コラム『日本映画の玉(ギョク)』 俳優ブローカーと呼ばれた男【その壱】   Text by 木全公彦
敗戦直後の映画界で“俳優ブローカー”なる存在が注目されはじめた。元来、スタジオ・システム下の映画界では、映画俳優は映画会社が育て、売り出すものだった。映画スタアは映画会社が作り出すものだったのだ。そのため、ほとんどの俳優は特定の映画会社に所属し、専属契約あるいは年契約や本数契約を結んでいた。

“怪物”星野和平
ところが終戦後の物資不足の反映で、映画の製作本数が激減し、インフレの進行で一社の独占契約だけでは俳優たちの生活がたちゆかなくなると、自由契約になる俳優が増加した。彼らの契約を斡旋したのが“俳優ブローカー”と呼ばれる人たちだった。今でいう芸能プロダクションのような存在といったらよいか。彼らは俳優たちを傘下に丸抱えするだけでなく、映画会社に俳優を貸し出すときに企画もパッケージにして売りつけるプランナーやプロデューサーの役割を果たす者もいた。

著名なところでは、時代はもっとあとになるが、東映任侠映画の父と呼ばれる俊藤浩滋なんかも、傘下に鶴田浩二や高倉健などを抱えていたが、“俳優ブローカー”というよりはフリーランスの任侠映画のプロデューサーとして認識されているのはないかと思う。

そうした“俳優ブローカー”の中で最も悪名を轟かせた御仁といえば、星野和平のほかにいない。なにしろスタア転がしのプロデューサーとして、引き抜きの裏には必ず星野の陰ありと言われ、“怪物”と呼ばれた男なのだ。ちなみに星野和平は“ほしの・わへい”と読む。“ほしの・かずひら”ではないので、ウィキペディアは訂正しておくように。

佐分利信
星野和平がその悪名を轟かせたのは、戦後まもなくから1950年代中頃までだろうか。終戦後の物資不足の時代、家業が質屋であることをいいことに、食糧や質流れになったもの、果ては住むところまでをスタアに世話する代償にマネジメントを始め、スタアの契約面の面倒をみたのがことの始まりだった。この時代の星野がどれほどのスタアを傘下に収めていたかというと、ざっと挙げれば、原節子、佐分利信、高峰三枝子、木暮実千代、田中絹代、三浦光子、水戸光子(のちに小川吉衛の国際芸能社に移籍)、藤田進、宇佐美淳、坂本武、飯田蝶子、吉川満子、三宅邦子、徳大寺伸、伊沢一郎ら、綺羅星ごとく錚々たるスタアの名が並ぶ。

この中の原節子の場合。彼女は東宝争議の最中に十人の旗の会のひとりとして、東宝を出て、新東宝設立に参加し、新東宝製作作品では『かけ出し時代』(47年、佐伯清監督)に出演しただけで、新東宝を離れてしまう。その原を星野が狙った。「「週刊新潮」1958年1月6日号「裸の銀幕 映画界の“悪漢星野”半生を語る」」には、星野の談話としてこんなエピソードが紹介されている。

星野は自らの東京プロに原節子を専属契約で迎えるつもりだったという。最初、原節子の義兄・熊谷久虎と交渉するが、てんで相手にされない。それで仕方なく直接原の自宅に行くが、背中の大きなリュックが怪しいと、保土ヶ谷の改札口でヤミ米の担ぎ屋と間違えられて警察につかまってしまう。ところが警察がリュックを開けてびっくり仰天。その中には100円札で現金が120万円ぎっしりとつまっていたのだから。警察に事情を話すと、なるほどそれならそんな大金危ないから、というわけで護衛してもらって先方へ。ところが原節子はうんともすんとも言わない。星野は話がまとまらないのに、そのリュックを「預かり証」もなしでそのまま置いてきてしまった。その半年後、松竹で小津安二郎の『晩春』(49年)が製作され、原節子が主演に迎えられたという。

しかしこの情報はかなり怪しい。原節子は『晩春』以前にも松竹作品『安城家の舞踏會』(47年、吉村公三郎監督)や『誘惑』(48年、吉村公三郎監督)、『颱風圏の女』(48年、大庭秀雄監督)にも出演し、のみならず東横『三本指の男』(47年、松田定次監督)や大映『時の貞操』(48年、吉村廉監督)『幸福の限界』(48年、木村恵吾監督)にも出演しており、事実上すでにフリーであることから、この話が『晩春』につながるのは星野の勘違いではないだろうか。それに1952年設立の東京プロでは年代が合わない。たぶん芸研プロが正しい。したがってこの話は『晩春』の直前ではなく、『安城家の舞踏會』の直前か、専属契約というのが正しければ芸研プロ第1作『殿様ホテル』(49年、クラタ・フミンド[=倉田文人]監督)の直前のことではないだろうか。星野と芸研プロの関係は後述する。