ある日米合作映画の企画
なにかと話題の『SPACE BATTLESHIP ヤマト』であるが、その生みの親ともいうべきプロデューサーの西崎義展の怪死には正直驚いた。個人的にはヤマトではなく、吉田喜重が監督するはずだったメキシコとの合作映画の裏側についていろいろ聞きたかったが、それも果たせずに終ったことを残念に思う。

■  モーリス・キングの来日

それは、吉田喜重が1979年から1982年までメキシコに滞在し、支倉常長を主人公とした合作映画『望郷の時』(仮)を監督するはずだったことなのだが、そのときの日本側のプロデューサーが西崎義展だったのである。映画ライターの磯田勉に、「当時の『GORO』にロケハンをする二人のツーショットが載ってましたね」と言われ、「ああ、そうだった」と私も思い出したが、もうこうした山師のような蛮人型の名物プロデューサーが今はいなくなってしまったことはちょっと寂しい。


キング兄弟
左からハーマン、
モーリス、フランク
ポシャッた合作映画といえば、1954年、新東宝がアメリカのB級映画のプロデューサー、キング兄弟と合作映画を製作しようとして、かなりイイ線までいったのにもかかわらず、頓挫したという知られざるエピソードがある。

キング兄弟に関しては、彼らの最初のヒット作『犯罪王デリンジャ』(45-52)が最近WOWOWで放映されたばかりだが、彼らのキャリアについて、上島春彦「レッドパージ・ハリウッド 赤狩り体制に挑んだブラックリスト映画人列伝」(作品社、2006年)と吉田広明「B級ノワール論 ハリウッド転換期の巨匠たち」(作品社、2008年)を参照にしながら、簡単に説明を加えておく。

キング兄弟は、モノグラム社(後にアライド・アーティスツ)を拠点に、兄弟でB級映画をプロデュースした独立プロデューサーである。本名コジンスキー。詳しい出自は不明らしいが、おそらく東欧系ユダヤ人移民なのだろう。長男フランクリン(フランク)、モーリス(モーリー)、ハーマン(ハイミー)の三人兄弟。キング兄弟製作による傑作『拳銃魔』(50-53)を監督したジョセフ・H・ルイスによると、彼らはその兄弟にママンこと彼らの母親と兄弟の妻(ルイスには誰の妻だったかは最後まで分からなかったらしい)を加えた実質五人からなる結束の固い身内のチームであったという。実際に製作実務を担当していたのは三人兄弟のうちの二人で、企画や予算決済など最終的な決断は長男のフランクが下し、製作実務は次男のモーリスが受け持っていた。
西海岸でスロットマシンの商売で儲けた彼らが映画製作に乗り出したのは1941年のことである。彼らは最初のヒット作『犯罪王デリンジャ』で脚本を執筆したフィリップ・ヨーダンを大いに売り出し、その後赤狩りに揺れるハリウッドにあって、ヨーダンはブラックリスト・ライターたちのフロントとして、50年代B級アメリカ映画の底上げに大きな貢献をした。キング兄弟とフィリップ・ヨーダン、フロントという名義貸しによる実態、ハリウッド・テンのひとりであるドルトン・トランボがロバート・リッチという偽名で『黒い牡牛』(56-56、アーヴィング・ラパー)の脚本を書いてアカデミー脚本賞を受賞した顛末などは、前出の「B級ノワール論」と「レッドパージ・ハリウッド」に詳しいので、そちらを参照のこと。なお、キング兄弟について、日本語で読めるほかの文献は、シャルル・テッソンのジョセフ・H・ルイス論「ジョセフ・H・ルイスと犯罪映画の掟」(初出「Cahiers du cinéma」novemble 1985 et janvier 1986)が収録された「季刊リュミエール」9号(1987年秋号)が参考になる。

そのキング兄弟の次男モーリスが新東宝との合作映画を具体化するために、日本を訪れたのは1954年8月1日のことである。合作映画の企画としてキング兄弟側が第一候補として挙げたのは、パール・バックが1952年に発表した「日陰の花 The Hidden Flower」であった。アメリカ人軍人と日本人女性との実らぬ異人種間の恋愛を描いたメロドラマである。脚本はフィリップ・ヨーダン。もっともこのヨーダンが本当に本人なのかは今となっては分からない。
モーリス・キングの話。「主演スターにはアメリカ側はアン・バクスターを使いたいと思っているが、ギャラの問題で未だ折合いがはっきりついていない。日本側はもちろん新東宝の女優さんである。撮ることに決まれば色彩で、立派なものを作る自信がある」と語った」(「スポーツニッポン」1954年8月3日)。
それに対して新東宝の社長である服部知祥の話。「映画は何といってもストーリーのよいことが先決問題である。モーリス・キング氏とよく相談して優秀映画を作るつもりだ。現在意見の一致を見ているのは物語がラブストーリーであるということだ」(前出「スポーツニッポン」)。
アメリカ側の男優は「リチャード・ウィードマーク級の1万ドル程度の人を十人位候補にのぼらせている」(「日刊スポーツ」1954年8月12日)とのことで、早ければ11月初旬にはクランクインされると報じられた。

