今回は日本映画界で最高齢の現役監督・脚本家として活躍されている新藤兼人さんにインタビューした。最新作『石内尋常高等小学校 花は散れども』(08)でも衰えを知らぬ創作意欲は圧倒的で、今年97歳を迎える人とは思えない若々しさには脱帽するばかりである。
新藤さんが脚本を書かれた、鈴木英夫監督の最後の大映作品である『西条家の饗宴』(51)は、新藤さんのオリジナルである。鈴木さんと新藤さんとのコンビ作はこの1作しかないが、実は大映の前身である新興キネマでは、鈴木さんと新藤さんは同じ釜の飯を食った仲間であり、新興キネマの超大作『北極光』(41)では樺太ロケに一緒に同行している。
今回は、事前に新藤さんに『西条家の饗宴』のビデオを観ていただき、『西条家の饗宴』のこと、『北極光』のロケのこと、そしてなによりも鈴木英夫監督の話を伺った。
■鈴木君は『母代』のシナリオで一躍将来を嘱望された新人に躍り出た
――『西条家の饗宴』を久しぶりにご覧になっていかがでしたか。
新藤 観るまではこの映画のシナリオを書いたことをすっかり忘れていたけど、すぐに僕の書いたシナリオだと分かりました。僕は大船でああいう家庭劇をよく書いたんです。人物の配置、ドラマの進め方、菅井一郎が狂気を装う転換部、ハッピーエンド。大船的なペーソスのある家庭劇ですね。自分で言うのも変ですけど、なかなかよく書けているなあと思いました。鈴木君は僕の書いたシナリオをよく生かしていい映画にしてくれた。物語の捌きがうまいね。なかなかの才能だと驚きました。
――映画の中で撮影所が出てきますね。あれは大映東京撮影所ですか。
新藤 そう。驚きました。
――東宝争議のあとだから、東宝系の俳優もたくさん出演されています。
新藤 そうですね。これは1951年の作品だね。僕たちが独立して近代映画協会を創ったのが1950年。で、『戦火の果て』(50、吉村公三郎)を作ったあと、大映と契約して『偽れる盛装』(51、吉村公三郎)をやり、それから大映東京で『自由学校』(51、吉村公三郎)、京都で『源氏物語』(51、吉村公三郎)をやったと思うから、この『西条家の饗宴』のシナリオはその間に書いたんだと思うんです。その頃は京都で仕事をすることが多かったんだけども、大映の京都と東京の合同会議で新藤に東京撮影所の撮影所でやるシナリオを書かせろということになったんだと思います。
――逗子が舞台だということもあって、のんびりした感じがします。
新藤 今観てもそんなに時代がずれている感じがしないね。家族の描き方とか。それは鈴木君の演出のうまさだと思います。
――でも、ほのぼのとした家庭劇が突如菅井一郎の発狂騒ぎで転換するところは、どこか変な感じがします。アップが多くなるし、結末をどこに着地させるか、不穏な雰囲気が漂います。
新藤 いや、菅井一郎が狂気を装って、周囲がハラハラするところなんかうまく見せていると思いますよ。僕は菅井君と古くからの友人だから懐かしかった。
――新藤さんが大映の前身である新興キネマに入社されたのが1934年ですが、鈴木さんが新興に入社されたのは、その5年後の1939年です。年齢は新藤さんのほうが2つ上。住んでいらしたのもご近所だったそうですね。
新藤 僕は江古田に住んでまして、たぶん鈴木君は椎名町だったと思う。同じ武蔵野線だね。現在の西武池袋線。撮影所が大泉学園にあったから、新興の連中はみんな武蔵野線沿線に住んでいました。鈴木君は、編集部にいた近藤光雄――この男はのちに日活に行って編集をやり、その後フリーになって僕の作品の編集もやってもらいましたが――その近藤君と、天辰大中(あまたつ・だいちゅう)という男と仲が良くていつも3人一緒だった。天辰大中というのは戦後東宝に移って営業だったか美術部だったか、それとも特機かなにかを扱う部署だったかにいたはずです。その3人は同世代で新興に入ったのも同じ頃だったんじゃないでしょうか。僕は天辰大中とはあんまり親しくなかったけど、その3人とはよくあっちこっちへ遊びに行ったり、雑談したりしました。鈴木君と近藤君は戦後も付き合いがあったんじゃないかなあ。そのぐらい仲がよかった。もう亡くなったと思うけど。
――下積み時代にお互いのシナリオを見せ合ったりされたんですか。
新藤 していました。鈴木君は僕のシナリオを読むとたいていボロクソ言っていました。でも、鈴木君はどうして新興に入ったのかなあ。
