海外版DVDを見てみた 第31回 マルグリット・デュラス:彼女はなぜ映画を撮らねばならなかったのか(1) Text by 吉田広明
『破壊しに、と彼女は言う』
デュラスは『破壊しに、と彼女は言う』で、初めて単独で映画監督をする。69年に映画と同名のテクストが発表されている。本作以降、テクストとそれを原作ないし発想源とする映画作品がほぼ同時期に発表されるようになる。それと共に、「小説」という呼称が使われなくなり、『破壊しに、』もこれまで付されていた「ロマン(長編小説)」の呼称が無くなっている。テクスト『破壊しに、』の末尾には「上演のためのノート」が付されており、デュラスの作品は、言語、演劇、映画という三つの媒体の間を自在に行き来するもの(あるいはその「間」にあるもの)として構想されるようになってきている。デュラスにとって演劇、映画は、言語テクストに対してほぼ平等の位相にあるもの、共通の場のようなものであり、それぞれが互いの属性によって互いを変質させるような重要な触媒となる(ただし、筆者にはデュラスの演劇については良く分からないため、ここでは飽くまで言語テクストと映画との関係を中心に考えてゆく)。

『破壊しに、と彼女は言う』無人の中庭
 『破壊しに、と彼女は言う』は無人の中庭のパンから始まる。中庭は木立に囲まれている。そこにたわいないことを話す女二人の声がオフで入ってくる(そのうちの一人はデュラス自身だ)。どこからかテニスのボールを打ち合う音が聞こえてくる。既にこの冒頭でデュラス的な時空が立ち上げられていることに驚く。閉ざされていると同時に開かれている空間(中庭)。声。その後現れる登場人物は四人のみ、ホテルと言いながら人気はほとんどないし、彼らがテニスをしている様子は全くなく、従ってこの冒頭に響くテニスのノイズは幽霊的に聞こえる。このホテルに宿泊しているのはカップル(マックス・トルとアリッサ)、男(シュタイン)、女(エリザベット)。シュタインはアリッサを愛しており、夫のトルもそれを容認している様子だ。カップルとシュタインは知り合いだが、未知の存在エリザベットに気を引かれており、話しかける。エリザベットはブルジョワの女で、彼女は三人にちょっかいを出され、質問攻めにされ、要するに苛められる(四人でトランプをする見事な場面で、カメラは彼女を捉え続け、画面外の三人からの鋭い問いがナイフのように発せられると、その都度彼女は声の方を向くものの、次から次に声が発せられるので追いつけない)。終わりころに彼女の夫が訪ねてきて、テーブルを囲んで話をするが、典型的なブルジョワである男は三人の異様さに戸惑い、怒りすら覚えるようになるが、既に彼らに感化されたエリザベットは夫に耐えきれず、外に出て嘔吐する(嘔吐は、デュラスにとって強い拒絶の徴である)。ラストで、テーブルを囲む登場人物たちは黙り込んでおり、そこにバッハの音楽がかすかに鳴り、爆撃音が響き渡る。これら外部からの音は、このホテルを囲む森(そして登場人物たちはその森を恐れている)の外で起こる革命の音の訪れである。

『破壊しに』鏡を挟んで分身化する女二人
この作品は、68年五月革命の強い影響下で書かれているとされる(デュラス自身、この革命には大きく関わりを持っている)が、これについても筆者は語る資格がない(し、あまり関心もない)。ただ、トルとシュタインが自身を「ドイツのユダヤ人」と述べているのは、五月革命を主導した運動家ダニエル・コーン=ベンディットが我々はみなドイツのユダヤ人だ、と述べたことを想起させずにはいないだろうし、エリザベットの変貌が、新たな社会の訪れを示唆しているのだろうということだけ記しておく。この映画で興味深いのは、トルとシュタインが、前述のように「ドイツのユダヤ人」と自己規定していることに加え、共に何かを書いている人間だということ(デュラスにおいて書くことは、何かやむに已まれぬ衝動に突き動かされていること、いまここにある社会に対するはぐれ者であることを示す)において分身関係にあるということ、である。これに加えてアリッサ(彼女は永遠の十八歳である、この十八歳という年齢もデュラスにとって重要)とエリザベットもまた分身関係に陥る。エリザベットは三人からエリザ、と呼ばれるようになり、アリッサとエリザと似た音の並びとなる。また二人が鏡の中で対話し、双子みたい、と述べる場面がある。このホテルという空間は、それぞれをそれぞれに対し分身として構成する空間なのだ。この分身を、『モデラート・カンタービレ』の語りにおける反復や、『ロル・V』における過去の反復の変奏と見ることは可能である。それまで現在において語られる過去、として、時間の二重化として現れていたものが、ここでは現在時で人物が分身として二重化する、つまり空間的な二重化として現れる。これは、映画というイメージをかなめとする表現によって可能となった事態であるかもしれない(ただし、アリッサとエリザはともかく、男二人の外見はまったく似ていない)。