鈴木英夫〈その10〉 インタビュー:司 葉子
今回は、鈴木英夫作品でキャリアウーマンからメロドラマのヒロインまで、多彩な役柄を演じ、監督に最も信頼されていた女優、司葉子さんにお話を伺った。  司さんに鈴木英夫監督についてお話を伺うのは、同人誌「映画監督 鈴木英夫」(1995年初版)以来、3度目になる。日本映画を代表する名匠たちの作品に数多く出演なさった大女優だというのに、こちらの不躾な質問にも、ときおりいたずらっ子のように「うふふ」と笑って、気さくに答えてくださる司さんの人柄が、鈴木監督も好きだったに違いないと思う。


■私が照れると鈴木先生も照れていた


――司さんは、『君死に給うなかれ』(54/丸山誠治)に、有馬稲子さんが出演できなくなって、急遽OLをなさっていた司さんがスカウトされて、デビューされたのですよね?

 そう。私は当時関西の毎日放送に勤めていました。お友達の紹介で「家庭よみうり」という雑誌の表紙になったことがあるのね。それを東宝の宣伝部の金田さんという方がご覧になり、プロデューサーの田中友幸さんや池部良さんに見せたらしいんです。それで池部さんが会社にいらして、私は専務室にお茶を出しに行きました。あとから考えると、それは面接だったのね。

――それで池部さんのご尽力もあって東宝に入社されて、有馬さんの代役としていきなりの主役デビューです。

 それで、私、スタッフの方から《ネコいらず》と呼ばれてね。うふふ。(註:有馬稲子のアダナが「ネコ」なので)

――入社2作目が鈴木監督の『不滅の熱球』(55)。『君死に給うなかれ』に続いて池部さんとの共演ですね。

 池部さんにはずいぶん助けていただきました。池部さんは新人女優養成所といわれていましたから。久我美子さん、久慈あさみさん、杉葉子さん、岡田茉莉子さん、寿美花代さん、越路吹雪さん・・・。まだデビュー間もない頃の女優さんと共演なさって新人女優をリードするという感じだったから、私の場合もそうじゃなかったんじゃないかしら。『不滅の熱球』の場合、私は池部さんの妻の役だから、池部さんのことを「あなた」と呼ばなきゃいけないんだけど、それが私、できなくて。恥しくってね。稽古を何度もやるのがイヤで、一発で本番OKにならないかなあと思っていました。そうだ、私が照れると、先生も照れちゃってたんじゃないかなあ。うふふ。それで池部さんがいろいろリードしてくださって。当時の映画界ではラブシーンの撮影というとずいぶん神経を使うんですよね。私は新人だったから、ラブシーンを撮る日になるとスタッフがみんなソワソワしているんで、なんでだろうという気持ちだったんで、逆に開き直った部分もあったりしてね。鈴木先生もラブシーンは苦手だったんでしょうね。照れ屋さんだから。

――鈴木さんは『不滅の熱球』の前年に東宝に移籍されてきたのですが、そのあたりの事情はご存知ですか?

 藤本(眞澄)さんに請われて東宝にいらしたんでしょう?

――そうです。同じ頃、藤本さんの下からデビューされた監督に杉江敏男さんがいらっしゃるんですが、東宝で『恋愛特急』(54)という作品を鈴木・杉江の両監督の共同でお撮りになっています。鈴木さんも生前は「昔のことは杉江君に聞くといい」とおっしゃってましたが、杉江さんのほうが先に亡くなられて。

 鈴木先生と杉江先生とじゃタイプが全然違いますね。杉江先生は甘いメロドラマや三人娘(ひばり・チエミ・いづみ)の映画みたいな明るい映画がお得意でしたから。華やかな娯楽映画という感じ。私もたくさん出させていただきました。鈴木先生はそれとは対照的でリアリズム。どっちかといえば華やかではなく地味。

――鈴木さんは東宝の中堅監督として活躍したわりには、あまり作品数がありませんね。そのあたりの事情はご存知ですか?

