カサヴェテスとフィルム・ノワール
ところでSolomonでは、最後にスタッカートのモノローグで、法は正しいものを守り、悪いものを裁くものと思っていたが、そうとも言えないようだ、と語られる。悪いのは暴力をふるっていた夫の方であり、虐げられ続けて心のバランスを崩した妻を裁くのは、誤りではないのか、というわけだが、「法」というものへの不信、倫理の揺らぎは、フィルム・ノワール的な主題である。これはカサヴェテス演出ではないが、第十話Temptedでは、高価なネックレスを自分のものにしようとするファム・ファタルにスタッカート自身が惑わされてしまう。フィルム・ノワール的な世界にあっては、倫理的な定点は存在せず、主人公自身も揺らぎの中にある。
「ジョニー・スタッカート」では、ギャングなどによる犯罪がないわけではないが、それにしても偽札の原版を巡る事件だったりで(第十八話Night of Jeopardy、これはカサヴェテス演出)、もっぱら事件は身近な世界で起こる。これまで紹介しなかったエピソードでいえば、スタッカートのかつてのガールフレンドが、貧しさから子供をブラック・マーケットに売ろうとするが、後悔して止めようとしてギャングに脅される第三話The Parents、ブロンド美人が次々顔を切られる事件が発生、その犯人は、恋人がハリウッド目指して去った、Waldo'sのバーテン(ディーン・ストックウェルがゲストで演じる)だったという第五話The Nature of the Night、一家ぐるみの友人であるドイツ移民の、悪事に携わっているらしい、思春期の息子を救う第二十三話An Angry Young Man等。悪は必ずしも暗黒街にあるのではなく、街中に遍在する。世界そのものがEvilなのであって、それは教会をも浸食してしまう。そして、そんな世界に生き続けることは、必ずそこに住む者の精神を歪めてしまうだろう。Solomonに見られるように、そんな世界にあって、探偵の役割は、邪悪な世界によって歪んだ者の精神を解放する精神科医のようなものともなる。
本性的にEvilであり、それが人の内面に浸食してくる世界、そこに住み続けることが精神の歪みを惹き起こすような世界。「ジョニー・スタッカート」の世界はそのようなフィルム・ノワール的で不穏なものとして描かれているのだが、実はカサヴェテスの映画世界そのものも、そのような不穏な性格のものではないだろうか。彼が撮った映画作品の中でフィルム・ノワールと見なされるものに『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』がある。ギャングに金を借りてしまったストリップ小屋のオーナーが、彼らに脅されて殺人を犯す羽目になるという物語。そもそも手持ちカメラで、クロース・アップが主体、視野が限られるために全体の状況をよく把握できず、まるで観る者自身もその場にいるかのような印象のカメラワーク。また出来事が唐突に起こり、次にどうなるか予測できない危うさのある展開。世界はザラザラとした手触りの、不可解なものとして提示される。また印象的な場面として、ギャングが彼の店に押しかけ、外の路上に呼び出される場面がある。そこで五、六人のギャングが歩きながら主人公の周囲を取り囲むともなく取り囲み、あっちからこっちから話しかける。主人公は話しかけられた方をその都度向くのだが、誰と話していいか分からない。ギャングたちはその姿をあざ笑う。何か敵対的なものが周囲を取り囲み、その中では方向性を失ってしまうような感覚。世界の中での失調感。カサヴェテスの映画の中では、特にカサヴェテス自身の演技に顕著だが、役者が何か言おうとして言い止めたり、言い淀んだり、どこかへ行こうとして急に方向転換したり、立ち止まったり、急に走りだしたり、という動作が多いように思う。これも世界の中で方向を見失い、身体感覚が失調していることの表れではないかと思う。世界は、そのように人を失調させる。そうした世界に住み続けることで、精神は歪みを抱える。『ハズバンズ』、『こわれゆく女』、『オープニング・ナイト』、『ラブ・ストリームス』といった、精神的な歪みを抱えた登場人物を描くことがカサヴェテスは多いわけだが、それもそうした世界観に起因するだろう。
しかし、カサヴェテス的な登場人物は、決して世界に浸食されたままではいない。『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』では、主人公はストリップ小屋を経営しているが、彼にとってはそこでのショーの演出が生きがいになっている。殺しに行く途中ですら、彼はショーを気にして、店に電話をかけるのだ。カサヴェテス自身インタビューで「彼は仕事によって自分自身を規定している。仕事は食ってゆくための手段以上のもので、彼の全存在だ」と述べている(『ジョン・カサヴェテスは語る』ビターズ・エンド発行)。混沌とした世界に対し、彼は「仕事」によって対抗する。それは心のよりどころであり、それがあるからこそ、Evilな世界の中でも生きてゆくことができる。「仕事」とは、例えば『チャイニーズ・ブッキーを殺した男』におけるショーのような、何か具体的な「作品」でもあるだろうし、またショーの出演者である女たち、ミスター・ソフィスティケーションといった仲間との絆、という精神的なものでもありうるだろう。カサヴェテスの主人公たちは、『ハズバンズ』のように友情によって、『こわれゆく女』のように、パートナーの無限の愛によって、『オープニング・ナイト』のように演劇「作品」によって、『ラブ・ストリームス』のように、姉弟愛によって、世界を生き延びてゆく。
しかしそうしたカサヴェテス的な世界観が、実は既に「ジョニー・スタッカート」にもあったことはこれまでの記述でも明らかだろう。Evilの老牧師にとって、教会は彼のWorkであった。それが悪によって浸食されたとしても、彼はそれをスタッカートの助力によって取り戻してゆく。Solomonにおけるスタッカートは、言葉の劇を通じて女の精神の歪みを明らかにすることで、治癒はしないにしても、解放する。不穏な世界と、それに「仕事」(作品であり、人間的絆)を砦として対抗すること。カサヴェテス的映画世界の原型は既にここにあると言ってよい。
そうしたカサヴェテス的な世界は、カサヴェテス自身の生き方にまで敷衍して語ることが可能だろう。カサヴェテスは、ハリウッドと言う商業主義的な世界の中で、自らのWorkを砦として生き延びた。Workとは無論、彼の映画作品であり、そして妻ジーナ・ローランズ、盟友ピーター・フォーク、ベン・ギャザラ、シーモア・カッセル、アル・ルーバンといった仲間でもあるだろう。こうして見ると、カサヴェテス自身が、「ジョニー・スタッカート」は、金稼ぎのために引き受けた仕事だと言う言明にも関わらず、実際はカサヴェテスの映画世界、ひいてはカサヴェテス自身の人生の中心紋のような作品であるという事ができるのだ。我々は、この「ジョニー・スタッカート」という作品を、カサヴェテス自身の言葉に抗して、カサヴェテスの作品履歴の中にきちんと位置付けていかねばならないと思う。