1964年、文部省(当時)主催の芸術祭に1本のピンク映画が出品され、ちょっとした騒動になった。出品したのはピンク映画の老舗製作会社国映で、作品のタイトルは『裸虫』という。監督は「グループ創造」という集団名になっていたが、近年これはテレビ・ディレクターの今野勉の変名ということが明らかになっている。
国映からの依頼
最初に今野勉のプロフィールを簡単に紹介しておこう。1936年秋田県に生まれ、1959年、東北大学を卒業すると同時にラジオ東京(現・東京放送=TBS)に入社。テレビ演出部に配属される。テレビ演出部の同期に、村木良彦、並木章、高橋一郎、中村寿雄、のちに作家になる阿部昭、同じくのちに映画監督に転身する実相寺昭雄がいる。まだ民放が放送を開始してから4年目というテレビ草創期だった。今野はイタリア賞大賞を受賞した『土曜と日曜の間』(1964年)、『七人の刑事』(1965~1968年)など今では伝説的になったドラマの演出に携わる。1970年、TBSの仲間25人と共に同社を退社し、日本初の独立系テレビ番組制作会社、テレビマンユニオンを創立する。読売テレビ『遠くに行きたい』(1970~1976年)、TBS『天皇の世紀』(1973年)、日本テレビ『欧州から愛をこめて』(1975年)、TBS『海は甦る』(1977年)、NHK『童謡詩人金子みすゞの世界』(1995年)などを演出。1998年の長野オリンピックでは、開会式・閉会式のプロデューサーを務めた(会場演出・映像監督)。1998年から2005年まで武蔵野美術大学映像学科主任教授。現在、テレビマンユニオン取締役最高顧問、放送人の会代表幹事など。
このプロフィールに照らし合わせると、『裸虫』が作られた1964年というのは、今野がADからディレクターに昇格してまもない頃ということになる。1962年、待田京介が推理小説作家を演じる『月曜日の男』を初演出。続いて『純愛シリーズ ガラスのヨット』(1963年)で本格的にディレクターとして一歩を踏み出す。次いで『太陽をさがせ』(1964年)にとりかかる。『太陽をさがせ』は、「家庭裁判所の少年調査官の活動を描いた作品。26回シリーズの予定で先行制作されていたが(原文ママ)、 スポンサーがついていなかった。主演の佐田啓二の事故死に より急遽完成していた5回分を金曜劇場の枠で放送した」 (「テレビドラマデータベース」、2016年2月29日閲覧、今野註: 「太陽をさがせ」は、放送日を決めずに「事前制作番組」として 制作されたものなので、26回シリーズの予定ではなく、最初から まず5本を作るということで始まった番組)。という作品である。
今野勉がその5作目を作っているころ、『月曜日の男』の脚本家であった浅間虹児から、映画を撮らないかと持ちかけられたのだという(出典①)。
「ピンク映画を撮らないか」という話ではなく、「国映というピンク映画を作っている会社が500万円出すから何を作ってもいいと言っている」というのが浅間さんの最初の話でした。内容について国映側からはとくに注文はありませんでした」(出典②)