時代背景
「ジョニー・スタッカート」の時代背景を示すエピソードにも触れておこう。第十一話The Poet's Touchではビートニクの詩人が主人公。彼は不良中年二人と酔っぱらい、彼らが因縁をつけて人を殴り殺すのを目撃、それを警察にたれ込まれるのを恐れた二人に監禁される。彼の女友達が失踪した彼に向けて前衛詩誌に載せた広告に不審を抱いた編集者が、友人であるスタッカートに依頼。女友達を『アメリカの影』のレリア・ゴルドーニが演じる。カフェでジャスの演奏を背景に、ポエトリー・リーディングしている模様が映し出される。ビートニクは、56年にギンズバーグの『吠える』、57年にケルアックの『路上』、59年にバローズの『裸のランチ』が出版、という具合に、五十年代後半に運動として盛り上がり、本シリーズの放映当時最盛期と言っていいだろう。ただ、ここではただの背景にすぎず、若者の風俗の戯画的な描写にとどまるが。
朝鮮戦争の余波が残る時代でもある。第十三話The Returnでは、朝鮮戦争の受勲者が、妻が自分を裏切っているという妄想に駆られ、精神病院に入っているのだが、抜け出して妻を殺そうとする。スタッカートは自身の従軍経験を引き合いに出しながら彼を説得する。アジアの見慣れぬ自然の中、どこに危険がはらまれているか分からないという、優れた兵士であれば一層強く感じられるパラノイア的な不安。戦争後の疲弊感が、映画の世界の中で陰鬱な世界観として表出される顕著な例が、第二次世界大戦後のフィルム・ノワールであるのだが、同様のことがここでも起こっていると言える。なおかつ膠着状態のままで出口が見えなくなっていた朝鮮戦争では、その陰鬱さは一層濃いものとなっている。さらに冷戦状況においては、自分の内側にも敵を見るパラノイア的な世界観が、兵士ばかりにとどまらず一般化する。第二十五話のA little nice townでは、郊外の町に住む友人女性がスタッカートに助けを求めてくる。その兄が、共産スパイと疑われ、覆面の二人組に殴り殺されたのだ。町に入るや否や、スタッカートは町の人間の敵意を感じ取る。地元警察は積極的に捜査をしようとせず、町の大物も、殺された男が共産主義シンパだったとして、殺されて当然、という態度。そのうち妹が例の二人組に襲われて殴り殺される事件が起きる。まだ邸内にいた犯人と格闘になるスタッカートを、町の人間は手をこまねいて見ているだけだ。スタッカートは妹の死体を腕に抱きながら、これはお前たち町の人間全員の責任だ、と声を荒げて非難する。このエピソードを演出したのはポール・ヘンリード。役者としては『カサブランカ』の、イングリッド・バーグマンの活動家の夫役が有名。彼もまた実は赤狩りでブラックリストに載り、俳優としての道を断たれており、そのため演出に転身していた。エピソードの内容そのものもそうだが、その外側にも、赤狩りの徴があるわけだ。実のところ、このエピソードが放映された60年は、ドルトン・トランボがオットー・プレミンジャー監督『栄光への脱出』で実名クレジットされ、ブラックリスト体制に風穴があいた年でもあり、赤狩りは終止に向かっていた年ではあるのだが、社会風潮としてまだまだ反共パラノイアは蔓延していた。ちなみに中国共産党によって洗脳され、アメリカ社会に入り込まされた暗殺者を描いたジョン・フランケンハイマー監督の『姿なき狙撃者』は62年。ついでに言うと、続く二十六話Swinging Long Hairは、東から亡命してきたクラシックのピアニストがWaldo'sに雇われるが、東の暗殺者によって狙われる話である。