コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 Jフィルム・ノワール覚書⑫ 東映ノワール 『白い崖』を検証する   Text by 木全公彦
今回は今井正が監督した東映作品『白い崖』について書いてみたい。『白い崖』といえば、山本薩夫と並んで戦後の独立プロ運動を牽引した左翼監督である今井正にしては、似つかわしくないミステリ/スリラー映画だが、本人も認めるようにあまり成功したとはいえず、『キクとイサム』(1959年)と『あれが港の灯だ』(1961年)という傑作に挟まれて、今井のフィルモグラフィの中でも埋もれた作品というイメージがある。

「ぜんぜん失敗作です。スリラーで、なにか自分のものが出せると思っていましたが、やっているうちにこれは駄目だと気がついた。もちろんベストはつくしましたがね」(キネマ旬報1960年12月増刊 日本映画監督特集/自作を語る・今井正)とは、『白い崖』公開直後の今井自身の短いコメント。これだけ読むと、独立プロとは勝手が違う東映で撮った作品だから、『ひめゆりの塔』(1953年)や『米』(1957年)のような今井の作風に沿った作品ばかりを撮る自由はなく、東映サイドの商業的な要請があったのだろうと思われがちだが、実はそうではなくこの企画は今井が長年温めていたものだった。

始まりはドライサー
今井 正
話は、いわゆる「こなかったのは軍艦だけ」と言われた東宝争議のクライマックス、1948年の東宝第三次争議の頃にさかのぼる。今井正は共産党員として組合側にいたが、とくに熱心な活動家だったわけではなかった。にもかかわらず、『女の顔』(1949年)のあと、自ら東宝に辞表を提出した。しかし東宝は『青い山脈』(1949年)を大ヒットさせた今井を重宝し、次回作を望んだため今井は『また逢う日まで』(1950年)をフリーランスの立場で撮り上げる。だが、その年、占領軍の示唆に端を発するレッドパージが起こり、ついに今井は東宝を離れざるを得なくなった。

同年、職を失った今井は生活のために屑屋を始め、その経験は今井にとっての初の独立プロ作品にして新星映画社第1作『どっこい生きてる』(1951年)に反映されることになる。その後、今井は独立プロを根城に次々と力作を撮っていくのだが、実はその間にセオドア・ドライサーの「アメリカの悲劇」の日本版を監督する企画があったということはあまり知られていない。

「アメリカの悲劇」は米国自然主義文学の確立者ドライサーが1925年に発表した彼の代表作で、貧しい青年が出世の野心のために恋人を湖で溺死させてしまう物語である。

映画化は二度。最初の映画化はジョセフ・フォン・スタンバーグ監督による『アメリカの悲劇』(1931年)。主演は主人公の青年にフィリップス・ホームズ、その恋人にシルヴィア・シドニー、主人公があこがれる上流社会の娘にフランセス・ディーという布陣で、日本公開は製作年の1931年。ちなみにこの年、1931年のキネマ旬報のベストテンは、第1位が『モロッコ』、第10位に『アメリカの悲劇』がランクインしているから、日本の観客にとってトーキー時代を迎えたスタンバーグの第2次黄金時代が本格的に始まった年ともいえる。

だが、スタンバーグ版『アメリカの悲劇』は現在ではあまり評価の高い作品ではない。実際、製作当時まだ存命だったドライサーが試写でこの作品を見て激怒し、彼の意見を容れてあちらこちらを修正したため、スタンバーグはこの作品を自作として認めていないという。しかしコード以前とはいえ、このような非道な話をよく映画化できたと思うが、現在見てみると、主人公の青年はひとかけらも観客の感情移入を誘わない冷酷で下衆な男だし、それを演じるフィリップ・ホームズの演技も感情の起伏に乏しく薄っぺらな人間に見える。単にホームズの演技が下手なのかそれともそういう演出なのか。スタンバーグはこの主人公に1ミリたりとも共感を寄せてないことが分かる。主人公に共感を抱けないのであるからドラマとしては致命的だろう。長所といえば、シルヴィア・シドニーの可憐さと、リー・ガームスのソフト・フォーカスを多用した、陽光を受けてきらめく湖面やシドニーのクローズアップをとらえる甘美的な映像だけが突出していることだろうか。

そして二度目の映画化がジョージ・スティーブンス監督による『陽のあたる場所』(1951年)。つい最近日本でも刊行されたスティーヴ・エリクソンの小説「ゼロヴィル」では、映画狂の主人公が自らのスキンヘッドに、主演のモンゴメリー・クリフトとエリザベス・テイラーの刺青を彫っているという設定で、最高にクレージーだったことが思い出される。とまれ、スティーブンスの映画版は、個人的にはそれほどの名作とは思わないが、その出来のよしあしは別にして、モンゴメリー・クリフトの昏さとエリザベス・テイラーの美しさが際立つ一作だった。オスカーを獲ったシェリー・ウィンタースの巧演も忘れがたい。日本公開は1952年9月24日。

その半年後、『ひめゆりの塔』の爆発的大ヒットの直後だろうと思うが、新聞に次のような記事が出る。
「エイト・プロでは新東宝との提携作品として、今井正監督、高峰秀子主演で日本版『陽のあたる場所』を企画、水木洋子に脚本を依頼して準備を進めていたが、その後たまたま新東宝の人事改革が行われて、田辺新社長が就任するとともに同氏が製作を拒否したため遂に中止するのやむなきに至った。最大の理由としては「今井監督は共産党員であり東宝のレッド・パージ組であるから」というにあり、これに対してエイト・プロ側ではその後田辺新社長に対し「今井監督以外のスタッフは会社側の申入条件に従う」云々と種々折衝、説得に努めたが、遂に妥結に至らなかったものである。【エイト・プロ高田晴郎氏談】佐生前社長のOKを得て製作準備をはじめ構想もほとんど出来上っていたもので、高峰秀子も一度今井監督の作品に出たがっていたし、私としてもまことに残念なことだ」(「内外タイムス」1953年3月19日付)。

エイト・プロというのは東宝争議後、東宝を追放された五所平之助が東宝を辞した仲間たちと作った独立プロで、そこで作られた五所の作品は当時新東宝を通じて配給されていた。その中の1本『朝の波紋』(1952年)は高峰秀子のフランスから帰朝した第1作。今井の企画はそのセンから出たものなのだろう。だが1953年2月、新東宝の社長であった佐生正一郎が退陣し、後を継いで小林一三の異母弟で後楽園スタジアムの社長であった田辺宗英が社長に就任すると、企画の見直しが行われ、それで今井のこの企画も流れたものだと思われる。

今井がドライサーの原作をいつ読んだのか、スティーブンス版『陽のあたる場所』を見てどのような感想を抱いたかは不明だが、リズとは違った高峰秀子主演の日本版『陽のあたる場所』も見たかったなあというのが映画ファンとしては正直なところだ。