『長い記憶』主人公
『長い記憶』ラストで泥濘にはまる主人公
イーリング以後、承前
ヘイマーは次作として、アーサー・ランクの下でノワールと言っていい作品『長い記憶』The Long Memory(未、53)を撮る。冒頭、出所した男(ジョン・ミルズが演じている)が、荒涼とした海岸にやってくる。いくつかのショットがその風景の中の男を捉えるが、すべてロングショットで、男の姿は風景の中の点に過ぎない。その後、彼が無実の罪で十数年を刑務所で過ごし、今、その復讐のために舞い戻って来たのだということが判明するのだが、彼を風景の中に打ち棄てるような冒頭のショットは、彼の過ごした空しい年月ばかりでなく、その後の復讐の空しさをも象徴しているかのようだ。彼は、打ち捨てられた廃船に入り込み、そこに寝泊まりすることになる。
復讐の物語そのものはそう目新しいものではない。結婚を約束していた女性の父親が密航に関わっており、そのいざこざに巻き込まれて死んだ男の殺人の罪をかぶせられてしまったわけなのだが、その婚約者が既に別の男と結婚しており、それが刑事。その刑事は等の事件の担当者だった男で、主人公の出所後もその動向を注視している。主人公は、当時の関係者の行方を探るために、海岸の小さな食堂に何度か足を運ぶが、そこで船員に乱暴されそうになっていた、食堂の下働きをする移民の若い女を助けるのだが、移民の女は勝手に主人公の住む廃船にやってきて住みこむ。最初は邪魔にする主人公だが、その無垢さに次第にほだされてゆく。主人公は、自分を捨てた女を見つけ糾弾するが、彼女もまた苦しんでいたことを知り(彼女は自殺を図る)、復讐の空しさを悟る。しかしひょんなことから、自分が殺していたとされる男が生きているのを知る。それでも最早復讐はしないつもりの主人公だったが、見つかった当の相手は主人公を殺そうとする。主人公は追いつめられて潮の引いた干潟の泥濘に落ち、身動きが取れない。ゆっくり銃の狙いをつける男は、しかし、冒頭の海岸で主人公に声をかけていた、同じく廃船に住む浮浪者の猟銃で射殺される。
冒頭の海岸、廃船、ラストの泥濘などは印象的だが、ヘイマーの作品にしては悪意が足りない、というか、主人公や彼に好意を持つ移民の女は無論、彼を捨てた女も、その夫も実は悪い奴ではない、という設定なので、あまり事態が悪く進展していかないのが、まあ物足りない作品。
ヘイマーの次の作品は『ブラウン神父』The Detective(未、54)。直接の製作母体はイギリスのFacetという会社だが、コロンビアが出資製作したもの。チェスタートンの著名な推理小説シリーズの最初の作品「青い十字架」を下敷きにしているが、自由に翻案されている。原作では怪盗フランボウは、ブラウン神父の保持する貴重な十字架をだまし取ろうとして、しかしブラウン神父の機転でしてやられる筈なのだが、興味深いことに映画では逆にブラウン神父がフランボウにしてやられる。フランボウの方が一枚上手なのだ。ブラウン神父は、奪われた十字架を取り戻すべく、フランボウから掏り取った銀の煙草入れに描かれた紋章から、彼がフランスの地方の没落貴族であることを突き止め、その領地に向かう。
ここでフランボウは、またしてもヘイマーの分身、ないし理想像である(ピーター・フィンチが見事な男っぷりで演じている)。ダンディで、美術趣味があり、世界中から盗んだ様々な貴重品(ただし自分の趣味に叶うもののみ)を集めた部屋を作っている。また、ブラウン神父も、フランボウの煙草入れを掏り取っているように、犯罪者の素質があるという設定になっており、怪盗がどのように十字架を盗もうとするか、しばし目を閉じ考えると、「私は想像の中で三度これを盗みましたぞ」と言ったりする。