実はキング兄弟から新東宝に日米合作映画の製作を持ち込まれたとき、その直前にはイタリフィルムのストラミジョリ女史(黒澤明『羅生門』のベネチア映画祭出品の最大の立役者)の仲介で、ドゥイリオ・コレッティ監督からゾルゲを題材にした映画を新東宝との合作で製作したいという申し込みがあったのである。1954年7月5日にはコレッティ側からヴィニチオ・マリヌッチが執筆した英文シナリオが到着し、14日にはその翻訳版『ゾルゲ事件の全貌・邯鄲の夢』(仮)ができあがった。日本側では猪俣勝人が脚本を担当し、彼の指示で改稿が進められることになった。しかし、この話はキング兄弟の持ち込んだ合作話より先に頓挫したようだ。残るはキング兄弟との合作話の実現に注目が集まった。


■  佐生正三郎とミツバ貿易

1953年から54年にかけてというのは、日米講和条約締結をはさんで日本映画界は黄金時代を迎えた頃であるが、東宝と完全に袂を別った新東宝は配給網の脆弱さから慢性的な赤字体質に悩み、製作に力を入れるが軒並み不振で、この時期はころころと社長以下、しょっちゅう役員人事が変わるという時期であった。ただでさえ不振をきわめているのに溝口健二の『西鶴一代女』(52)が大コケして、財政は火の車。新東宝の初代社長である佐生正三郎は製作再開の噂のある日活の堀久作社長を招いて、建て直しを図ろうとするが、東宝系の理事と株主から総スカンを食らい、新東宝の社長を降板。代わって小林一三の異母弟で東宝系の田邊宗英が社長になった。やがて佐生は役員も辞任し、結局あれやこれやで新東宝を辞去する。

しかし、先の西崎義展じゃないが、プロデューサーという人種は最近でこそサラリーマン化が進んでしまったが、大映の永田雅一と並んで、大風呂敷のワンマンの代名詞のようにいわれる大蔵貢がそうであったように、本来そういう山師的野蛮さやいかがわしさがあったほうがおもしろい。大蔵招聘以前の新東宝にあって、あまり指摘されることはないが、佐生正三郎という人も興味深く、その大風呂敷ぶり、無軌道ぶりはなかなかおもしろそうな人である。

