イーリングでのヘイマー~長編デビューまで
数作で編集を担当した後ヘイマーは、ディアデンとウィル・ヘイ共同監督の『博学なる友』My Learned Fiend(未、43)、チャールズ・フレンド監督『船団最後の日』San Demetrio London(未、43)、ハリー・ワット監督『フィドル奏者三人組』Fiddlers Three(未、44)の製作補につくが、『船団最後の日』ではフレンドが病気で途中降板したため、ヘイマーが作品を完成させ、『フィドル奏者三人組』では、ミュージカル場面(といってもこの映画はミュージカルなのであるが)を全面的にヘイマーが撮り直しており、これらでの演出が評価され、ヘイマーはスタジオの有力メンバーの顔見せ興行となるオムニバス映画『夢の中の恐怖』Dead of Night(未、DVDあり、45)で、自身初の監督作となる短編『呪われた鏡』を撮ることになる。
『呪われた鏡』はある女性(グーギー・ウィザース)が婚約者(ラルフ・マイケル)に、骨董屋で買った鏡を送るが、その鏡の中に自分の部屋とは全く違う部屋が映るようになる。結婚後、夫は次第にその鏡の中の像に支配されてゆき、狂気に侵され、ついに妻を殺そうとするに至る。妻は鏡を破壊することで危うく難を逃れるが、骨董屋を訪ねた新妻は、その鏡に由来があることを知る。その鏡はかつてある男のものだったのだが、その男は健康でハンサムだったのが人生の絶頂で事故によって寝たきりになり、精力はありあまっているのに動けないことで発狂し、妻を殺して自分も自殺したというのだ。一部始終をこの鏡は見ていた、というわけだ。鏡のこちら側の世界とあちら側の世界は、確かにヴィジュアル的に対照的(こちら側は白っぽく現代的に瀟洒なインテリア、あちら側は常に暗く、19世紀的に重ったるいインテリア)ではあるものの、共にブルジョア家庭であることで共通する。かつての鏡の持ち主は不慮の事故によって人生を狂わせてしまったわけだが、同じことがこの主人公たちにも起こらないとは限らない。鏡の中の世界は実はこちら側の世界の、ありうる別の世界=陰画なのだ。というかむしろ鏡の中の世界は、こちら側の世界の抑圧された無意識を暴きたてるものなのではないか。上記『英国コメディ映画の黄金時代』は、イーリングがセックスとヴァイオレンスを圧殺し、しかしその潜在化した伏流は、後にハマー・ホラーなどに溢れだすことになると記している。その圧殺されるべきセックスとヴァイオレンスをこそ、この『呪われた鏡』は扱っているのであり、また、ヘイマーはとりわけその主題を以後の長編で扱ってゆくことになる。ちなみにこのオムニバスでは、カヴァルカンティも腹話術師が、独立した意思を持ち始める人形によって狂気に陥ってゆくという『腹話術師と人形』を撮っており、この人形も実は腹話術師の無意識の現われと考えれば、『呪われた鏡』と同型なのだが、『呪われた鏡』の方がセックスとヴァイオレンスがあからさまに語られているという意味では一層大胆である。
イーリングでのヘイマーの長編デビュー作は『ピンクの紐と封蝋』Pink String and Sealing Wax(未、45)。妙な題名だが、これは薬屋が薬を量り売りして客に渡す際に、紙を封蝋で閉じ、ピンクの紐をかけて渡したことから。舞台はヴィクトリア期の地方都市、厳格な父親に若さを抑圧されている長男が、夜な夜な近くのパブに入り浸り、そこの女将(これもグーギー・ウィザースが演じている)に惹かれる。女将は粗暴な夫にうんざりしており、ある夜夫に殴られ、心落ち着かせるため海岸に出たところを長男に出くわし、けがの手当てをしてもらうため薬屋に。そこで劇薬を盗んだ女将は、それを用いて夫を殺す。一旦は飲み過ぎによる事故と判断されかけたが、ある女の証言から殺人事件として捜査が始まり、薬屋の長男も疑われるが……という展開。厳格なブルジョア家庭に、色と欲の殺人事件が侵入する。一応はハッピー・エンディングではあるものの、子供たち(長男の他に娘が二人、さらに幼い弟)が厳格な父の支配下に置かれる一家が、いかがわしい男女で溢れかえるパブに比べて、幸福にも安泰にも見えないという皮肉。