海外版DVDを見てみた 第31回 マルグリット・デュラス:彼女はなぜ映画を撮らねばならなかったのか(1) Text by 吉田広明
筆者はこれまで二度にわたってマルグリット・デュラスの映画について語る機会を与えられた。2012年二月のアテネ・フランセでの特集上映「映画作家マルグリット・デュラス」での講演、2015年一月の映画監督七里圭主催による連続講座「映画以内、映画以後、映画辺境2」第七回での七里圭、小沼純一両氏とのトーク。共に口頭での発表で発せられた言葉はその場限り、聴衆の記憶の中に次第に薄れながらも漂って、いずれ起こるかもしれない化学変化を待てばよいだけのものではあるのだが、こちらとしてそれなりに考えもしたので、一度考えをまとめておこうと思ったものである。とりわけ二度目のトークの方では筆者のトーク能力の問題もあり、舌ったらずで生硬な議論となってしまったように思うので、その補完の意味もある。なお、デュラスは1914年生まれで、昨年2014年は生誕百年に当たり、フランスではポンピドゥー・センターで映画作品のレトロスペクティヴがあり、それを機にこれまでソフト化されていなかった作品(『ガンジスの女』、『木立の中の日々』)を含むDVDボックスが出、映画関連の書籍を主として出版するCapricciから映画作家としてのデュラスを取り上げた(インタビューや論文を集めた)書籍『撮影しに、と彼女は言うFilmer, dit-elle』も出た。日本でも、これまで日本におけるデュラスの主たる出版元であった河出書房新社から『マルグリット・デュラス 生誕100年 愛と狂気の作家』や、『ヒロシマ、モナムール』新訳、インタビュー集『私はなぜ書くのか』が出版されている。

映画との接点~『ヒロシマ、モナムール』①
小説家が映画を撮る。それは必ずしも珍しい事ではないのかもしれない。とりわけフランスでは、マルセル・パニョル、サッシャ・ギトリ、ジャン・コクトーなどは著名な文学者であると同時に映画作家でもあり、その活動は余技の域を超えている。アンドレ・マルローやアラン・ロブ=グリエなども、彼らの場合小説家であると同じレベルで映画作家であるとまでは言えるかどうか分からないが、充分まともに検討する価値のある映画作品を生み出している。しかし、これらの文学者・映画作家のいずれとも、デュラスの場合違っているように思える。乱暴であることを承知で言うならば、上記の文学者・映画作家の映画作品が、その大半は文学作品の物語の映画化、要するに脚色であって、文学作品は文学作品、映画作品は映画作品としてそれぞれの特性の限りにおいて最良の成果を得ているとしても、言葉と映画(映像=音響)それぞれはいわば平行に存在し、互いの領域を脅かすことは無いのに対し(ロブ=グリエの場合はその限りではないかもしれない、これについてはまた改めて書く機会もあるかと思う)、デュラスにあっては、言葉と映画(映像=音響)は激しく葛藤しあっており、その映画は小説の脚色であるどころかその中での異様な言葉の扱い(語り)によって映画における言葉について我々が有していた固定観念を覆すものとなり、また一方彼女の小説も映画製作という行為によって深甚な変形を被るのであって、従って言葉と映画(映像=音響)はいわば垂直にぶっちがえ、互いの領域を脅かし、あるいは互いに互いの影響によって新たな領域を拡げているのだ。小説と映画が、映画の誕生以来、小説作品の映画化(脚色)という形で密接な関係を有していることは周知の通りだが、デュラスの場合におけるように深刻な葛藤を演じた例はまれである。

自作小説の他社による映画化(脚色)がそれまでにもあった(初期代表作『太平洋の防波堤』のルネ・クレマンによる映画化『海の壁』57)が、それを除いてデュラスと映画のかかわりは、アラン・レネ監督に依頼された、ヒロシマを題材とした映画のシナリオ執筆が初めてのことである。映画は『ヒロシマ、モナムール』(当時の日本公開題は『二十四時間の情事』)として59年に公開、60年にシナリオ本『ヒロシマ、モナムール』(清岡卓行による旧訳題は『ヒロシマ私の恋人』)が公刊された。デュラスは、依頼されなければヒロシマについて書くことはなかったろうと述べており、実際、デュラスにとってはドイツによるユダヤ人の強制収容所収容と大量虐殺の方が個人的にも(当時の彼女の夫ロベール・アンテルムはダッハウ収容所送りになっていた)、その後書かれる作品的にも大きな位置を占めるものではあるのだが、しかしヒロシマについてデュラスは興味深い一節を書き残している。一冊丸々映画についての文章やインタビューを集めた『緑の眼』(カイエ・デュ・シネマ誌がデュラスを編集主幹として編んだ1980年六月号――312/313合併号デュラス特集にそれ以降の文章などを補遺しての単行本化。邦訳者は小林康夫)の中の、「私は思い出す」。

「私は思い出す。一九四五年八月六日のことを。わたしと夫(引用者註、アンテルムは六月に帰還していた)はアヌシー湖に近い収容所の家にいた。ヒロシマの原爆を報じる新聞の見出しを読んだ。急いでその施設から外に出た。道路に面した壁によりかかり、そのまま立ったままで気を失った」。その直後同じ四五年の出来事として強制収容所からの生存者の帰還を待っていた事への言及があり、その待機の期間についてこう書かれている。「泣きはしなかった。見かけ上は普段と変わりなかった。ただ、まったくしゃべることができなかっただけ」。ヒロシマと、強制収容所という極限状況。それを前にした時、デュラスは言葉を失い、さらに意識すら失う。極限状態は、それが現出した時、意識が耐え切れず吹っ飛んでしまうような事態(より端的に言えば、死)なのであり、人間存在とは相いれない事態なのである。気絶という状態は、デュラス作品の中で、登場人物が置かれる中でも極限的な状態である。例えばロル・V・シュタインは恋人を奪われた時、「絶叫」し、「気絶して床に倒れ」る。ここで並置されているように、叫びもまた、言葉を奪われた状態の一変種である。気絶と叫びは、意識が、言葉が奪われる極限の非人間的な状態が人間的身体において受け止められた(あるいは受け止め損ねた)状態として、デュラスにおいては等価なのだ。