探偵であるブラウンが、その実可能性としては犯罪者たりうる、という逆説的な設定は、実は原作にもある(「ブラウン神父の秘密」)ものではあるが、怪盗と探偵の差を無化し、お互いがお互いの鏡像のようにすると言う意味で、いかにもヘイマー的なものである。映画の物語のほとんどが、フランスで展開されるのも、フランス好きのヘイマーらしい。ちなみにブラウン神父はカトリックの神父だが、ブラウン神父を演じたアレック・ギネスもカトリック改宗者。ヘイマーにも改宗を勧めたと言うが、ヘイマーは改宗せず(と言って、元々ヘイマーの宗教が何だったか知らないが)。
『パリへ愛をこめて』To Paris With Love(未、54)。スコットランドの郷紳の親子が、パリにやってくるが、父(アレック・ギネス)は息子の恋人を、息子は男やもめの父に再婚相手を見つけてやろうという密かな目的を抱えている。お互いふさわしい相手を見つけるが、相手のために、と思って選んだ女性に、親子とも自分の方が恋をしてしまう、という取り違えのコメディ。ここでもヘイマー的な対照性が見られるといえば見られるが、コメディらしくほとんど図式的なまでに際立っている。
ヘイマーの最後の作品となるのが、ダフネ・デュ・モーリア原作のスリラー『スケープゴート』The Scapegoat(未、58)。MGMブリティッシュ製作で、製作者はイーリング売却後、古巣のMGMに一時戻っていたマイケル・バルコン。既にラズロ・ベネデク、ジョージ・キューカー、ヴィンセント・ミネリとたらいまわしにされてきた企画。バルコンがヘイマーに振ったものだろう。やはりバルコンはヘイマーの事を気にかけてはいたのだ。題名から分かるように、身代わりにされる話で、そう思えば確かにヘイマー向きの企画ではある。主人公の造形も魅力的(ここでもアレック・ギネスが演じている)。イギリスの地方の大学で仏語仏文学を教えている初老の男が南仏に休暇にやってくる。船を車で降り、税関を通る。ヴォイス・オーヴァーのモノローグが、「申告するもの?そんなものはない。空しい心くらいのものだ」と言うように、初老を迎えながら家族もなく、心の空しさを抱えたままの男。彼はその夜、不審な男につけられ、居酒屋に逃げ込むが、その男も入ってくる。その男は何と彼に瓜二つ(カウンター後ろの鏡の中で初めて対面する)。男は地元の没落貴族であった。彼に誘われるままホテルに泊まり、翌日目覚めると男はいない。自分の服もパスポートも、貴族のものと入れ替えられている。しかも貴族の召使いが迎えにきて、そのまま城に連れて行かれる。
こうして貴族に間違われてしまうのだが、最初は自分はあなた方の思っている人物と違うと否定する主人公だが、しかし、なぜか殉教者が大好きな変わりものの娘(中学生くらい)や、優しい妻など、家庭の温かみに次第に惹かれ、ついに一家の主としての自分を受け入れるようになる。無論一連の事態は貴族の罠である。裕福な妻を殺すためのアリバイ作りに主人公を利用していただけだったのだ。妻の葬儀後姿を現し、あなたには消えてもらうと銃を向ける貴族に、主人公も反撃する。主人公が電灯を手で払いのけ、暗闇の中に二つの銃声が響く……。
MGMの意向で勝手に再編集を施され、バルコンすらそれに抗議したというが、確かにサスペンスとして何か重要な場面が欠けているような印象はある。とはいえ、観終わった後の印象は悪くない(無論傑作とは言えないだろうが)。これまでの作品であれば牢獄であった家族が、ここでは魅惑的なものとして捉えられている。その点ヘイマーらしくないといえばそうなのだが、しかし心の空しさを抱えた男が、思いがけず家族の一員として迎え入れられ、次第にそれに惹かれてゆく過程は、あるいはヘイマーもこうしたものに憧れていたかもしれないと思わせるのだ。