海外版DVDを見てみた 第11回 ジョン・ボールティングの『ブライトン・ロック』を見てみた Text by 吉田広明
アイダ

ピンキーとローズ
『ブライトン・ロック』承前
さて、ピンキーたちの犯罪が、次第にアイダの眼に明らかになってくる。アイダは遂に、事件の鍵を握っているらしいローズの前にも姿を現す。原作ではアイダはただのお人よしの中年女、ということらしいのだが、映画で見る限りはその体格の良さ、ずうずうしくさえ見える押し出しから、彼女に攻め立てられるローズの方が哀れにさえ見えてくる。確かにアイダは正義ではあるのだが、意地悪、というかいっそ邪悪にすら見えるのだ。このアイロニカルな造形も、いかにもフィルム・ノワール的と言えるだろう。かつ、ピンキーとローズが海岸のベンチに座っていると、野外の舞台の上にアイダがいて歌っていたり、ホテルに二人が入ってゆくと、そのロビーにいたり、と、この女はどこにでも偏在するのではないか、とすら思え、ほとんど不気味な印象を受ける。確かに彼女は「正義」の象徴であって、主人公たちの罪悪感が消えない限り、どこにでも現れるのだろう。とはいえ、「正義」が、こんな中年女に象徴された例は、映画史上でも稀だろう。

アイダの存在に自身の安全を脅かされたピンキーは、ローズと結婚することでローズの口を封じようとする。グリーンのカトリシズムが関わってくるのは恐らくここで、カトリック教徒は離婚が禁じられているので、婚姻は一生彼を縛り付けることになるはずのものである。その重荷。チンピラとはいえ、また、方便とはいえ、宗教的規制が彼の罪悪感をいよいよ重くするのだ。とはいえ、ピンキーの心にも、ローズへの一片の愛情が生まれ始めているのも事実であり、それはローズがあまりにも、というか愚かなまでに純真であるからで、そこにピンキーの葛藤も生じる。結婚したその日、ローズは、街角の録音機(声を録音し、レコードにすることができる機械)で、あなたの声を録音してほしい、という。再生機もないのにそんなことしてどうする、というピンキーに、それでも、と重ねてローズは願う。ピンキーは仕方ねえな、とマイクに向かい、思わず心情を吐露する。「おまえは俺に、愛している、と言ってもらいたいんだろう。ああ、俺はお前を愛してる。って畜生め、この売女、どうしてお前は俺をほっといてくれねえんだ…」。

彼のいら立ちは、こんな小娘(といっても自分も小僧なのだが)と結婚する事態にまで追い詰められたことに直接は起因するが、カトリックの規範の心への重み、また何より、ローズへの愛情にもあるだろう。しかし、そうした真情は、彼のエゴイズムによってあっさり捨てさられる。実際彼は、自分の身が危うくなれば、身内でも簡単に殺すのだ。アイダがローズに迫り、事態が発覚しようとする時、ピンキーは、ローズにその顔を覚えられている仲間の一人を殺すことにする。狭いアパートの一棟を彼らはねぐらにしているのだが、その最上階の手すりが折れて今にも崩れそうになっている。それを利用してピンキーは事故に見せかけてその男を殺すのだが、この場面は、本作の中でも視覚的な達成度が最も高い場面である。

手すりの具合を確認したピンキーがその男のいる部屋に入ってゆくと、カメラは手すりを階段の方に回り込み、数歩下がって手すりをじっと見据える。その間、猫なで声でこれから殺そうとする男に話しかけるピンキーの声がオフで聞こえる。ピンキーは男を脅し、部屋の外へとおびき出し、ゆっくりと後ずさらせる。カメラは今にも折れそうな手すりと、そこに近づく男を同じ画面に捉える、と、いきなりピンキーが男を突き飛ばし、落下した男の体が階下の床に叩きつけられる。階上で落ちてゆく男の顔と、階下で床に叩きつけられる男の顔の素早いモンタージュ。男の体が階下のガス灯を掠めたため、その笠が落ち、また強くなった炎がゴーという轟音を発し、その音も暴力的な印象を強める。そして階上で下を見下ろすピンキーを改めて捉えるショットは極端な仰角、しかもピンキーから素早くパンした画面が天窓を捉えるのだが、その天窓は鏡となり、そこに階下の男の死体がくっきりと映り込むのである。

考えてみればローズを殺してしまえば、仲間を殺す必要はないのであり、ローズよりは仲間を殺すことを選択した、という中に、ピンキーのローズへの愛を確認はできるのだが、しかしいよいよ本当に自分の身が危うくなると、ピンキーはローズをさえ犠牲にすることになる。一緒に死のう、とローズを説得し、雨の降るブライトンの海岸の桟橋へ。しかしここでもカトリックが絡んでくるのは、カトリックでは自殺を禁じているので、ローズはピンキーのため、といいながらも、自殺をためらうのだ。アイダはピンキーがしようとしていることを悟り、またローズに親しみを覚え始めていたピンキーの一の子分もローズの身を案じ、警察と共に彼らを捜索。見つかって追い詰められたピンキーは、足をもつれさせて桟橋から落下して死ぬ。その後、ローズは修道院に入る。そこでピンキーは自分を利用しようとしたのではなく、本当に愛してくれていたのだ、と修道女に語る。その証拠に、と、彼女はレコードをかける。そのレコードは、これが証拠になる、とピンキーが破壊しようとしたせいでねじ曲がり、あるところまでしか再生しないのだった(それがどこまでかは、上記のピンキーの台詞で分かるだろう)。

原作では、レコードは無傷のまま残されることになっている。原作のラストの方がより残酷であることは言を俟たない。映画ではローズは、ピンキーは本当に自分を愛してくれていた、という幻想(とも言い切れないが)に浸る余地があるわけだから。しかも原作の方では、ローズは妊娠していることになっている。このレコードのラストを考えたのは、シナリオ第一項のラティガンで、グリーン自身はそれに不満を持っていたという。確かに原作通りの終わり方の方がペシミスティックで、フィルム・ノワールにはふさわしいかもしれない。