コラム 『日本映画の玉(ギョク)』 井上昭が語る三隅研次   Text by 木全公彦
今回は井上昭監督に三隅研次監督についてお聞きした文章を掲載する。井上監督は1928年生まれで、1950年大映京都に入社。対して三隅監督は1921年生まれで、1941年日活京都入社。三隅監督のほうが生まれでは7つ年長、キャリアでは9つ上になるが、その間、日活が統合して大映になるという大きな変化があった。

三隅研次

『幽霊小判』
井上本来、僕は溝口(健二)組や森(一生)組が多くって、三隅さんとはそれほどやっていないんですが、三隅組をよく知るスタッフがもういなくなったということで、僕の話でよければ参考までに聞いてください。三隅さんの監督デビューが1954年の『丹下左膳 こけ猿の壷』ですか。僕のデビューが1960年の『幽霊小判』というSP(シスタア・ピクチュア)で、監督として三隅さんの同期といえば徳さん(田中徳三)になるんじゃないですか。徳さんのほうがちょっと年下で監督デビューは遅いけど、ちょうど二人ともお互いをライバルと思っていたところがあった。徳さんも溝口組、森組ですね。三隅さんは衣笠(貞之助)組。僕も入社したての頃に衣笠さんには就いたことがあるんですが、衣笠さんと三隅さんじゃ美意識も、演出の仕方も全然違いますね。でもまあ、なにかしら受け継いだものはあるんでしょう。

――三隅さんは小道具や衣裳にうるさいというんで、大映京都では“小溝口”と言われていたそうですが。

井上 そういうところは似ているかもしれません。でもうるさいといっても溝口さんの比じゃないですよ。今の助監督は何でもインターネットですけど、当時はそんなものはありませんから、専門家に聞くか本を読んで調べるかしかないんです。インターネットは便利ですけど、探したものを選ぶだけで、そこからクリエイトする精神が育ちませんね。だからもうこの頃は僕も面倒くさいから、自分で小道具を探して持っていったりします。

――三隅さんの作品ですと、井上さんが助監督に就かれた『大菩薩峠』(60年)や『婦系図』(62年)なんか大変そうなイメージがありますね。

井上あれはね、小道具というより美術が大変だった。そのへんは三隅さんとよく組んでらした内藤(昭)さんがしっかりとやってらっしゃるから。襖の絵なんてすごい凝ってたでしょ。

――カラスの絵柄ですね。カラスの襖絵といえば内藤さんのトレードマークみたいなもので、『大菩薩峠』に使ったものは眠狂四郎にも使っていました。

井上あれ、よかったね。