Evil
カサヴェテスが演出したエピソードは五つ、その最初は第二話のMurder for Creditで、パイロット版をそのまま放映したらしい第一話に続く、実質シリーズ劈頭に当たる第二話を演出しているということは、このシリーズの方針決定にカサヴェテスが大きく関与していることの証左たりうるだろう。先述したように、このエピソードは引退同然だったミュージシャンがカムバックする矢先に殺されるのだが、その犯人が、復帰作の真の作曲者で、曲を奪われた若者であったというもの。カムバックする大物ミュージシャンを、リチャード・フライシャーの『その女を殺せ』の刑事役チャールズ・マッグロー、若者をマーティン・ランドーが演じる。ここではまだ順当に犯罪ドラマを演出しているカサヴェテスだが、その演出二作目に当たる第七話Evilでは、いよいよ演出家として一皮むけることになる。
画面はある男をクロース・アップで捉えている。男は人間社会における邪悪について語っている。邪悪は、あなたたちが見るもの、聞くものからやってくる。しかしその最大の源は、あなたたちの考えの中にある、と。次第にひいてゆくカメラが全景を明らかにする。そこは小さな教会で、演壇に立った男は、聴衆を睨みつけながら、韻文のような調子で、まるで彼らを幻惑しようとするかのように語る。レンガの壁にはいくつもEVILと大書してあり、それにバツ印が付されてある。教会にしては異様な内装である。しかしそれが確かに教会であるのは、その後舞台上のオルガンで、讃美歌が歌われ始めることで分かるのだが、とまれその辺りまでの場面は、男のクロース・アップからカメラが引き、聴衆の上をクレーンで移動しながらの長廻しで撮られている。編集によって場面を短い断片に破砕し、むしろ「意味」を拒絶しているかに見える『アメリカの影』の編集とは真逆に、ここでは、アレクサンダー・スカービー演じる牧師の演技をじっくり捉える演出がなされている。舞台袖から裏路地に出た男は、車に乗り込むのだが、そこには派手に着飾った女がいて、彼女の首筋に男が手を添えるショットでアヴァン・タイトルが終わる。この男は山師なのだ。
その後、姉が全財産を教会に寄付しようとしているので止めてくれと、ミュージシャン仲間に依頼されたスタッカートが、その教会を探しだすのだが、そこに彼を連れてゆくのがイライシャ・クック。彼もまたその教会の信者なのだが、酒への誘惑が立ち切れない。酒場でウィスキーのグラスを前に、魅入られたようにそれを見つめながら言う。ここに邪悪なるものがある、見てろ。と、彼の中での葛藤がその震えに現れている手がグラスをひっつかみ、中身をグッと一息に流し込むと、見たか、悪が俺を打ち負かすのを、と呆けたように呟くのである。行動だけを書くと笑える場面に見えるが、ローキー、クロース・アップで捉えられたイライシャ・クックの顔には、確かに狂気が湛えられている。イライシャ・クックの演技としては、シオドマクの『幻の女』のジャズ・クラブの場面に匹敵しうるように思う。しかしこの作品の白眉の場面はさらにある。スタッカートはイライシャ・クックと共にその教会に行き、偽牧師を告発しながらも、教会の活動を妨害しに来た敵として、信者たちに排除されてまう。しかし彼は、もう一人の牧師に話しかけられる。彼は二十年来その教会の牧師を務めてきたのだが、一向に信者が集まらず、自分に任せれば信者を増やしてやる、という偽牧師の話にうっかり乗ったところ、遂に教会を乗っ取られてしまったのだ。スタッカートは彼に、偽牧師を追い出すべく、信者に真摯に語りかけろと説得する。かくして彼は、偽牧師に妨害されながらも訥々と語り出す。この男が偽物だ、という話をはじめは信じなかった信者たちも、彼の真剣な表情に打たれ、耳を傾け始める。
或る程度の物語はありながら、しかしもっぱら俳優の演技、その感情の表出を最大限引き出すための演出がここでは選択されている。その意味ではEvilは、まぎれもなくその後のカサヴェテス映画の特徴を既にしっかり備えていると言える。ここで老牧師を演じているのはロイド・コリガン。筆者自身あまり知らないのだが、無声映画時代のコメディの脚本家、その後監督もしているが、俳優としてはもっぱら脇役であった人物。画面で見たことがないわけではないようなのだが全く記憶になく、これが彼の最良の演技かどうかを確言できないが、やはりここでの演技が説得的なのは、カサヴェテスの演出故であることは間違いないだろう。また、これが言葉の劇であることも注目すべき点だ。ここで事件を解決に導くのは武力ではなく、言葉なのだ。同じく言葉によって事件が解決に導かれる重要なカサヴェテス演出作品がSolomonだ(他にカサヴェテス演出ではないが、言葉が重要な役割を演じる作品に第二十二話An Act of Terrorがある。ここでは腹話術師の犯行を、スタッカートが人形を尋問することで暴く。人形が、操り手の意思に反して真相を告白するのだ。ちなみにこれを演出したのはジョン・ブラーム。ノワールの名作『戦慄の調べ』の監督)。