――親戚のコネみたいです。それで最初は最初シナリオライター志望だったそうです。ただシナリオライターでは食えないので給料の出る演出部に入ったと。
新藤 シナリオを書くには脚本部に入らなくちゃならないですからね。脚本部にはなかなか入れないんですよ。だから助監督や助手は雑誌の懸賞シナリオを書くしかなかったんです。僕も「映画評論」に『土を失った百姓』というシナリオを書いて入選した。それが認められて脚本部に転属になったんです。確かに頼まれもしないのにシナリオを書いていては食べていけませんよ。当時美術部にいた僕の給料が30円でした。美術部長の水谷浩さんの給料が100円。僕は四畳半の部屋を二人で借りていたんだけど、そこの家賃が5円50銭。だからカツカツだった。だから鈴木君も食うために演出部に入ったんでしょう。
――新興キネマは松竹人脈ですね。松竹だと城戸四郎さんが野田高梧さんをはじめとしてシナリオライターを大切していましたが、新興はいかがでしたか。
新藤 新興には松竹から余剰人員がきたんですよ。陶山密、村上徳三郎、それから日活からきた如月敏、畑本秋一。そういったベテランたちがぐるぐる回す形でシナリオを書いていました。とても威張ってましたよ。陶山密なんか所長より威張っていたぐらいでした。
――当時の撮影所の所長というと六車脩さんですね。
新藤 そう、六車さん。
――六車さんは松竹出身で城戸四郎門下だからシナリオライターを大切にしていたんでしょうか。
新藤 そうなんです。僕は六車さんに脚本部に入れてもらったんです。新興では六車さんが所長になるまでは新派でやったような古い題材ばかりを映画化していた。六車さんが所長になってそれが多少変わったんだけど、その上には松竹の城戸さんがいて采配を振るっていました。新興キネマという会社は、松竹や東宝を観にくるようなお客のちょっと下のクラスの観客を狙って、低俗といったらなんだけど、そういう大衆向けの映画を作っていたんです。
――化け猫映画とか浪曲映画とか。
新藤 化け猫映画は京都だね。東京では『母の魂』(38、田中重雄)なんか大当たりしました。それから『妻の魂』(38、曽根千晴)、『日本の魂』(38、伊奈精一)とか。いろいろ「魂」ものを作って当たりを取った。全部陶山密が書いたホン。『男の魂』(38、曽根千晴)なんていうのは浪曲映画だね。廣澤虎造が出まして、最初金屏風を背にして虎造が「町は仙台よいところ」と唸るんです。これは僕が美術をやったんでよく覚えています。「月は煌々輝ける」と唸ると月を映す。そういうときは月を映さなきゃならない。約束だね。あんまり真面目なものじゃないけど、これもヒットしました。新興キネマという会社はそういう映画ばかり作っていました。
――新藤さんも鈴木さんも、新興キネマがそういう大衆向けの娯楽作品ばかり製作していることに対して、内心批判的だったんでしょうか。
新藤 仕事として割り切ってやっていたんじゃないですか。だけど古い助監督たちには、将来監督になろうという野心よりも、助監督のまま給料をずっともらっていったほうが楽だという雰囲気はありました。でも若い人は多少不満に思うところもあったんじゃないですか。新興が三流の映画会社だという認識は僕たちにもあったけど、誰も三流になりたいと思って会社に入ったわけでないですからね。僕がシナリオをせっせと書いて懸賞の応募していたのもそう。鈴木君も、舟橋聖一原作の『母代』(41、田中重雄)をシナリオにして、それを師匠の田中重雄が映画にして、大変評判をとりました。それで突如として鈴木君は有望な新人として注目されたんです。
――そうやって助監督がシナリオを書いて提出して映画化されるということは珍しいんですか。
新藤 ほとんどなかったです。鈴木君も会社から命令されてシナリオを書いたのではなく、自分で舟橋さんの原作を見つけてシナリオにして、田中さんに出したんでしょう。会社が甘ったるいメロドラマや浪曲映画ばかり製作しているから、“母もの”なんだけどリアリズムで社会的な要素もある『母代』は画期的で目立ったんです。これで鈴木君は将来を嘱望される存在になった。僕も当時から鈴木君の才能には注目していました。
――女囚の話ですよね。
新藤 そうなんです。監督は鈴木君の師匠である田中重雄。田中重雄という人は、僕も戦後シナリオを書かせてもらったけど、ずっと新興―大映東京の大物監督として通った人です。特作品というと必ず田中さんが監督したんです。