新東宝といえば、なかなか経営が安定しない中、逆コースの風潮に便乗して、タカ派戦記ものの鉱脈を掘り当てて、会社のヒット路線に結びつけ、戦争ものを連発したことで知られる。それはやがて大蔵貢が社長になるや戦争と天皇を結びつけて、渡辺邦男監督で『明治天皇と日露大戦争』(57)を製作し、メガヒットさせることになるのだが、その基盤となる戦争映画路線はすでに大蔵体制以前にあった。最初の話題作は、吉田満原作の「戦艦大和ノ最期」を映画化した戦争大作『戦艦大和』(53)あたりだろうか。佐生はその製作発表の段階で「ジョン・フォードを招きたい」などと大風呂敷を広げているのである(「キネマ旬報」1952年3月下旬号)。フォードが『真珠湾攻撃』(43)を監督し、海軍に従軍し、太平洋戦争の流れを大きく変えたミッドウェイ海戦では自ら16ミリキャメラを回して重傷を負ったことを知っていれば、このような大胆な発言はできなかっただろう。いやはや、言うのは自由、言ったもん勝ちである。
結果的に『戦艦大和』の監督には阿部豊が起用され、大ヒットするわけだが、いうまでもなく阿部豊はトマス・H・インス直系のハリウッド帰りの巨匠であるから、案外映画史的には大風呂敷であってもそれは正しい広げ方だったのかもしれない。
新東宝とキング兄弟の間で合作話が進行している頃は、新東宝の社長は服部知祥で、すでに佐生は新東宝を辞任し、新東宝の直営館を経営する子会社の新東宝興行の社長に納まっていた。1953年、新東宝興行は社名を「日米映画」と変更。テレビ放映が始まったばかりの時代のNTV(日本テレビ放送網)と組み、低予算・短期間でB級犯罪映画をでっちあげた。これらの作品は、いずれも1時間程度の長さで、平均撮影日数1週間、製作費約150万円という驚くべき低予算で製作され、NTVで先行放映してから数日後新東宝系列で公開されている。10本ほど製作されたそれらの映画の中に、『麻薬街の殺人』(57)、『殺人と拳銃』(58)、『野獣群』(58)という作品があるが、いずれも監督は浅野辰雄である。浅野辰雄という人は、戦前は記録映画の会社で文化映画を監督し、満映を経て、戦後は朝鮮総連資本の民衆映画社でプロパガンタ映画を撮り、市川崑や中平康に脚本を提供し(『わたしの凡てを』、『猟人日記』)、『日本刀物語』(57)など優れた文化映画もあり、その後ピンク映画に活動の場を移して活躍、という摩訶不思議なキャリアの持ち主で謎の多い人物だが、ここでは彼が、ジョセフ・フォン・スタンバーグが日本との合作で監督した『アナタハン』(53)の脚本を執筆していることを指摘するにとどめたい。
また、浅野辰雄、西沢治、阿部桂一、中川順夫、高橋二三、沢賢介らが監督した日米映画製作の犯罪/スリラー映画については、日本のフィルム・ノワールの源泉という説があるが、なんでもかんでも言えばいいってもんじゃないって。内容面については、当時のキネマ旬報の読者投稿欄に「島内三秀」という人の、ほとんど世間から無視されて封切られたこれらの小品を擁護する好意的な投書が載っているが、そうかなあ、何本かは観たけれども相当ひどいと思うけどなあ。ちなみに「島内三秀」はそれから20年近く経ってから、女性の筆名で脚本家デビューを果たす。桂千穂である。珍しい本名だからまず間違いない。日米映画製作の犯罪/スリラー映画についてはいずれ機会を改めたい。

さて、キング兄弟と新東宝との仲立ちをしたのは、ミツバ貿易という独立系洋画配給会社の社長である小松良基(外映代表も兼任)である。ミツバ貿易は、欧米の独立系映画やドキュメンタリーの配給で知られる会社で、有名なところではジャック・ベッケルの『現金に手を出すな』(54―55)を買い付けて、映配に転売し、大ヒットさせている。ミツバ貿易とキング兄弟の関係は、キング兄弟が製作した作品をミツバ貿易が買い付けていたことによる。合作話が具体化した時期にも、キング兄弟製作、ウィリアム・キャメロン・メンジース監督の『南部に轟く太鼓』(51-54)を買い付け、東宝洋画部に転売している。

キング兄弟が来日したときの新東宝の社長は、すでに書いたように服部知祥である。服部は、東京商科大学(現在の一橋大学)を卒業したあと、名古屋に本社を置く老舗百貨店の松坂屋に入社。その後は、新東宝の社長であったことより、むしろ長島温泉を開発し、名古屋近郊における一大スパランドを作り上げた実業家としてのほうが知られているかもしれない。服部の前任者は田邊宗英。後楽園スタジアム(現在の東京ドーム)の4代目社長であり、どちらかといえば、野球とボクシングの興行で知られる実業家である(帝拳プロモーションの初代会長、日本ボクシングコミッションの初代コミッショナー)。
であるならば、ユニバサール、パラマウントの日本支社の支配人を経て、東宝に転じては営業部長として活躍し、新東宝では初代社長になった佐生正三郎が、この合作の仕掛け人と考えたほうが自然である。新東宝歴代社長の中では唯一生え抜きの映画人で、アメリカ映画とは縁が深い。事実、ミツバ貿易の小松と、「配給の神様」と呼ばれ、フリー・ブッキングを主張する佐生とは昵懇の間柄であったようだ。佐生は新東宝を辞めるまで、たびたび洋行し、リパブリックやモノグラムなどマイナーな映画会社ともコネがあったようなのである。キング兄弟がプロデュースする作品についてもそれなりの知識があった可能性は高い。 推察するに、合作の話は佐生が新東宝を辞める前に持ちあがり、結果的に佐生の置き土産になったのだろう。