 いや、よくは知らないです。

――最初の奥様を長い闘病の末、早く亡くされているらしいですが、その看病のため仕事をセーブしていた時期があるんじゃないかと金子(正且)プロデューサーがおっしゃってました。

 奥様は女優でしたよね。美鳩まりさんでしたっけ。

――そうです。新興キネマの看板女優の一人ですね。それで新人監督の鈴木さんがスター女優と結婚したもんだから、当時は監督と女優の結婚はタブーですから、大映をクビになる遠因になったんじゃないかと。美鳩さんの方がスターだからギャラもいいわけですよ。「僕と結婚するなら、女房に食わせてもらいたくないから、女優を引退してくれ」って。それで女優を引退して専業主婦になったという・・・。

 そういうところも鈴木先生らしいわね。頑固で不器用で。

――照れ屋で人見知りも激しい。

 そうね。人前は苦手だったみたい。それなのに東宝の中堅監督の中では、新人はまず鈴木先生に預けて演技を教えてもらうというか、シゴかれるというか、そういうのがあったと思うんです。東宝では女優の映画というと、まず成瀬(巳喜男)先生でしょう。私も成瀬先生に「葉子ちゃん、30歳になったらいらっしゃい」と言われました。成瀬先生の映画にはちゃんと芝居のできる経験を積んでからじゃないと出させていただけなかった。鈴木先生はリアリズムのサスペンス映画もお得意ですけど、女性を主人公にしたメロドラマもお撮りになっていらっしゃるでしょう。新人は、鈴木先生にシゴかれて、演技を学んでいくというのがパターンだったんじゃないかなあ。私も『不滅の熱球』以降、たくさんの作品に出させていただきましたけど、演技の基礎は鈴木先生から教えていただいたと思っています。それは藤本さんの要望でもあったんじゃないでしょうか。あの当時は次から次で忙しかったものですから、なかなか演技の基礎を教えてもらうという時間もなかったのね。その中で鈴木先生は、じっくり時間をかけて新人に演技の基礎を教えていたんじゃないのかしら。

――どういった形で演技指導をなさるんですか?

 鈴木先生にいちばんシゴかれたのは佐原の健ちゃん(佐原健二)。健ちゃんはもうかわいそうなぐらいシゴかれていました。「どこが悪いんだろう」と思いましたけど、何度やってもOKが出ない。そんなに厳しくやって、苛めるぐらいなら、使わなきゃいいのに、健ちゃんは鈴木先生の常連でしょう? やっぱり鈴木先生としては見どころがあるからシゴキがいがあったということだったのかしら。池部良さんとか宝田明さんも、鈴木先生の映画にはよく出演していらっしゃるけど、健ちゃんみたいなことはなかったから、また違うご意見をお持ちなんでしょうけど。

――その《シゴく》というのは怒鳴りつけたりするわけではないんでしょう? 黒沢明さんみたいに「バカタレ!」とか。

 そういうことはなかったですけど、私なんかもよく「デコスケ!」と呼ばれて何度も何度もやらされて。「デコスケ! デコスケ!」って。「デコスケってどういう意味ですか?」なんて私も聞いたりしたんですけども、鈴木先生の場合は「私ができないからシゴかれてるんだ」って分かるんですね。小津(安二郎)先生は、「ここで止まって、ここでしゃべって」というように細かく指導されるけど、鈴木先生はだいたいの位置は決められるけど、「ああしろ」とか「こうしろ」とかはおっしゃらないの。ただ、その俳優にどういう芝居をすべきか、演じる役がそのときどういう状況にいるのかよく把握できるように、粘り強く説明するという演技指導でした。いちばん印象に残っているのは、石原慎太郎さんがお出になった『危険な英雄』(57)で、あれは確か石原さんの2本目ですよね?

――そうです。堀川(弘通)さんの『日蝕の夏』(56)の次です。

 石原さんがしゃべる長い芝居のカットがあったんです。そうね、台本にして10行ぐらい。それで「どうされるのかなあ」と思っていたら、石原さんがそれを一気にしゃべって、なかなか上手におやりになったんですけど、鈴木先生は気に入らなかったみたいで、あとから編集でハサミを入れて短くされてましたね。鈴木先生も成瀬先生と同じように編集にいちばんの重きを置いていらしたんじゃないかしら。成瀬先生なんか極端なときは「どうでもいいよ、演技は」とおっしゃって、こっちが「もう一度やらしてください」とお願いしてもう一度やっても「さっきとどこが違うの」ってね。うふふ。演技はその場面さえあれば、あとは編集でどうとでもなるという自信があったんじゃないでしょうか。名監督というのは、形より心というのかなあ。それさえ出ていれば、どんな演技をしてもいいから、あとは編集でやるという自負があったと思いますね。新人の頃はそれが分からないから、心はただ一生懸命で精一杯だから、そこまで思いが及ばなかったけど。私のほうにも今ならもうちょっと巧くできるという気持ちはあるんですけどもね。

