フィルム・ジャン・エプスタン
エプスタンはアルバトロス社を出て、独立プロダクション、フィルム・ジャン・エプスタンを設立、そこでジョルジュ・サンド原作の『モープラ』(26)、『モープラ』と並行して撮られたドキュメンタリー短編『ジョルジュ・サンドの国で』(26)、『6 1/2×11』(27)、『三面鏡』(27)、『アッシャー家の崩壊』(28)を撮る。後者二作は実験映画として夙に名高い作品で、エプスタンの頂点の一つであることは間違いない。しかしこういう作品を自由に撮れる環境として自らのプロダクションを設立したわけでもないということなのか、あるいは先ずは商業的な安定を図ったということなのか、『モープラ』、『6 1/2×11』はそれぞれ歴史メロドラマ、メロドラマ=サスペンスである。
『モープラ』ポスター
『モープラ』山賊の巣に迷い込んだヒロイン
『モープラ』森のイメージのオーヴァーラップ
『モープラ』Maupratはジョルジュ・サンドの小説の映画化(藤原書店から邦訳有)。貴族モープラ家の令嬢エドメ(サンドラ・ミロワノフ)は馬の遠乗りの際道に迷い、ある荒れた城にさまよい込む。そこはモープラ家の分家の城だったが、没落した分家は盗賊を生業としていた。そこにエドメには従兄弟にあたるベルナール(ニノ・コンスタンティーニ)がいて、エドメは彼を誘惑し、逃がしてくれるよう歎願。二人で逃げることを決意したベルナールは、自分以外の男と結婚しないことを約束させる。そこに討伐隊が来て、山賊たちは退治される。ベルナールも絞首されそうになるが、エドメの助命で救われる。ベルナールはモープラ家に引き取られ、紳士教育を受ける。エドメとの約束を信じているベルナールだが、エドメは父が指定した婚約者と戯れ、ベルナールを無視。嫌気がさして逃げ出したりもするベルナールは、軍隊に入り男を磨く。除隊後、かつて盗賊の巣だったが今は荒れ果てた先祖の城に住み、領地を立て直そうとする。狩りの際、エドメと口論になったベルナールは銃を投げ捨てて去り、その銃を拾ったフードを被った不気味な僧侶がエドメを撃つ。ベルナールが疑われて裁判になるが、僧侶の存在が明らかになり、さらにその僧侶が盗賊団の生き残り、ベルナールの叔父と判明。暗躍していた残党がすべて退治され、エドメとベルナールは結ばれる。
エドメの心理がまったくついて行けないほどに支離滅裂。しかしこれは原作自体がそうなので、映画は原作に忠実に作られている様子。しかし、紳士教育やエドメの翻心に嫌気がさしたベルナールが屋敷を逃げ出す場面は素晴らしい。こちらに向かって走ってくるベルナールを下から仰角で捉え、ベルナールはジャンプしてカメラの真ん前に着地する。カットで今度はカメラ自体がベルナールの視点となって森の中を走る、走る。ベルナールのクロース・アップ、木々、花が交錯する素早いモンタージュ。陰鬱で偽善的(とベルナールには思われる)館を逃げ出した開放感が感じられる場面である。『ロベール・マケール』に引き続き、エプスタンが捉える野外は生き生きして見える。ちなみにこの作品に助手としてついているのがルイス・ブニュエル。ブニュエルはフランス留学中、エプスタンがアルバトロス社で俳優養成学校をしていると聞き、入学、エプスタンに直訴して『モープラ』の現場に就かせてもらった。山賊退治の兵隊役で出てもいるという。ブニュエルは『アッシャー家』でもセカンド助監督を務めるが、アベル・ガンスのカメラ・テストの手伝いをするよう命じられ、ガンスの映画を認めていなかったブニュエルがこれを拒否、エプスタンは「君のようなチンピラが、ガンスのような巨匠を批判できるのか」と怒り、助監督を解任(ガンスの『鉄路の白薔薇』はエプスタンのフォトジェニー理論の霊感源の一つでもあり、エプスタンはガンスを尊敬していた。31年にもガンスの『世界の終わり』の助監督を務めている)。エプスタンの怒りは間もなく溶けたが、その際、君はシュールレアリストの気があるようだ、彼らには気をつけたまえ、と助言したとされる(『ブニュエル 映画、わが自由の幻想』矢島翠訳、早川書房)。シュールレアリスト(とりわけアンドレ・ブルトン)は論争好きで、スキャンダルを引き起こして時代の注目を集めていたが、前衛として彼らに比較的近しい立場かと思われるエプスタンが、シュールレアリスムに必ずしも親近感を抱いていなかった様子が伺えて興味深いが、にしてもブニュエルがシュールレアリスム映画の極地と言える作品をその直後に撮ることになるとは想像もつかなかったに違いない。
