こっちはガキんちょだったけど、正直がっかりした。名古屋の保守性に。しかしだからといってそれから『ミッドナイト東海』を聞かなくなったわけではない。自慢じゃないが、ごく短い間、採用率4割を誇ったハガキ職人だったこともあるのだ。もちろんペンネーム。なのに、ある日、ポロッと奥山敬造とゆき姐が不用意に本名を読みあげたので、ドキリとしてもうやめちゃおうと思って引退宣言のハガキを出した。それを読まれたのが最後である。その後、『ミッドナイト東海』の本が出版され、本屋で立ち読みしていたらペンネームで書いたネタ投稿に混じって自分の本名も載っているのを発見し、またしても恥ずかしさに凍りついた。そのまま赤面して売り場に立ちつくすこと10分。いやはや恥ずかしい。中学生の頃から雑誌や映画館のプログラムに映画の評論やネタを送る常連投稿者であったのだが、そっちは本名で恥ずかしくなかったのに、なぜラジオは恥ずかしいのか我ながら謎である。それから大学に入って、そうした過去もとっくに忘れた頃、所属していた映画研究会のコンパで、「古本屋で買った本におまえの名前を見つけた」と同級生のノノダ君に言われたときは、慌てて唇に指を当てて「シーッ」としてしまった。今だから言える恥ずかしい過去デス。

最近出た「セイ!ヤング&オールナイトニッポン70年代深夜放送伝説」(文化放送&ニッポン放送&田家秀樹著、扶桑社、2011年)は、そんな深夜放送のよき時代を検証した好著。「東京人」と併せて読みたい。
「東京人」の特集から漏れた思い出の番組はいっぱいあるが、かぜ耕士の『たむたむたいむ』(ニッポン放送)とかあおい輝彦と佐藤公彦の『あおい君と佐藤クン』(ニッポン放送)とか、兄貴風を吹かせた説教くさいのと、番組でポエムを読むような番組は苦手だったのでパスするとしても(わしゃ、ハガキ職人だったかつてだってネタしか書かなかったんじゃ!)、ニッポン放送『ザ・パンチパンチパンチ』(『海の底でうたう唄』は名曲!)とかTBS『一慶・リリーのヤングポップス1010』とか地元CBC『のりのりだぁー歌謡曲』(つボイ先生とゴンちゃん!)とかも書きたかったナ。

また、ラジオドラマについても触れたかったところ。『夜のドラマハウス』(ニッポン放送)、『夜のミステリー』(TBS)、『ラジオ劇画傑作シリーズ』(TBS)、『ラジオ図書館』(TBS)、『音の本棚』(FM東京)とか。こう書き出してみると、やはりラジオドラマはTBSが強い。いっとき鈴木清順もそこで脚本を書いていたはずで、「清/順/映/画」(鈴木清順・述、磯田勉&轟夕起夫・編、ワイズ出版、2006年)の巻末フィルモグラフィによると、『夜のミステリー』では「猫殺しの山」、「タネも仕掛けもありません」、『夜のミステリー』が1987年に『ミステリーゾーン』と装いを変えて再スタートしたときも、「指」「飲む」「階段」「バイオテクノロジー」など何本かの台本を書いていたようだ。1976年に出版されたアンソロジー集「ミステリー短編集 奇妙な食卓〜TBSラジオ 夜のミステリーより〜」(ルック社)には清順作品も収録されていた。これはたまに古本屋で見かける。活字ではなく、ラジオ版のオリジナルは、もしや、と思って動画サイトを検索してみたが、残念ながら清順のものと思われる作品はなかった。しかし『夜のミステリー』をはじめとするラジオドラマの音源がかなりの数がアップされていた。

参考までに『夜のミステリー 体験実話シリーズ』をいくつか貼り付けておく。

『夜のミステリー 体験実話シリーズ』

「第3話 回送電車」


「第5話 野うさぎ」



『ミステリーゾーン 体験実話シリーズ』

「雨上がりの晩に」


「石」



■  あゝ追悼、野沢那智

『夜のミステリー』のナレーターは野沢那智だった。わが世代では野沢那智といえば、ラジオ「ナチチャコのパックインミュージック」であり、テレビアニメ『悟空の大冒険』のオカマっぽい三蔵法師であり、最初は堀勝之祐が担当していたアラン・ドロンやジュリアーノ・ジェンマの声を一手に吹き替えていた声優界の大スタアだった。先ごろ、細川俊之が亡くなったとき、「ああ、野沢那智に次いでまた……」と思ったのは、アラン・ドロン&ダリダの大ヒット曲「あまい囁き」(「パローレ、パローレ」)の日本語カバーが、野沢那智&金井克子、細川俊之&中村晃子の競作になっており、それにドロン&ダリダ版、さらにイタリア語のアルベルト・ルーポ&ミーナ版の計4バージョンが当時の深夜放送で盛んに流れていたことを思い出したからである。野沢那智の訃報を聞いて動画サイトを検索してみたが、細川&中村版の音源はあったが、野沢&金井版はどれも削除されたあとだった。まあ、ネットは便利だが、著作権はちゃんとしないとね、ということなんだろうけど。