――僕もずいぶん田中さんの作品は観ましたけど、弛緩したメロドラマ演出がどうも苦手で……。鈴木さんも師匠なのに、生前はかなり批判的でした。会社の注文どおり撮るだけで無気力だとか。
新藤 それは仰るとおり(笑)。確かにそのとおりなんだ。田中さんの映画には新鮮味はないですね。会社の注文どおりにやってるだけの人ですから。僕もそう思います。でも予算やスケジュールは守るから、会社としてはやりやすいし、ヒットするから安心して任せられる。鈴木君にとって田中さんは反面教師だったんだね。でも、これから監督になるというような若い人にはそういったものは必要でしょう。鈴木君はそうやって師匠を批判しながら、田中さんによく仕えたんだから偉いですね。田中さんも鈴木君は有能だから使いやすかったんでしょう。だからずっと鈴木君を手放さなかった。それは当然ですね。
――新藤さんが脚本を書かれて映画化された最初の作品は『南進女性』(40、落合吉人)ですね。この助監督が鈴木さんです。
新藤 ああ、そう? それは覚えていない。僕が「映画評論」で『土を失った百姓』で当選したあと、最初に書いたシナリオは『乙女橋』(36、川手二郎)という作品ですが、これは監督の川手二郎が書いてくれというんで書いたシナリオで、『南進女性』はその次の作品だから僕の2本目の作品だね。岡田熟という松竹からきたプロデューサーがいまして、彼が僕にシナリオを注文したんです。これは石川達三の原作で、落合吉人の第1回監督作品。彼も家が江古田で家が近所で、僕とは親しい友人だった。彼は岡山の地主の息子でね。落合君に田舎から為替が届くと、みんなで池袋に出てトンカツを食べたもんです。
――新興から薄給といえども給料をもらっていて、なおかつ田舎から仕送りがあるんですか。
新藤 そうなんです。金持ちの息子だからね。それでもうちょっとお金があると、新宿に出て、武蔵野館で映画を観て、中村屋でカレーライスを食べたりしました。でも会社が大泉にあったから、たいていは池袋でした。西口に「コンテ」という喫茶店がありまして、そこに行くと必ず知り合いが二人や三人はいました。映画評論家の岩崎昶を招いて2階で若手が集まって勉強会を開いたりしたこともあります。まあ池袋文化だね。落合君は二度応召されて輸送船が爆撃されて戦死しました。
――『南進女性』の主演は美鳩まりですね。鈴木さんがのちに結婚する。
新藤 そうなんです。
――いつからデキていたんですか。
新藤 いや、僕たちも知らないから驚きました。そのへんの事情は鈴木君と親友だった近藤光雄が知っているはずです。美鳩まりというのは生意気な女優でね。なかなか監督の言うことを聞かないし、個性的な、ちょっと変わったおもしろい女優なんです。で、僕たちは生意気だと思っていたんだけど、本人にしてみれば束縛されずやりたいと。しかし鈴木君と美鳩まりが結婚したというのは、当時新興でもちょっとした事件でした。美鳩まりはスターですからね。鈴木君は『南進女性』のときはまだ助監督でしょう。それに当時はスタッフが女優と恋愛するというのはタブーだったんです。でも僕には鈴木君はとても秀才に見えたから、美鳩まりもその才能に惚れたんじゃないでしょうか。美鳩まりは戦後になって、癌で若くして亡くなりましたね。
――そうですね……。『南進女性』のほかには、新藤さんがシナリオをお書きになった『春星夫人』(41、田中重雄)というのも鈴木さんが助監督ですが。
新藤 そうですか。これは北条秀司の原作。伊東にロケーションに行ったことは覚えているんですが、そうか、助監督は鈴木君か。どうもそのあたりは記憶が錯綜していて、よく覚えていません。
■新興キネマの特作品『北極光』の樺太ロケに同行して
――先ほど鈴木さんが「映画旬報」(1941年9月21日号)に寄稿した『北極光』(41、田中重雄)の撮影日誌を読んでいただいたんですが、新藤さんはこの作品に潤色とクレジットされます。これは樺太ロケの超大作ですね。
新藤 『北極光』という作品がなんで企画されたかというと、情報局の映画統制がありまして、映画会社を合併して三社にするということになったんです。松竹と東宝は残ったけど、あと日活と新興キネマと大都映画が三社合併ということになって、永田雅一が奮闘して大映になった。それで三社が合併したから余分な人員を削るということになったんです。そんなに人数は必要ないから。そうなると、合併する前にそれぞれの会社が他社より優位な位置を確保しておこうと思って、会社の総力を賭けた特作品を製作することになったんです。日活は何をやったか忘れましたが、新興キネマが企画した特作品が『北極光』なんです。普通の映画の3倍ぐらいの予算をかけた新興キネマ総動員の映画だね。それで製作部長だった今村貞雄が村上元三という作家に依頼してホンを書いてもらったんですが、実際に樺太に行って書いたわけじゃないし、頭の中だけで想像して書いたシナリオだから、現地で臨機応変にシナリオを直す人間が必要だということで、僕が一緒に樺太に行くことになったんです。僕は脚本部になったばかりだったけど、美術の経験があるからということでちょうどよかったんだね。