――キャメラマンの逢沢譲さんにもお話を伺ったんですが、鈴木さんはコンテを押し付けたりはしなくて、大体任せてくれたとおっしゃってました。

 コンビを組んでいる監督とキャメラマンはそういう感じが多いですね。コンテ通りに構図を作って、その中で寸分の狂いもなく役者を動かしていくというのは小津先生だけなんじゃないかしら。最近、私が出た『福耳』(2003/瀧川治水)という映画は、テレビ出身の新人監督だったのね。そのときも監督の中で大体のコンテというのは出来てるんでしょうけども、芝居を固めていく中で、役者の側がいろいろ材料を提供して、それから監督との話し合いの中から、最良の演技なりキャメラ・ポジションを決めていくというやり方でした。それは今も昔も変わらないんじゃないじゃないでしょうか。

――役作りについてはいかがですか? たとえば『その場所に女ありて』が作られた時期というのは映画界も増産体制で、なかなか役作りに時間を取るということができなかったと思いますが。

 私も二本立ての真っ只中の頃に入社したものだから、とても忙しかった。その頃は3本ぐらいは掛け持ちするのが当り前の時代でした。私が「とても3本も掛け持ちできません」と言うと、体が空くまで待ってくれたの。それでセリフは現場で覚えてパッと撮るようなこともやりました。早撮りで有名だった渡辺邦男監督や青柳信雄監督なんかはほんとに早かったのよ。でも『その場所に女ありて』のときは掛け持ちをしなかったの。ちゃんと準備に1週間ぐらいはいただいたと思います。映画の撮影というのは何日もかかるわけだから、やっているうちにだんだんその役がどういう役なのか分かってくるんです。台本も何度も読むわけだし。監督も大事なところを最初に撮らないですよ。やっぱり大事なところは撮影何日目とか、俳優が役を掴んだ頃合に設定してありますから。だから最初の1週間は重要なところは撮らないの。でも中には「あれはもう一度撮り直してくれないかしら」と思うこともありますけどね。『紀ノ川』(66/中村登)は最初の1週間が和歌山ロケだったのね。セットではなくロケだったから、私が和歌山の風土とか人とかに馴染む時間があった。だから役に自然になりきることができて、やりやすかった。映画はそういう計算をしてスケジュールが組んであるものなの。

――『その場所で女ありて』では司さんは広告代理店のキャリアウーマンで、煙草を吸って、麻雀をやったりします。酔っ払って銀座を歩く場面もあります。そういう役づくりに関してはいかがですか?

 酔っ払って歩くところは、あの映画の見せ場でもあるから、自分がお酒を飲んだときとか、他人が酔っ払ったときの様子を観察したりとか、他の映画でそういう場面があったら参考にしたりとかしてね。でも現場でその通りできるかどうかは違うんですけども、撮っている最中に、急遽ここのところは私の酔っ払って歩くところを後ろからロングで撮ろうということになったのかな。私の芝居が鈴木先生の思うようにいかなくて、そうやって撮ることを思いつかれたんじゃないでしょうか。うふふ。『その場所に女ありて』をクランクインするときは、私は体調が悪くてね。『小早川家の秋』(61、小津安二郎)の次の年でしょう? ちょっと痩せちゃって入院したいなあと思っていたんですね。それで一度役をお断りしたんです。でもそういうわけにはいかなくて、藤本さんに懇願されて出演したんじゃなかったかなあ。だから余計に軽い場面から撮影に入ったんじゃないかと思いますね。

――そういえば、司さんが出ていらっしゃるこの頃の他の映画に比べて、司さんはいくぶん痩せていらっしゃる感じがしていました。

 でも、今思うとあれでよかったと思います。男社会で負けずにストレスをかかえて生きているキャリアウーマンって感じがするでしょう? 逆にギスギスした感じがよく出ていて。うふふ。

――司さんといえば、クール・ビューティの形容がありますからね。

 私、「ゲラ子」と言われるぐらいよく笑うんだけど、真面目な顔をするとああなっちゃうの。クール・ビューティって言われると「私がなんでクールなの?」ってずっーと思ってました。

――鈴木さんの映画では『花の慕情』(58)でも司さんはニコリともせずに、クールにメロドラマのヒロインを演じていらっしゃいました。

 緊張するとああなっちゃうの。うふふ。あの映画は安達瞳子(とうこ)さんがモデルですね。

――吉屋信子さんが原作。戦前、吉村公三郎さんが監督された『花』(41)のリメイクですね。

 ええ、そうです。東宝でメロドラマを作ろうとしていた時期に作られた映画の1本ですね。

――リメイク版では草月流が全面協力で、勅使河原霞さんが指導なさってますね。司さんも勅使河原霞さんに生け花を習っていらっしゃったんでしょう?