わけがわからないのは、佐生が日米映画設立後、社会党の代議士・片山哲らと社会純化協会なる団体をでっちあげ(片山が理事長)、1958年、そこを通してアメリカの性教育長篇映画『母と娘Mom and Dad』(49、ウィリアム・ボーディン)を買い付け、大蔵新東宝に売りつけて公開したことである。この映画は猥褻か性教育かで当局と揉める。だいたいこの頃のエロ映画の背後にはいつも社会党代議士が絡んでいるというのもわけがわからない(拙稿『黒澤明のエロ映画 解決篇』参照)。ともあれ、これだけでも佐生がアメリカの独立プロダクションとコネがあり、国内に関しては、新東宝を辞めたあとでも大蔵貢体制の新東宝とは深い関係を保っていたことが分かる。

日米映画の製作体制については、NTVにテレビ映画を提供する計画がすぐに破綻し、新東宝の下請け会社のようになる。スタジオはラジオ映画社が所有する目黒スタジオを使った。ラジオ映画社の社長は今村貞雄である。松竹蒲田ニュース部から新興キネマ東京撮影所の所長を経て、1947年には監督の関孝二とともにラジオ映画社を設立し、動物映画・ニュース映画を製作するが、性教育映画『美しき本能』(49、今村貞雄)や『海魔陸を行く』(50、伊賀山正徳)などトンデモなエログロ映画を製作して、世の識者から顰蹙を買った。後者は現存。神戸映画資料館が発見したポジフィルムが不燃化されてフィルムセンターに収蔵されている。今村の盟友・関孝二はのちに国映で女ターザン映画『情欲の谷間』(62)を監督する。これはのちにピンク映画と呼ばれる映画のプロトタイプになった。現在も健在でピンク映画界の最古参の一人である。ラジオ映画社解散後、今村は大映で監督した記録映画『白い山脈』(57)が第10回カンヌ映画祭ドキュメンタリー部門でグランプリを受賞。その後は大映東京撮影所内に作られた生物映画研究所の代表として、動物映画を製作・監督した。

話を戻す。1954年8月1日に来日したモーリス・キングは、新東宝との話し合いの結果を本国に持ち帰り、長兄のフランク・キングの承認を得て、新東宝と契約を交わす。それによると、キャスティングの裁量、制作費・出演料はキング兄弟側、約60日間と予定された日本ロケの滞在費、日本側スタッフ&キャストのギャラ、機材費は新東宝側が、それぞれ負担し、配給権は新東宝が日本国内、世界配給はRKOを通してキング兄弟側が持つことになった。

ちょうどこの頃、日本映画界では空前の合作ブームに沸いていた。日伊合作『蝶々夫人』(55、東宝、カルミネ・ガローネ)、日香合作『楊貴妃』(55、大映、溝口健二)、ほかにも松竹ではロベルト・ロッセリーニとイングリット・バーグマンが『ヨーロッパ一九五一年』(52-53)を撮り終えるのを待って、日伊合作映画を製作する予定で、松竹期待のホープ・野村芳太郎は香港で『亡命記』(55)、『東京⇔香港蜜月旅行』(55)でロケを行ない、当時は外貨持ち出し制限があったため、大蔵省はこれを「形式的な日香合作」と認定してなんとか辻褄を合せるなどして、国際色豊かな日本映画が続々と製作されていた。スタンバーグの『アナタハン』もこうした流れに位置する映画である。また、『東京暗黒街・竹の家』(55-55、サミュエル・フラー)、『八月十五日の茶屋』(56-57、ダニエル・マン)など、変テコな日本を描いた国辱映画(笑)の本格的な歴史が始まるのもこの時代。戦後第一次合作ブームは、やがて高度成長時代の1960年代の第二次合作ブームには、逆に日本が海外に出かけていくパターンが飛躍的に多くなる。


■  転んでもタダでは起きぬ根性

キング兄弟と新東宝の合作は、その後の話し合いでパール・バックの原作を取りやめ、1955年8月までに『日本の七つのランタン』という仮題がつけられたが、これは原作ものかオリジナルかは不明。ベティ・グレイブル、ハリー・ジェームズ主演で、テクニカラー、スーパースコープで撮影されることが決定する。ハリー・ジェームズはいうまでもなく人気トランペット奏者だが、この時期はベティ・グレイブルと結婚していた。このようになんやかんやで当初よりも豪華になったため、製作費の増額が必要になり、新東宝は予算の積み増しが検討課題となる。新東宝の経営状態はますます悪化していた。映画に出資し、製作にも名を連ねていたミツバ貿易の小松良基は、1954年12月下旬、55年2月、7月と3回にわたって渡米し、キング兄弟側と折衝を重ねるが、いつのまにかその企画は立ち消えになってしまう。どうもこの話、ベティ・グレイブルとハリー・ジェームズの名前が出たあたりから妙に現実味が薄くなるのだが、どうなんだろうか。大蔵貢が新東宝の建て直しのために社長になるのは、1955年12月である。「テスト1回、ハイ本番」というスローガンが撮影所のあちこちに貼られた「安く、早く、おもしろく」という大蔵体制の方針に、製作費がかさむアメリカとの合作映画の入り込む隙間はない。


