海外版DVDを見てみた 第14回 ジョニー・スタッカートを見てみた Text by 吉田広明
「ジョニー・スタッカート」と『アメリカの影』
冒頭で書いたように、カサヴェテスは金のためにこのシリーズ出演を承諾したとされており、カサヴェテス自身がそのように公言してもいるのだが、その実、カサヴェテスの作歴にとって本シリーズは相当重要な位置を占めているのではないかとも思われる。実際カサヴェテスはこのシリーズ出演時、俳優としてこそ、既に三本の映画に出演(ドン・シーゲル監督『暴力の季節』56、これは前年の同題のシドニー・ルメット演出による一時間ものTVドラマの映画化、マーティン・リット監督『暴力波止場』57、ロバート・パリッシュ監督『西部の旅がらす』58)しており、それなりに知名度を得ていたろうけれども、演出家としては、ほんの僅かしか観たものがいなかったインディペンデント映画『アメリカの影』一本を撮っただけの存在に過ぎない。演出家初心者であるにもかかわらず、このシリーズでは五本もの作品を演出しており、なおかつその中には本シリーズの中でも傑作と呼ぶに足る作品も含まれているわけなのだから、カサヴェテスは本シリーズによって、初めて「監督」になったと言って過言ではないのだ。しかも、時間軸の中にきちんと置き直してみると、本シリーズは『アメリカの影』のファースト・ヴァージョンとセカンド・ヴァージョンの中間に位置するのである。すると『アメリカの影』の改変に、本シリーズが影響を与えている可能性すらあることになる。具体的に日時を確認してみる。

カサヴェテスが『アメリカの影』のファースト・ヴァージョンを撮影したのは57年の2月から5月。一年の編集を経て、このヴァージョン(六十分前後)が公開されたのは58年秋、ニューヨークのParis Theaterという劇場で、深夜に三回無料上映されたとされる。観た人がどれだけいたのか分からないが、その中に、この時点ではまだ映画作家ではないジョナス・メカスがいて、作品を絶賛した。カサヴェテスが「ジョニー・スタッカート」の依頼を受けたのはこの直後、ということになる。『アメリカの影』を撮るために肉親たちに借金をし、しかもジーナ・ローランズのおなかの中にはニックがいた。本シリーズのギャラで、カサヴェテスは借金を返し、生活費を得、さらに『アメリカの影』の撮り直しをしたことになる。撮り直しは59年中に行われ、セカンド・ヴァージョン(八十数分)は、59年11月11日、ロバート・フランクとアルフレッド・レスリー演出、ケルアックのシナリオによるPull My Daisyと共に、前衛映画のシネクラブを主催していたエイモス・ヴォーゲルによる「シネマ16」シリーズの、「即興の映画」と題された上映会でプレミア上映された。アメリカのインディ映画のメルクマールとされる出来事であるが、これを観たメカスがセカンド・ヴァージョンを、「悪しきコマーシャル映画」となった、と批判した事は有名だ(ちなみに、無くなったと思われていたファースト・ヴァージョンを、カサヴェテス映画研究家のレイ・カーニーが発見したとされる。古物屋が買い取った、ニューヨークの地下鉄の遺失物の中にShadowsと題された、ファースト・ヴァージョンと思しき映画フィルム缶があり、それがフロリダの保育園の屋根裏部屋に実際にあったという。そのヴァージョンは68分とされるが、見比べたカーニーによれば「二つのヴァージョンはそれぞれ十分に違ったもので、場面も、セッティングも、強調されるところも違うので、二つの異なる映画と見なすだけの価値がある」という。ジーナ・ローランズは、このヴァージョンを上映、販売することを禁じている。詳細についてはレイ・カーニーのページを参照。

 我々には二つのヴァージョンを比べてみることが許されないので、どう変わったものになったのかは確言しようがない。しかしセカンド・ヴァージョンを手伝った、元野球選手で、その後カサヴェテスの右腕として、製作、撮影に携わることになってゆくアル・ルーバンによれば、物語に穴があるので埋めるのを手伝ってほしいとカサヴェテスに言われた、としている(Tom CharityのJohn Cassavetes ; lifeworks、27ページ)。セカンド・ヴァージョンの三分の二は撮り直しによるものということだから、大雑把に言って、ファースト・ヴァージョンの素材は二十数分しか使われていないことになる。新たに撮られた部分は、長男のフィラデルフィア巡業部分、次男たちのMOMAの彫刻をからかう場面、エンディング、レリアとトニーのロマンスの大部分(同上)。ともあれファースト・ヴァージョンの、即興で、役者の生な感情表現を重視した演出に対し、それを物語の中にちゃんと着地させようとしたのではないかと思うのだが、にしても、カサヴェテスの、そしてインディペンデント映画の本領は、物語らしい物語をきっちり構築せず、生々しい感情をリアルに、ヴィヴィッドに捉えることにあることは間違いなく、例え改変されたとしても、その基本は変わっていないとは思う。にしても、メカスが批判するにはそれなりのことがあったのではあろうし、それが矢張りハリウッド流の物の作り方をカサヴェテスが学んだ成果であったと考えるのはあながち間違いとも言えないように思うのだ。実際、これから記述する、「ジョニー・スタッカート」におけるカサヴェテス演出の最良の部分は、ある程度の物語の枠を踏まえつつ、その中におかれた人物の感情表出にある。