コラム 『日本映画の玉(ギョク)』
鈴木英夫<その15> 『九尾の狐と飛丸』をめぐって[後篇]   Text by 木全公彦
1963年に大映を退社した中島源太郎は、まもなく企画会社〈グエン・プランニング・センター〉とアニメーション製作会社〈日本動画株式会社〉を設立する。〈グエン・プランニング・センター〉の社章の〈G〉は、〈源太郎〉のイニシャルの〈G〉でもあった。

脚本作り
会社を二つに分けたのは、おそらく税務上のことを考慮したものと思われるが、実質的には同じオフィスである。設立当初は銀座の松屋の裏手にあった事務所は、すぐに六本木に移転する。六本木交差点にあるアマンドの横の芋洗坂を下ったところを、すぐに右に曲がったところにあるマンションの一室だった。地下にはアニメーション撮影用のスタジオが作られた。1966年のことである。

日本動画は中島源太郎が取締役代表で、役員には岩波映画のキャメラマンだった岸本政由と、シナリオ作家協会の事務局に務めていた脚本家の山口権士が就任した。資本金500万円。社員数7名。高校を卒業して、母親の伝手で日本動画に就職し、社長秘書(製作事務)を務めた長田千鶴子は、「若い女性が聞いてはいけないような悪い話も三人でいっぱいしていたので、私は〈悪の三人組〉と呼んでいました」と、当時を回想する。

中島源太郎は、大映で「玉藻の前」の企画を何度も提出したにもかかわらず、映画化にはカネがかかるという理由で却下されたため、大映を辞め、独力でその映画化をすることになったのだが、まだこの段階では、実写で映画化するのか、人形劇でやるのか、それともアニメーションにするのか、まだ決めたわけではなかった。人形劇というのは、NHKが1953年(2月20日~10月30日)と1961年(8月12日)に、二度にわたり人形劇として製作し、放送をしていたのを、中島が見ていたことからの発想である。ちなみに1953年版(生放送)は、NHK連続人形劇の第1回作品であった。なお、このとき人形を操演したのは、江戸糸あやつり人形座の名門・結城座であった。中島の頭の中では、結城座に依頼して人形劇として「玉藻の前」を映画化する選択肢もあったと思われる。そのほか、1960年には新派が水谷八重子と花柳章太郎主演で明治座公演をしており、1966年には先述の結城座の人形劇の公演や、能、淡路人形浄瑠璃など相次いで「玉藻の前」を取り上げていた。

会社を設立するのに先行して脚本作りが行われた。中島は『うるさい妹たち』(61)『黒の試走車』(62)でコンビを組んだ増村保造に声をかけ、〈構成〉の名目でアドバイザーを依頼した。脚本は吉岡道夫が担当した。吉岡の回想では、中島から依頼があって脚本の執筆を開始したのは、1964年の7月だったという。増村がハコ書きを書いて、吉岡がそれを脚本にしていくのである。この段階では、まだ実写なのか、人形劇なのか、アニメーションなのかは、決定していない。いつ製作を始めるのかも未定なら、完成するメドもない。稿を重ねるなかで、次第にアニメーションで製作することに決まっていく。その年の年末に第6稿完成。そこで年が明けて再び増村が全体の構成に手を入れる。さらに改稿作業が進められ、第8稿ができたところで、中島は会社を設立した。

直接費5千万円、間接費5百万円。原作を書いた岡本綺堂の著作権管理者である長男の岡本経一は、史書の青蛙書房を設立した出版人だが、「玉藻の前」の映画化を中島から聞いて、「そんなことより、映画が完成するかどうか、その方が心配だ。ま、大いにおやんなさい。原作料は映画が完成したらいただくとしましょう」と言ったという。また、中島源太郎の友人で、『黒の試走車』の原作者である作家の梶山季之は、この企画に銀行が融資したと聞いて、「ひでえ銀行があるなァ!」と唸ったそうだ。中島は預金と富士重工の株券を担保にして、第一銀行から融資を受けた。