コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 「母に捧げるバラード」のこと   Text by 木全公彦
松村邦洋の“ひとり『アウトレイジ ビヨンド』”をゲラゲラ笑いながら見ていたら、続いて松村は定番ネタである金八先生=武田鉄矢のモノマネをやり、それを見ていて突如思い出したことがある。武田鉄矢が、当初彼を一躍有名にしたヒット曲「母に捧げるバラード」という題名を冠にした映画で俳優デビューを果たすはずだった、ということだ。

■ 映画『母に捧げるバラード』
ご存じのように、武田鉄矢の映画デビュー作は、山田洋次の『幸福の黄色いハンカチ』(1977年)である。武田鉄矢はこのときの演技が絶賛されて、第1回日本アカデミー賞の最優秀助演男優賞やキネマ旬報の助演男優賞などを受賞して、これをきっかけにして歌手業だけにとどまらず、現在にもつながる俳優業に本格的にフィールドを広げていく。今じゃ歌手というよりももう名実ともに立派な俳優だ。だが本来ならば、『幸福の黄色いハンカチ』より前に『母に捧げるバラード』という映画の主役として映画デビューするはずだった。そうならなかったのは、この映画の企画が途中で頓挫したためだが、企画自体がそのままポシャったわけではなく、それから数年してから題名を変えてかなり変則的な形で映画化されたのだが、とりあえず順を追って整理し書きだしてみよう。

武田鉄矢をリーダー&ボーカルとするフォーク・グループ海援隊は、1972年にデビューした。デビューアルバム「海援隊はゆく」はまるで売れなかったが、セカンドアルバム「望郷篇」に収録された「母に捧げるバラード」(作詞・武田鉄矢、作曲・海援隊)の評判がよく、シングルカットして1973年の年も押し迫った12月10日にリリースしたら、翌年の1974年にかけて大ヒットした。武田が博多でタバコ屋を営む母に宛てた詫び状を歌にした博多弁のセリフ混じりの曲である。この曲で海援隊は1974年の第16回レコード大賞企画賞を受賞し、年末を締めくくる歌謡曲の一大イベント紅白歌合戦にも出場する。まあ、こんなことはウィキペディアにも書かれてあることだが、「母に捧げるバラード」のヒットに火がついた1974年の春先には、早くもこの曲の題名をそのままいただいた映画が、武田鉄矢主演で製作されると、スポーツ新聞や週刊誌に大々的に発表された。この話はウィキペディアには載っていない。

映画化の名乗りを挙げたのは東映である。斜陽の日本映画界にあって唯一任侠映画で気を吐いていた東映だが、新左翼運動の凋落と軌を一にするように任侠映画の人気も下火になりはじめていた。ちょうどその頃、『仁義なき戦い』(1973年)のバカ当たりで実録やくざ映画路線に舵を切るが、まだ確信はない。「スケバンもの」や「東映ポルノ」路線も客足が落ちていた。実録やくざ映画と並ぶ新しい路線の開拓が急がれていた。そこに「母に捧げるバラード」のヒット。とにかく題名だけでもいただいて、適当に内容をでっちあげてしまおうというのは、その頃の東映に限らず昔の映画界ならざらにあることだった。東映では「夜の歌謡曲」シリーズという、今考えると明らかに梅宮辰夫と緑魔子主演の「夜の青春」シリーズの延長に企画されたに違いないと思うが、当時のヒット曲を題名にした青春映画シリーズ(歌謡映画でもなんでもない連作)が次々と製作されているという下地があった。

際物商法にしろ便乗商法にしろ、スピード感こそがなによりも重要だ。当時の映画業界は零落の一途をたどっていたとはいえ、ブロック・ブッキングの全プロ体制がまだ健全に機能していたギリギリ最後の時代だから、企画から上映までのスピードは驚くほど速い。「夜の歌謡曲」シリーズも次々と即製された、東映らしい泥くさい青春映画の連作だったが、即製という点では今回も例外ではない。1974年の春先といえば、まだ「母に捧げるバラード」がオリコンにチャートインしている時期なのだ。この鉄は熱いうちに打てという精神こそ最近の映画界に欠けているもののような気もするが、いかがなもんか。

ところで「母に捧げるバラード」製作発表のニュースを、当時の映画ファンが嬉しい驚きで受け止めたのは、海援隊のヒット曲が武田鉄矢主演で映画化されるということよりも、この映画を鈴木清順が監督するということだった。まさに衝撃的なビッグニュース。清順といえば、『殺しの烙印』(1967年)で「わけのわからん映画を作る監督」という烙印を当時の日活社長・堀久作に押されて日活を追放され、作品のシネクラブ貸出の全面封鎖という窮地にあったが、鈴木清順問題共闘会議の支援のもとで続けられた裁判闘争は、1971年12月24日には日活側が和解金を支払うという形で決着していた。

それからはや幾数年。事実上裁判で勝ったとはいえ、映画会社にレッドカードを出され、揉めた監督に、村社会的な映画業界を牛耳るほかの映画会社が声をかけるはずがない。メジャー以外の選択肢といえば、当時はピンク映画かATGしかなかった時代だが、ピンク映画はともかくATGで映画を撮る気は、清順にはまったくない。「あれは大島(渚)さんたちがゲイジュツ映画を撮る場所で、僕は娯楽映画だから」と清順は語っていたと記憶するが、まさかその後、清順が(少なくとも“世間的には”)芸術映画監督として復活を果たすとは、そのときは夢にも思わない。したがってその時代には清順は現役の監督としては“干された”状態にあったわけだが、名画座や学園祭での特集上映があるとその名前が出るだけで場内からどかっと拍手が起こる伝説の監督と化していたのだった。ああ、気持ち悪かったな、地方でも年長の映画ファンが名画座のスクリーンに向かって拍手する馴れ合い的な光景は、と戸惑ったことや、数年後にはその拍手や笑いさえ起こらなかった自主上映会のお通夜のような寒々しい思い出は、以前、本欄コラム「1973年の鈴木清順と加藤泰、または個人的な体験」に、名古屋で中学生だった私の個人的思い出として書いた。まあ、そんなわけでこのニュースには映画ファンは飛び跳ねて喜び、久々の清順美学を見られることに大いに期待を寄せたのだった。