小説の変化①
シナリオ『ヒロシマ、モナムール』の執筆時期は58年らしいが、小説の書法に変化が現れるのはその頃のことである。良く言われるように、『モデラート・カンタービレ』(58)からデュラスの小説は変化し始める。外的な状況から言えば、それまでデュラスは数か月に一作を仕上げることとし、毎日書斎で執筆していたが、本作以降はもはや穏やかな時の中で書くことは不可能になったという(上記『愛と狂気の作家』デュラス作品解説当該作品の項)。それまでのいかにも小説らしい結構(客観的だったり主観的だったりする視点が定められて、それが一つの物語を立ち上げ、語りと描写と台詞という小説を形作る要素が構成されて順次物語が展開してゆく)を離れ、台詞が多用され(しかもそれはかみ合っているのかいないのか分からず)、登場人物の行動が淡々と(心理描写がほとんどされないため、なぜ彼、彼女がそのような行動をとるのか明らかにされないまま外面的な行動だけが)描写されてゆく。出来事らしい出来事もほとんど起こらない。
港町のある酒場で、男による女の(恐らく)情痴殺人事件が起こる。その酒場の近くで息子のピアノのレッスンに来ていたブルジョア主婦が事件直後の現場を目撃、それ以降毎日、その酒場にやって来て、酒場にいる男と事件について話をする。女は元より、男も大して事件について詳細を知りはしないのだが、彼らはそれを語ることに奇妙な愉悦を覚えている。彼らは事件を語り合うことにおいて結びつき、恋愛関係のようなものを作り上げてゆく。彼女らは、語ることにおいて殺人事件のカップルを模してゆくのであり、ついに、「あなたは死んだ方がよかったんだ」、「もう死んでるわ」という最後の対話によって、女は疑似的に死に至る。女は、殺された女に惹かれ、それを語りの中で模し、「熱情=殉教(パッシオン)の剽窃を通して死ぬ」(河出文庫解説からデュラスのインタビューの言葉)のである。
この小説は反復から成り立っている。殺された女と酒場を訪れる女は境遇が一致し(共に既婚者であり、子供がいて、別の男と関係している)、主人公の男女は毎日繰り返し酒場を訪れ、毎日繰り返し事件について語る。彼らはほとんど事件の実体も真相も知らず、会話の中身は根拠のない噂話を超えるものではないのだが、事件が情痴事件であったという以上の事の真相は彼らにとってどうでもよいのであって、事件現場に漂うエロスの残り香の中で事件について語ることそのものが二人の関係を形作ってゆく、その意味において二人の会話は、中身以上に語ることそのものが重要な遂行的言説である。言い換えれば、語ることそのものが彼らにとっては行為=性交だということになる。デュラスにおいて語りとはそのように淫蕩なものなのだ(語りの淫蕩さ、それはとりわけ映画『ガンジスの女』、『インディア・ソング』において明確に示される)。
デュラスの小説がさらに決定的な転換を迎えるのが『ロル・V・シュタインの歓喜』(64)である。この小説には語り手が存在するのだが、彼(作品の冒頭ではまだ何者とも知れない)は、自分の語りが信用のおけるものではないことを早々に暴露する。彼は以下に述べる出来事を、ロルの友人であるタチアナから聞いたとするが、タチアナの言うことは信用しない、という。また彼は「以下に、事細かに述べるのは、タチアナ・カルルが話したそのうわべの見せかけとやらと、T・ビーチのカジノの夜に関して私がでっちあげた話を、まぜこぜにしたものである」(邦訳者は平岡篤頼)というのである。それ以降も場面描写の前に「私はでっちあげる」とわざわざ記されることが度々生じる。或る事件に関する間接的な、二次的な言葉。繰り返し語られ、でっちあげに近くなってゆく言葉。これが、『モデラート・カンタービレ』の、殺人事件を巡る男女の会話と同質のものであることは言うまでもない。当事者ではない人物がどこかで耳にした断片からそれを聞いた者が第三者に伝える際に、その者自身の欲望がそこにじくじくと滲み入り、何かを付け加えたり、差し引いたりしているうちに真実(そんなものがあるとして)から程遠くなってゆく。ただ、ここで奇妙なのは、その語り手が物語の中に当事者として現れてくる点である。語り手の「私」が、「彼」として物語の中に現れるのだ。ここに『ロル・V』以降のデュラス作品に特有の語りのトポロジーが現れているのだが、それについて語る前にこの小説において起こる出来事をざっと記述しておく。