――新藤さんは「潤色」のほかに「時代考証」としてもクレジットされていますが……。
新藤 そんなものはやらなかったけどもね。村上元三の書いたシナリオには、日露戦争のときに西久保少佐という人が樺太に進駐したということを調べて書いてあるんですが、それはどういうことなのかこっちで調べ直したぐらいで、時代考証なんて大げさなことはしていません。特作品だからいろいろ名前を並べたんでしょう。とにかく現地に行って、シナリオに書かれてあることがそのままやれるのか、やれない場合は撮影を変更しなくちゃならない。みんな北海道までは行ったことがあっても樺太までは行ったことがないから、実際に行ってみるまでは分からないんです。零下30度ぐらいのところに行くわけだから、シナリオどおりの撮影が可能かどうかも分からない。それで僕は美術をやりながら、現場で変更があれば、たとえば鉄道の撮影ですけども、思うようにできない場合はシナリオを書き直したり、あとから帰ってセットでやり直すというようなことでやったんです。だから扱いとしては監督補という感じだね。それから応援監督として住吉健嗣が付いた。この人は長い間助監督だった人で、監督になってからは、僕が美術助手をやった『泣くな鴎よ』(37)という映画なんか撮った人。田中さんは新興の巨匠だったけど、用心深く自分の体力とかも考えて応援監督として住吉君を連れて行ったんじゃないでしょうか。住吉君は頑健な体をしていて、氷の上での撮影とか吹雪のときとか大変な撮影のときは、田中さんはたいてい自分でやらないで、住吉君にやらせていた。それで鈴木君はチーフ助監督。キャメラマンは青島順一郎。それに青島さんの弟子の岡崎宏三も連れていく。彼もまだ新人だった。流氷や風景なんかの細かいカットは彼が撮ったんじゃないでしょうかね。
――鈴木さんの撮影日誌によりますと、1941年1月にロケハン。3月上旬に樺太ロケ出発になっていますが、3月とはいえ樺太はまだ厳寒ですよね。
新藤 そうなんです。その頃の防寒具といったら、オーバーを重ね合わせたような粗末なもので、今のような完全な防寒具はありません。だからオーバーを重ねて着込むだけで身動きが取れないんだ。地面は雪野原ならまだいいんだけど、吹雪で雪が積もっていなくて氷で凍っている。犬ぞりじゃないと動けないんです。山も本土みたいな丸い山がない。みんな尖った山ばかり。そんなところで王子製紙が政府から事業を請け負って原始林を開拓しているんです。あとから聞いたら、王子製紙の記録映画も撮ったという話も聞きました。製作部長の今村貞雄があらかじめそういう話をつけていたんだね。詳しいことは幹部しか知らなかった。僕らは映画の中の実写的な撮影を主にやるという感じで、僕は結局付き添いみたいな形なので、仕事もないのに毎日そこにいて撮影を見ていなきゃならないんです。
――立っているだけのほうが寒いですよね。
新藤 もうそんなのは通り越してますよ。部屋でストーブを焚くでしょ。だからストーブの熱で障子がひん曲がっているんです。
――どこに泊まったんですか。
新藤 大泊に泊まりました。そこまでに行くのには、青森まで行って、それから北海道を一昼夜かけて縦断して、稚内から船に乗って、そこから大泊に行くんです。大泊で少し撮影して、もうちょっと奥へ撮影しながら進んで王子製紙が原始林を切っているところまで行ってね。そこには宮様を迎えるためにちょっといい宿舎があって、そこに撮影隊の幹部、つまり田中さん、住吉君、青島さん、今村貞雄なんかは泊まりました。まあ、僕らとしては次々と進んでいって、原始林の伐採や鉄道敷設の場面なんかを撮影したわけです。敷香(しっか)まで行きました。そこから向こうはもうロシア。敷香はツンドラ地帯なんです。つまり腐葉土から木が生えているから、あたりは天井ぐらいまでの木ばかりでした。そこにはちょっとした名所がありました。それは岡田嘉子と杉本良吉がここからロシア領に逃げたという記念碑。撮影の合間にそれを見にいきました。何もない林で細い鉄線がちょんと張ってあるだけ。国境なんてこんなものなんだと思いましたね。とにかく敷香は寒かった。風呂が凍っちゃうんだ。でも撮影は演出部と撮影部が中心になって撮影しているから、僕はなんもやることがないわけ。だから樺太の植物園を見学に行ったりしました。