DVD『怪獣ゴルゴ』
その後のキング兄弟と日本との関わりでいえば、彼らが『空の大怪獣ラドン』(56、本多猪四郎)の全米公開版をプロデュースし、公開していることが有名である。ほとんどの怪獣映画がそうであるように、この『ラドン』のUSバージョンも、オリジナル版にはないビキニ環礁の原爆実験(クロスロード作戦)の実写映像を挿入するなど数か所の改変がなされている。さらにキング兄弟は、1961年にはイギリスで『怪獣ゴルゴ』(61-61、ユージン・ルーリー)という怪獣映画を製作。この時代の欧米の怪獣映画はモデル・アニメーションが主流であったのに対して、怪獣に着ぐるみを使用し、ミニチュアワークで特撮場面を撮影しているところが珍しい。

アイルランドのナラ島沖合で古代遺物を引揚げ中、全長20メートルの怪獣が捕獲された。それは海底火山の爆発によって眠りから覚めた前世紀の怪獣の子供であった。ゴルゴと名づけられた怪獣はロンドンに連れて行かれ、サーカスで見世物にされる。しかし、ゴルゴには全長60メートルにも達する母親がいた。さらわれた子供を取り返そうと、巨大な母親怪獣ゴルゴがロンドンに姿を現す……。
「ナラ島」というのは日本の「奈良県」にある架空の島(!)というむちゃな設定で、ほとんど原住民のノリ。劇中には『空の大怪獣ラドン』のフィルムが流用されている。そして特撮ファンにはよく知られたエピソードだが、この映画のプロットをヒントにした日本の怪獣映画が『大巨獣ガッパ』(67、野村晴康)である。おそらくキング兄弟は新東宝との合作話を進める間に『ゴジラ』(54、本多猪四郎)を観た、あるいは評判を知り、『ゴジラ』のUS バージョン『怪獣王ゴジラ』(56)まで作られたビジネス・モデルを真似ようと思ったのではないだろうか。『ゴジラ』の封切りは1954年11月3日である。はたしてキング兄弟は、日本の怪獣映画のパクリでひと儲けをしたのか。したのだ、そう考えるのが普通である。全然関係ないとは言わせない。どんなに巧みな言い訳にみんなが納得しても俺が納得しない。キング兄弟は頓挫した新東宝とメロドラマを作るという合作プロジェクトの中で、当時日本を席巻していた怪獣映画に大きなビジネス・チャンスを感じて、そちらのほうに興味が移ったのに違いないのだ。

さらに――


DVD『サヨナラ』
キング兄弟と新東宝が企画したパール・バックの「日陰の花」そっくりのプロットを持つ映画が1956年に日本で全篇ロケして製作される。ジェームズ・ミッチェナー原作の『サヨナラ』(57-57、ジョシュア・ローガン)である。『サヨナラ』の脚本家は、ポール・オズボーン。代表作といえば、エリア・カザン監督の『エデンの東』(54)。オズボーンはカザンの『荒れ狂う河』(60)の脚本も書いているが、実はこの初稿はブラックリスト・ライターであるベン・マドウが書いたとされる。そのあたりの事情は前出の上島春彦「レッドパージ・ハリウッド」に詳しいから、そちらを参照のこと。 そこで、唐突だが、実はキング兄弟がポシャッた新東宝との合作を企画ごと20世紀フォックスのプロデューサー、ウィリアム・ゲッツに売却したと想像するとおもしろくはないかい? もちろん根拠のない妄想だけど。いや、ベティ・グレイブルってあたりからどうもクサいのだ、この話。で、キング兄弟はゴタゴタでどうも合作など作る余裕のなさそうな新東宝に見限って、怪獣商売のネタ探しをしたのだ。いやね、なんの確証もないけど。そう考えるとおもしろいというか、そうとしか考えられないんだけど。で、今回はここまで。
以下、続く。

Text by 木全公彦