 生け花は2年ぐらい習っただけ。

――鳥取にいらっしゃるときですか?

 高校時代は鳥取の草月流の先生に習っていて、上京してからは三田の家元の道場に通って・・・。それも半年ぐらいかな。私の姉が大阪で先生をしていたから、そんな関係で私も草月流を習っていたんです。当時は彗星のごとく勅使河原蒼風さんが出ていらして、大変注目を集めていらした時期です。霞さんはその娘さんですね。私が演じた主人公のモデルになった安達瞳子さんは安達流の家元。

――映画で司さんが実際に花を活けられている場面はありますか?

 演技の場面だけ。とても私の活けた花なんて映画の画面で見せられないから。でも、私、お花は活けられます。うふふ。

――メロドラマに出演なさるのはいかがですか?

 このあとも東宝が女優を主人公にしたメロドラマを作ろうとして、結局製作中止になった映画があるんです。その映画はお正月映画で、私が主役に決まって、スタッフが九州ロケに出かける準備をしているときに、中止になったのね。なんていったのかな。戦前に東宝が製作した映画のリメイクで。私が人妻で不倫の話だったので、どうしても私がイヤだってゴネて、流れちゃったんです。

――それは『良人の貞操』(37/山本嘉次郎)のリメイクですね。

 そうそう。『良人の貞操』。

――戦前のは入江たか子さんが主演で。

 そうそう。入江たか子さん。

――松竹や日活の老舗映画会社が団結して東宝(実際はその前身であるPCL)に圧力をかけたので、東宝が危機的状態になっていたときの映画です。そんなときにこの映画が大ヒットしたので、東宝が起死回生したという。

 よくご存知ね。でも、私、不倫はイヤだなんてよく言ったなあと、今思うんだけど。

――監督は筧正典さんで予定されたとか。もともと筧さんは三島由紀夫さんの『燈台』(59)を監督するはずだったんですけど、『良人の貞操』を監督することになって、代わりに『燈台』は鈴木さんが監督したと聞いています。

 そうだったの! この間、大森健次郎監督を偲ぶ会があったの。大森さんは鈴木先生の助監督もなさったことがあるんじゃないかしら。『岸壁の母』(76)という映画があったでしょう。その映画の一場面でとってもいい場面があったのね。それを見ると、大森さんは黒沢先生にも就いていらしたけど、やっぱり成瀬先生や鈴木先生の流れだなあと思いましたね。東宝は黒沢先生と成瀬先生という大きな二つの流れがあるけれど、藤本さんは成瀬先生のほうなのね。でも東宝以外からもたくさん監督を引っ張ってこられましたよね。鈴木先生もそうだけど、松林宗恵監督とか。松林さんはまた別の流れですね。

――松林さんはもともと東宝に入社されて、新東宝から東宝に戻られた方ですからね。鈴木さんと松林さんの両監督の助監督だった岩内克己監督に伺ったんですが、岩内さんは鈴木さんのことを反面教師だとおっしゃってました。情感や余韻を断ち切っていることに異論があると。

 そこが鈴木先生らしいところ。逆に余韻のありすぎる監督もいっぱいいらっしゃるじゃないですか。うふふ。思い切れないのね。成瀬先生もいつもいいところでスパッと切るでしょう。鈴木先生の映画はそういうところがいいですね。あれも照れ屋だったからなのかあ。うふふ。

――鈴木さんとは東宝を辞められてからも、お会いになることはありましたか?

 渋谷によく行かれる喫茶店があったんでしょう?

――ええ。最初は成瀬さんに連れていってもらったそうです。それからお気に入りになったと。

 お亡くなりになる前も金子さんと、そこでよくコーヒーを飲んでいらしたそうですね。鈴木先生も金子さんもお酒を召し上がらないから。一度、私もご一緒したかったんですけど、実現しませんでした。私は舞台があると必ず鈴木先生に見ていただいてたんです。でも先生は何も感想をおっしゃらないの。逆に私は「あそこはどうですか?」と聞いても何もおっしゃらない。今思うと、なんで先生に見に来てもらっていたんだろうと思うし、それならそれでなんでもっと先生に感想をちゃんと聞いておかなかっただろうと、それがちょっと残念に思います。

2007年3月23日 成城学園のご自宅にて
インタビュアー・構成:木全公彦