『優しい心と宝冠』
ヘイマーのイーリングでの代表作となるのが『優しい心と宝冠』Kind Hearts and Coronets(未、DVD題『カインドハート』、49)。母親が貴族の出身で、身分の低い男と駆け落ちして結婚したために、貴族の称号を継ぐことができなかったばかりか、困窮する彼女が援助を申し出ても無視されたという過去をもつ男が、自分の身分を偽って一族に近づき、自分と称号の間にいる八人の親類縁者を一人一人殺してゆく。計画は見事成功、自分が殺した従兄の未亡人と婚約までして、いよいよ大望成就という時に、幼いころのガールフレンドで、彼のプロポーズを断り、裕福な男と結婚していた幼友達の夫を殺した(株に失敗し自殺したのだが、金を貸すのを断っていた)という無実の罪で死刑判決を受ける。幼友達は自殺の証拠となる手紙を提出する代わりに、自分を妻として迎えるよう脅迫。映画は、男が釈放され、刑務所から出てくるところでクライマックスを迎えるが、彼を迎えに婚約者と幼友達が二手に分かれて待ち構えている。しかし彼が書いていた回想録(一連の殺人について告白したもので、そのヴォイス・オーヴァーによって映画は語られてきた)を牢獄に置き忘れたことを思い出して映画は終わる。
『優しい心と宝冠』アレック・ギネスの八役
『優しい心と宝冠』アレック・ギネス演じる老女
親戚一同を皆殺し、という物語がまず凄まじい。これまでの長編では、『ピンクの紐と封蝋』にしても『日曜日はいつも雨』にしても、家庭は牢獄でしかなく、そこには矢張りヘイマー自身の、家族というものへのイメージが投影されているのだろうが、ここではさらに一歩進んで、主人公は家族(一族)を殲滅しようとするのであり、家庭というものに対する直接攻撃が試みられているわけだ。殺される貴族を、老若男女問わず全員アレック・ギネスが演じているというブラック・ユーモアというか、おふざけにもまた悪意が感じられる。家庭(一族)というものへの悪意ばかりでなく、ここではこれまで抑圧されてきた性的な誘引もまたあからさまにされている。幼友達のガールフレンドと結婚後もずっと性的関係を持ち続けていたことが、さすがに描写はされないが、暗示されているのだ。主人公の、自分が殺した従兄の未亡人への愛は真摯なものとして感じ取れるが、金のために好きでもない男と結婚し、好きな男とは性的関係を維持する幼友達の女の不道徳性は、矢張りイーリングとしてはショッキングなものである(マイケル・バルコンも、大量殺人以上に、この設定を多分に嫌ったという)。観る者は、殺人者である男以上に、この女性の方を憎むことになる(ハスキー・ヴォイスが印象的なジョーン・グリーンウッドが演じている)。
ところでこの映画の主人公は、あるいはヘイマーその人の分身といってよいのかもしれない。実際貴族の称号を得るにふさわしいダンディであり、知力と意志を備えた主人公は、ブルジョアの出ながら、映画界の底辺から立ち上がってきたヘイマーを思わせないでいない。また、主人公の性的な点も含めた反社会性も、ヘイマーと(そのホモセクシャリティを思えば)共通する。何より主人公の自己破壊的な性向、自滅への無意識的欲望(告白録を忘れてくると言う点に現れる)を、ヘイマーも共有していたのではないだろうか。ヘイマーはアルコール中毒であったという。無論それは私生活上の問題(イーリング時代、女優ジョーン・ホルト―イーリングの編集者で後監督のセス・ホルトの妹―と結婚したが、なかなか芽が出ない彼女はヘイマーに嫉妬して喧嘩が絶えず、二人共にアルコールに逃げ場を求めた。また、高い理想に叶わない自身への自責の念があったとも、上記ドレイザンの記事は書いている)もあったろうが、自己破壊的衝動もそこにはあっただろう。ヘイマーは以後の作品にも、自身の分身とおぼしき人物を登場させることになる。