――そんなものがあるんですか。
新藤 それは日本がいずれシベリアに出兵するんだということで、たとえば寒さに耐えうる皮の厚いジャガイモを作るとか、食糧の品種改良のための植物園です。敷香に行く手前に、幌内川という大きな川がありました。向こう岸が見えないぐらいの大きな川なんです。その中にオタスの杜というのがあって、ギリヤーク族やオロック族が集団で住んでいる。アイヌではないですよ。それで彼らが踊っているところなんかを撮影しました。
――ああ、植村謙二郎がギリヤークの酋長をやっていました。
新藤 今から6、7年前にフィルムセンターで見た覚えがあるんだけど、割に実写的な場面はよく撮れているね。
――不完全な形ですがロシアでフィルムが発見されて里帰りしたんです。ちょっとロケとセットとの統一感がないのが残念でしたけど。
新藤 そうだね。芝居部分のほとんどは新興に帰ってからセットでやったから。ロケが終わって上野に着いたら桜の花が咲いていたことをよく覚えています。
――鈴木さんの仕事ぶりはいかがでしたか。
新藤 チーフ助監督としてなかなか手腕を発揮していたと思いますね。スケジュール、進行、俳優の送り迎え、監督の補佐……みんな重要な役ですから、樺太にロケに行ってもチーフ助監督がうまく仕切らないと撮影ができない。段取りがいい優秀な助監督だから田中さんも離さなかったんでしょう。僕は『北極光』のあと、水谷浩に引っ張られて『元禄忠臣蔵』(41−42、溝口健二)の美術をやりにいくんです。僕は内密に三社統合で大映になっても残る人員の中に入っていると聞かされていたんですが、もうここにいてもしょうがないと思って、『元禄忠臣蔵』の美術をやって、それから溝口さんのところに弟子入りをして、シナリオを書こうと思ったんです。鈴木君も三社統合のあと大映に残って、戦後監督デビューするわけでしょう?
――自分のオリジナルで『二人で見る星』(47)という作品でデビューしますが、それから2年間干されてますね。それで再起を賭けて監督した2作目が『蜘蛛の街』(50)という作品です。六車さんの所長秘書だった高岩肇さんが脚本家に転身されて書かれた作品で、下山事件をモデルにしたスリラー。高岩さんというのはもともと脚本家志望だったんですか。
新藤 そうです。新興に入社して六車さんの秘書をやって、すぐに脚本家になったんですが、そのとき僕も一緒に所長室に呼ばれて脚本部に転属になったんです。秘書時代は、六車さんが会社に車でくると、六車さんの次に車から降りてくるのが高岩さんでした。所長のカバンを持って所長室へすっと入っていく。慶応出身でね。美男子で女優さんにモテモテ。僕なんか埃まみれの美術部で田舎くさいから、垢抜けた高岩さんにあこがれたもんです。戦後はシナリオライターとしての才能を発揮して、大映や日活なんかで活躍されましたよね。僕も戦後はたびたび会う機会があって、新興の思い出なんか話しました。
――『蜘蛛の街』は高岩さんが監督に鈴木さんを指名したらしいですね。
新藤 それは高岩さんが鈴木君の才能を評価していたからでしょう。僕はちょうど会社を辞めた時期だったんで、その作品は観ていないんです。鈴木君はそれから東宝に行くんだよね?
――そうです。大映をクビになったあと、しばらくフリーでやってから、東宝と契約するんですが、あまり作品数は多くありません。
新藤 そうですか。なんか鈴木君のよい部分、本質的なものを出し切れてないうちに亡くなったという感じがしますね。
――性格が地味だとか気難しいとかいろいろ言われますが。
新藤 僕は割合親しかったからそうでもなかった。多かれ少なかれ監督というのは気難しいものです。周りと戦っていかなくちゃならないから。でもまあ、確かに鈴木君は押し出しに暗い部分があったかもしれません。でも、今回『西条家の饗宴』を観直して、いい腕をしているなと驚きました。なかなかの才能ですよ。なにしろあの美鳩まりが惚れたんですよ! それこそが鈴木君に才能があることを証明しているでしょう(笑)。
2008年12月17日、近代映画協会にて
インタビュアー・構成:木全公彦