ラジオドラマの続きに話を戻せば、「東京人」にも書いたが、『深夜版ラジオ漫画』にも野沢那智はレギュラー出演していた。「東京人」の原稿を書く前にちょっと『深夜版ラジオ漫画』をネット検索したところ、この番組はウィキペディアを含めてネット上ではほとんど情報がないことに愕然とした。知る人ぞ知る番組なのか。関東ローカルだったから田舎者は聞いてなかったのか。そこで「東京人」の限られた紙数の中で『深夜版ラジオ漫画』についても書き加えることにしたのである。以下、一部「東京人」とネタのダブりがあるが、ご容赦いただきたい。

『深夜版ラジオ漫画』は、1970年から1978年まで続いた連続ラジオドラマで、TBS(関東ローカル)日曜日深夜12時から30分枠で放送されていた。ハニー・ナイツの「おー!ちんちん」が大ヒットした記憶も新しい里吉しげみが書き下ろした、古今東西の名作をシモネタとギャグでパロディにしたラジオドラマである。ひとつのドラマはNHK大河ドラマと同じように一年かけて完結し、確認できただけで全部で9作放送された(合間に単発ドラマや短期間だけ放送したドラマあり)。

  『深夜版ラジオ漫画』放送一覧

「忍法西遊記」(1970年)
「マロニエロマン 片目のダルタニアン」(1971年)
「戦国ロマン 俺は日吉丸」(1972年)
「望郷ロマン 明日は帰ろうオデッセイ」(1973年)
「幕末ロマン 龍馬の胸に赤いバラ」(1974年)
「脱獄ロマン 走れダンテス」(1975年)
「フライドチキンウェスタン センチメンタルトマホーク」(1976年)
「股旅メルヘン 恋時雨国定忠治」(1977年)
「英国番外地 夕焼けのロビンフッド」(1978年)
 


最初のころのナレーターは内海賢二だったが、すぐに小島一慶に交代。出演者は里吉しげみの夫人である水森亜土(里吉しげみ・作詞、小林亜星・作曲による主題歌も担当)がメインを務めたほか、内海賢二、小原乃梨子、野沢那智、白石冬美などが出ており、ほかに初期には高松しげお(「チック・タックのフライマン」=原題「Mr.Terrific」、好きでした)も出演していたような気がするし、途中から増山江威子が加わったような記憶もある。あとは当然だが、里吉&水森夫妻主宰の未来劇場の座員たちも出演しており、カルーセル麻紀や山谷初男などゲスト出演も賑やかだった。これだけの俳優・声優たちが日曜日の深夜をくだらないギャグやシモネタの狂騒で染め上げていたことに改めてびっくりする。いちばん熱心に聞いていた時代は、1972年の「片目のダルタニアン」(「三銃士」のパロディ)から、1975年の「走れダンテス」(「モンテ・クリスト伯」のパロディ)までで、このあたりは今も主題歌が歌えるのが自慢のひとつ。世界文学全集は読まなかったが、この番組で古今東西の古典に深~く触れたように思う(わきゃないか)。というより、小学生から中学生の時分であるから、もっぱら人気声優たちが繰り広げるナンセンスなギャグとシモネタ、「あは~ん」「うふ~ん」「あへ~ぇ」に大興奮しながらノイズだらけのラジオに耳を傾けていたのだった。

主題歌に入る前に掛け合いによるオープニングのHな寸劇があった。今でも記憶に鮮烈に残るネタがこれ。

女「お願い、ここんとこ、指でお願い」
男「ここ?」
女「あ~ん、そこ、そこよ」
男「もうこんなに濡れてるじゃないか」
女「そんなに乱暴に指を入れないで」
男「もうちょっとだからガマンして」
女「あ~ん」
男「周りの毛がね、指先にあたってジャマなんだよ」
女「いや~ん。そこの毛は自然にしてるから」
男「毛で囲まれた割れ目がぐっしょり」
女「痛いわ」
男「ああ、ちょっと動かないで。もう少し押し広げるから」
女「乱暴に広げちゃいやよ」
男「ぬるぬるしてきた」
女「ねえ、ここのこと、なんて言うか知ってる?」
男「《ま》で始まり《こ》で始まる3文字の言葉だね」
女「ああん、それを言っちゃだめ!」
男「動かないで! もう少しだから」
女「あんまりグリグリしないで。痛いわ~」
男「指じゃなくて舌先でやったほうがいいかな、ほら」
女「あ~ん」
男「これはどう?」
女「あ!」
男「やっと取れた、君のまなこに入ったゴミが」
チャンチャン!

