1940年代後半、戦後の新作映画不足と、東宝争議の混乱による東宝の製作機能のマヒによって、これを補う形で、続々と独立プロダクションが誕生した。また、東宝争議やそれに続くレッドパージによって撮影所を追われた人材の中にも独立プロに活路を求めてやってきた人たちがいた。
『恐怖のカービン銃』
東宝争議の結果、その和解金から『ペン偽らず 暴力の街』(1950年、山本薩夫監督)が製作され、そのヒットが新星映画社の設立に結びついたことは、すでに
「Jフィルム・ノワール覚書③『暴力の街』とその周辺」で述べた。しかし乱立した独立プロは、なにも左翼系のプロダクションに限ったわけではなく、新藤兼人と吉村公三郎らが中心になった設立した近代映画協会のように芸術的自由を求めて設立されたプロダクション、純粋に利潤を求めることが目的のプロダクションなどさまざまで、映画産業の右肩上がりの好調さを反映して、映画界は第一次独立プロブームを迎えた。
東宝争議の余波を受けて分裂した組合脱退組が作った東宝第二撮影所は、1947年には新東宝映画製作所となり、さらに1948年には正式に新東宝となった。新東宝は、まもなく東宝と袂をわかって自主製作・配給の道を歩み出す(実際に自主配給が開始されるのは1949年)。しかし1950年代半ばから二本立て興行が主流になってくると、プログラムを自社製作作品だけで埋めるのは新東宝の脆弱な製作体制では困難で、独立プロの買い付け作品で補った。セミ・ドキュ・スタイルの犯罪映画が流行しだしたのは、ちょうどその頃である。メジャー・スタジオのようにたくさんのスターを抱え込んでいるわけでもなく、予算も潤沢でない独立プロにとって、これはうってつけの題材だった。
『恐怖のカービン銃』(1954年、田口哲監督)もそうした作品のひとつ。蟻プロダクションが製作し、新東宝が『娘ごころは恥づかしうれし』(1954年、小森白監督)の併映作品として配給した。蟻プロはもともと『混血児』(1953年、関川秀雄監督)の 製作母体として設立された独立プロだが、なぜかこの一本で左翼系から急転回し、次に製作したのが『恐怖のカービン銃』だった。
『恐怖のカービン銃』ポスター
DVD『恐怖のカービン銃/暁の非常線』
『恐怖のカービン銃』
事件のモデルになったのは1954年6月13日に起きた、いわゆるカービン銃ギャング事件である。カービン銃を持ったリーダーに率いられた強盗団が保安庁技術研究所の会計係長夫妻を監禁し、脅かして作らせた小切手を現金に換えて奪取した事件で、アプレゲール犯罪のひとつとされる。日本には珍しい銃器を使った強盗誘拐事件であるのに加えて、主犯格の男が紳士的な風貌で、その情婦が東映の元女優で準ミス銀座だったほどの美貌の持ち主であったことから、世間の注目を浴びた。その主犯格の犯人が逃亡先で逮捕されたのが7月21日。映画の封切りが8月3日であるから、併映用の46分の中篇とはいえ超スピードで製作されたことになる。この速さたるやすごい。これぞエクスプロイテーション映画の見本!
文献やポスターでは監督は田口哲ということになっているが、本篇の監督クレジットは田口と脚本の浅野辰雄とのダブル・クレジットになっている。どちらが正しいのかは不明。田口哲は、日活時代の『将軍と参謀と兵』(1942年)のみが有名で、戦後はパッとしないキャリアのまま、独立プロや新東宝を転々としていつのまにか消えてしまった。浅野辰雄も不思議なキャリアの映画人でのちほど詳述する。
速成を求められる企画のため、映画のストーリーは実際の事件をなぞっていく。役名は大胆にも表記こそ違うが実際の名前と同じ。主犯格の大津(劇中では太津)には新東宝スターレット第1期生として入社して4年目になる天知茂。本作はその初主演作である。その愛人・みさお(劇中では美佐保)にスターレット第1期生で天知と同期の三原葉子。二人とも当時は無名であり、そのことが逆に当時としてはリアリティになったのだろう。ほかの俳優も物語をナレーションで導いていく新聞記者役の近藤宏もふくめて当時は無名だった俳優ばかりが起用されている。オールロケは当然として、実際のニューズリールや新聞をインサートして(犯人たちが新聞の見出しは劇中の名前ではなく、実際の名前になってしまっているのはご愛嬌)、効率化を図りながら臨場感を盛り上げる。
「これは事実をもとにしたセミ・ドキュメンタリー映画である」というクレジットが出て、ビル街が大俯瞰で映し出される。そこに次のようなナレーションがかぶさる。「昭和29年の冬は長かった。いつまでもじめじめとした冷たい日が続いた。一説によると、ビキニの灰が日本の上空を去らないのだそうだ。しかもまだ水爆実験は続けてられているという。こうした国際的不安が重苦しい梅雨空になってかぶさっている下では、連日血なまぐさい犯罪や一家心中が続出した。この日、東京の真ん中の日比谷の交差点で突然事件が持ち上がる」この導入部のナレーション原稿は当時の不安に包まれた世相を反映していてなかなか秀逸。続いて、ビルから逃げ出した男たちが慌てて逃走車に乗り込む様子が映し出される。被害者の訴えを担当刑事から聞いた新聞記者(近藤宏)が事件の発端からあらましを語るところから物語はスタートする。
本場ハリウッドのセミ・ドキュでも効果的に使われたナレーションだが、本作では主犯格太津のプロフィールや前科などが語られるほか、即製で作られた映画の省略されたディテールをナレーションが補う役割もしている。
保安庁を馘首になった前科一犯のインチキ車ディーラー、太津健一(天知茂)は、山元(村山京司)、円山(加藤章)、鷹田(三砂亘)の仲間とともに、保安庁技術研究所経理課長夫妻を誘拐し、研究所の金庫を開けさせて小切手を奪い取る。太津らはその小切手の一部を銀行で現金化。残りの小切手を現金にするため連れだした係長が隙を見て交番に駆け込んだため、太津らは慌てて逃亡する。映画の冒頭で映し出されたのはこの場面。猜疑心の強い太津は仲間に分け前をすぐには与えず、小遣い程度のカネを与えて、情婦の美佐保(三原葉子)とアジトに身を隠す。そのうち故郷に逃亡した仲間が逮捕され、仲間割れが発生。ついに太津も潜伏先の大分で逮捕される。東京に太津が護送される場面では、当時のニューズリールがふんだんに使われ、ヤジ馬でごった返す様子が映し出されている。
余談ながら、この主犯の大津健一は、仮釈放後、“元死刑囚K・O”という仮名で「さらばわが友――実録・大物死刑囚たち」(現代史出版会、1980年)という手記を書き、それをもとに東映が中島貞夫監督で本が出た直後に映画化。さらに本名で「絞首への道 純情編」「赤いルージュと機関銃――絞首への道 犯罪編」全2巻(現代史出版会、1983年)を書いている。