『6 1/2×11』ポスター
『6 1/2×11』死の前、鏡を見る主人公
『6 1/2×11』車と海と恋人たちのオーヴァーラップ
『6 1/2×11』鏡の自身を撃つ主人公
『6 1/2×11』Six et demi Onzeは現代劇。科学者のジェローム(エドモン・デル・ダエル)は、しばらく弟のジャン(ニノ・コンスタンティーニ)の音沙汰がないのを心配している。ジャンはオペラ歌手マリー(スージー・ピアソン)と愛の巣を探して海辺の別荘回りをしていたのだ。二人は別荘で二人きりの生活を満喫、ジャンはその思い出を記録するためコダックのカメラを購入する。しかしマリーはとあるカフェで会ったダンサー、ハリー(ルネ・フェルテ)に気を惹かれ、彼の車に乗って別荘を去る。絶望したジャンは拳銃で自殺を試みる。しばらく後、ジェロームは警察から、別荘にジャンの私物が残されているので引き取って欲しいと連絡を受ける。折からマリーは体調不良をジェロームに治療してもらった縁でジェロームを知り、ジャンの兄と知って倒錯的な感情を抱き、彼に近づく。ジェロームもマリーを愛するようになり、一緒に別荘へ。マリーは自分の痕跡がないことを確かめて安堵するが、しかしジェロームがカメラを発見。現像するとそのフィルムには、マリーの姿が。
別荘を探して走らせる車の中に据えたカメラから捉えられる外景は、エプスタン的な「運動」である。また、オーヴァーラップの優れた場面が見られる。海の映像にオーヴァーラップして、こちらに向かって走ってくる車、キスする二人が何重にも重ねられる。あるいはまた、ジャンが自殺する場面においては、鏡に映る自分の姿に向かって発砲、鏡が割れ、今度は銃をこちらに向けて発砲、ゆっくりと倒れるジャンにカメラの映像がオーヴァーラップ、画面が白濁してゆく。『まごころ』では取りわけ意味のない場面でも頻繁に用いられ、技法のため技法に過ぎないように見えたオーヴァーラップだが、ここでは主人公の感情の高まる場面に限定されて、しかも確かな効果を上げている。
逃げたマリーとハリーをジャンが車で追おうとする場面も奇妙。二つの場面が交代でモンタージュされるのだが、マリーとハリーが逃げたのは過去の時点である筈で、それが現在であるジャンの場面と並列されるのだ。過去と現在が並行モンタージュされるという時制の混乱。しかもマリーとハリーが車で去る場面は、両脇の木立に何故かマスキングがされているし、また、ジャンが車で追おうとするとパンクして、ジャンがパンクを修理するところが延々描かれる。この時間の遅れによってジャンが追跡を諦めた、ということなのだろうか。しかしそれならパンクに途方に暮れたジャンを映し出せば済むところではないか。こうした違和感は、しかし例えば『モープラ』のヒロインの心理の混乱に比べればはるかに映画的に興味深いことは確かで、あまりネガティヴに捉えようとは思わない。
そしてこの映画のクライマックスと言える、フィルムによってマリーの存在が暴かれる場面。ここでは実に不思議な演出がなされている。現像されたフィルム自体はネガであって、女が写っているらしいことは分かるものの、それが誰なのかは分からない。ジェロームはそこで、何か木枠のようなものを覗き込む。すると、ジャンがその写真を撮った時の情景らしきものが、写真のような停止画像ではなく、映画として映るのである(四囲がぼやけていて、木枠を模しているものと思われる)。木枠はネガをポジとして映すための装置なのかと思われるのだが、そこに映るのは動画なのだ。まるでタブレットで動画を見ているようで、ほとんど2010年代の出来事であるかに見える、とまで言うと言い過ぎなのだが、しかし驚くべき場面であることは間違いない(筆者の全くの勘違いとも考えられなくはないが)。ともあれ、フィルムが隠されていた何事かを暴き出す、という意味で、エプスタンの考える映画そのもののメタファーであるかのような映画であり、かつフィルムによってフィルムを描くメタ・フィルムである。この映画の題名は一見何のことだか分からないが、コダック社のスチール写真用116フィルムのサイズなのである(作業題は『コダック』で、これだと落ちが分かってしまいかねないというので変更された)。
ここまで書いてきた時点で、まだエプスタンの本領は発揮されていないように見える。しかし、エプスタンの作品世界が、これまで考えられてきた以上に広いことはここまでの記述でも既に分かってもらえたのではないだろうか。(以下次回)