という感じのしょうもないオチのあるオープニング。こんときは確か男は内海賢二で、女は小原乃梨子だった気がするが(水森亜土だったかもしれない)、映画狂の小中学生としては当然、ヴィクター・マチュアとクラウディア・カルディナーレ、あるいはスティーヴ・マックイーンとシャーリー・マックレーンに脳内変換して、外人スタア版で妄想をふくらませていた(なんてゴージャス!)。親に聞かれないように頭からふとんをすっぽりかぶっていたため、興奮しすぎて酸欠状態になり、失神寸前になっていたのも今からすればいい思い出である。後年、テレビで『青い体験』を放送しているとき、すでにこちらはもう高校生か大学生であったし、映画館で観ていたので大して気にせずチラ見していたら、ラウラ・アントネッリの声を池田昌子が担当しており、ふいにアン王女とメーテルの顔が浮かび、妙に興奮したこともあるが、そういう原体験がこの『深夜版ラジオ漫画』だったかもしれない。しかし、まったく、こういうくだらないことばかり覚えていて、英単語や化学記号はまったく頭に入らないんだから、ほんとにもう!

先にも書いたように『深夜版ラジオ漫画』は情報がほとんどなく、動画サイトにアップされた音源はものすごく限られているが、奇特な人が『深夜版ラジオ漫画』の主題歌集の特番を動画サイトにアップしているので、貼り付けておく。

「TBS深夜版ラジオ漫画 主題集1」



「TBS深夜版ラジオ漫画 主題集2」



「TBS深夜版ラジオ漫画 主題集3」



いやあ、今聞いても山谷初男の「秋田音頭」は凄いねえ。これは貴重。「ラジオマガジン」の創刊が1980年、「ラジオパラダイス」は1985年、「FM STATION」が1981年で、80年代以前にあったラジオ専門誌は1974年創刊の「FMレコパル」ぐらい。それでさえ民放のネタは少なかったから紙媒体の情報は皆無といってもよく、新聞の番組欄もテレビ欄ほど資料性は高くないのが実情である。パーソナリティのしゃべりや人気コーナーがウリの深夜放送であれば、単行本もあるだろうし、回想録やインタビュー本もあるが、ラジオドラマやこういう企画勝負の番組の資料はまったくない。だからこれはホントに貴重な記録になる。

私とて10年ほど前までは、いくつか録音したカセットテープを持っていた。『林義雄のパックインミュージック』の「年末日本映画傑作選スペシャル」(『非行少年 若者の砦』、『股旅』、『やさしいにっぽん人』、『約束』などのセリフ集)、『タモリのオールナイトニッポン』の「全日本冷し中華愛好会(全冷中)」、「中洲産業大学夏期講座」、『淀川長治のラジオ名画劇場』を何本か、など。真剣に探せば、今も実家にあると思うが、たぶん引っ越しのゴタゴタやらなんやらで無くしてしまったような気もする。惜しいことをした。

映画絡みでいえば、双葉十三郎、佐藤忠男、登川直樹、飯島正という映画評論家業界では重鎮クラスの顔ぶれだったと思うが、映画談議の番組もあった。1973年の暮れ、一年の総括としてやたらやくざ映画と日活ロマンポルノが話題にあがるので、中学生にも「これを見ないで日本映画の現在は語れないだろう」と思わせ、怠業への道を踏み出すきっかけを作ったのもラジオのせいである。年末の特番で『生き残るヤツ』や『センチュリアン』をベストテンに推していたのは誰だっけ。あれはほかの番組だったか?

『深夜版ラジオ漫画』に話を戻せば、「龍馬の胸に赤いバラ」で人斬り以蔵、「走れダンテス」では主役のエドモン・ダンテスを演じていたのが野沢那智であった。「ナチチャコのパックインミュージック」の最終回はしんみりして聞いた。

「野沢那智の訃報」



「テレポート6 1982年5月」



というわけで、「野沢那智 お別れの会」の告知です。

  『野沢那智 お別れの会』のお知らせ

この度 急逝(平成22年10月30日)致しました
故 野沢 那智 儀のお別れの会を2月14日(月)に開かせて頂く運びとなりました
生前 ご声援を頂いた方々に御記帳の場を設けさせて頂ければと存じます

日  時  平成23年2月14日(月)午後16時30分から17時30分
場  所  東京會舘    九階  ローズルーム
東京都千代田区丸の内3‐2‐1  電話 (03)3215‐2111
※供花のお手配は オリエンタルフローリストまでお願い申し上げます
                 TEL・FAX(03)3215‐5587
※誠に勝手ながらご香典の儀は固くご辞退申し上げます

「野沢那智 お別れ会」事務局
株式会社パフォーミング・アート・センター/オフィスPAC
電話(03)‐3662‐0064
 


野沢那智氏のご冥福をお祈りします。

以下、続く。

Text by 木全公彦