コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 座頭市・その魅力【その1】   Text by 木全公彦
「大映は盲目(めくら)で目があいたといわれるが、そのとおりだ」 1965年の大映恒例の新春パーティで、上機嫌の永田雅一大映社長がいつにも増してボルテージの高いラッパを高らかに響かせた。いうまでもなく「盲目」とは勝新太郎主演の「座頭市」シリーズのことである。この頃の大映では「座頭市」シリーズが次々とヒットを飛ばし、ほかにも大映を代表するスターの二本柱、勝新太郎と市川雷蔵、通称“勝・雷’s”のシリーズ作品が大映の屋台骨を支えていた。

勝新太郎と『不知火検校』
映画界は1958年をピークにして娯楽の王者をテレビに奪われ、翌年から急速に娯楽の座から滑り落ち、映画会社各社ともに苦戦を強いられていた。その中での、永田の前記の強気発言だから、どれほど「座頭市」シリーズの大映への貢献度が高かったのが分かる。事実、前年の1964年度の日本映画各社は軒並み10%の配収ダウンという厳しい状況の中で、ただ一社大映だけが10%アップだったのだから、文字どおりこの時代の日本映画界は勝新太郎が背負っていたとも言い換えることができるほどだったのである。

しかし当初は「座頭市」がヒットするとは誰も思ってはいなかった。そもそもそれまでの勝新太郎も、『花の白虎隊』(54年、田坂勝彦監督)でのちにライバルになる市川雷蔵とともにデビューしたものの、その後は雷蔵に引き離され、鳴かず飛ばずでいた落ちこぼれのスターだったのである。当時の作品を見ると、勝は先輩の長谷川一夫の真似と思しき白塗りの二枚目を居心地悪そうに演じていて、確かに後年の勝新らしいヴァイタリティ溢れる個性に乏しい。それが『不知火検校』(60年、森一生監督)に主演して、この一作で演技開眼。「勝新太郎」という役者が注目を浴びるきっかけになった。今風の言葉で言えば〝カツシン、リ・ボーン〟である。実に『花の白虎隊』でデビューしてから72本目の作品であった。

『不知火検校』の成り立ちと企画の発案者は、勝新太郎自身の提案によるもののほかに、自分が提案したとか進言したという証言が多くて諸説あるが、異様な内容に永田雅一が難色を示したというこの企画が成立するまでには、超ワンマンな永田が信頼を寄せる鈴木晰也の働きによるものが大きかったことは確かなようである。

原作となった宇野信夫作・演出の「不知火検校」は、1960年2月歌舞伎座で、中村勘三郎が七兵衛と検校の二役を演じて評判を呼んだ四幕十四場の芝居である(宇野は、こののち1970年に「不知火検校」を改稿した「沖津浪闇不知火」を発表する)。この芝居は、宇野が、初演当時のパンフレットに「徹頭徹尾悪い人間を書いてみたいというのは、長い間の念願であった」と記しているように、生まれついての盲目、しかも悪知恵が働く主人公・富の市が、按摩として身を立てる一方で、泥棒、詐欺、強請、姦淫、殺人と、ありとあらゆる悪事を働き、ついには盲人の最高位である検校にまで上りつめるというピカレスクな物語である。戯曲の終盤で、悪事が露見して捕らわれた富の市は、悪事を働く度胸もなく、おもしろくもない世の中をせせこましく生きているヤジ馬を嘲笑し、悪態をつく。悪行の限りをつくした主人公は最後まで反省も良心の呵責もないのである。

鈴木晰也から脚色を依頼された犬塚稔は、原作の戯曲を読んで、これを三世河竹新七が五代目尾上菊五郎のために書いた「藪原検校」を下敷きにしていることを看破したが、一旦は「あまりに理不尽な話なので、私には手に負えないと言って脚色を辞退した」(犬塚稔著「映画は陽炎の如く」草思社)という。しかし一方で「こんな人物を時代劇の主人公に扱うということも甚だ珍しいことであり、そういった意味でも一寸変った素材なので、書く方も聊(いささ)か意慾を覚え」(犬塚稔「脚色にあたって」~「時代映画」1960年8月号所収)、結局は脚本を書き上げ、森一生監督の手で映画化された。それまで「愚痴も出たし、ぼやきもした」(「勝新太郎を囲んで」~「時代映画」1963年2月号所収)パッしない役者だった勝新太郎は、悪事を尽くしのし上がる主人公を人間くさい魅力とアクの強い個性で演じ、この一作でようやく役者として認められるようになる。映画そのものも、森一生の数ある作品の中でも会心の出来栄えとなり、配収も予想以上で、大映系列の小屋主から「勝新太郎の映画はあたらない」と言われてきた汚名を払拭した。

続いて、『悪名』(61年、田中徳三監督)のヒットとそのシリーズ化によって、勝新太郎はスター街道を一挙に駆け上がり、『座頭市物語』を第1作とする「座頭市」シリーズで人気を決定的なものとする。勝新太郎デビュー以来、実に95本目の作品であった。