ブライトン・ロック
ボールティング兄弟のピークは四十年代と六十年代初頭前後にあるが、そのどちらにあっても、社会派としての批判精神こそ彼らの特徴ではあるだろう。その点この『ブライトン・ロック』はそういった視点が感じられず、むしろ彼らにとっては例外的な作品なのかもしれない。社会派の映画作家はおおむねそういうものだが、批判はしつつも、人間や社会に対する温かい信頼を失うことなく、従って見た後の印象も明るいものなのだが、本作はグレアム・グリーンのカトリック的ペシミズムのせいなのか、いかにもフィルム・ノワール的に陰鬱なものだ。もともと本作はボールティング兄弟の企画ではなく、テレンス・ラティガンがシナリオを書き、アンソニー・アスキスが監督するはずのものだった(ラティガンとアスキスは十本の映画を共に作っている盟友)。ラティガンはグリーンのカトリシズムに手を焼き、大蔵省の高級官僚の子息であるアスキスは場末の暴力的な世界を描くには不向き、とあって、ボールティング兄弟がその企画を買い取ることになる。その時の条件がラティガンのシナリオを使う、ということで名前は残っているが、ボールティング兄弟は原作者グレアム・グリーン本人をシナリオに招き、大幅に改稿して撮影に入った。
主人公はギャングの首領ピンキー(リチャード・アッテンボロー)。弱冠十七歳でギャングの首領。十七歳という年齢に特有の傲慢さと、それと裏腹の脆さを漂わせている。彼らのグループは、自分たちに不利な情報を持ったジャーナリストを殺さねばならない、というところから話は始まる。そしてそのジャーナリストは、ある仕事を持って、主人公たちギャングの根城であるブライトンにやってくる。新聞の目玉企画で、「コリー・キバー氏」を演じるのだ。つまり、あらかじめ横顔写真を載せて、この人がコリー・キバー氏と告げておき、キバー氏を演じる人物は街中に「私がコリー・キバー」と書いた紙を置いてゆく。その紙持参で、キバー氏に面と向かって、「あなたはコリー・キバー氏ですね」といった人物に大金が授与されるというもの。ピンキーらは、これを利用してアリバイ作りをしようとする。つまり、殺しておいた後、仲間の誰かが身代わりに「コリー・キバー」の紙を置き、その時間帯にまだその記者が生きていたことにすればいいわけだ。しかし二人の女がその障碍となる。一人は歌手のアイダで、殺されないように常に誰かと一緒にいようと必死な記者が彼女に声をかける。彼女と一緒に、お化け屋敷の中を走るジェットコースターに乗ろうとしたことろ、アイダがちょっと用足しに、とほんの少しその場を離れた瞬間に、ピンキーが記者の横に座り、ジェットコースターが走り出す。叫び声と、飛び出すお化けたちの狂奔するイメージの中、記者はピンキーに襲われ、ジェットコースターから突き落とされる。ジェットコースターがお化け屋敷から出てきたときに、記者はおらず、ピンキー一人が下りてくる。その傍らに、あの人はどこへ、ときょろきょろしているアイダの姿がある。その後記者の死を知り、彼が何かに脅えている様子に不審を覚えた彼女は事態の解明に乗り出す。この物語では、彼女が探偵役になるわけだ。
もう一人の障碍は、仲間の一人が、記者の死後カードを置いたカフェのメイド、ローズだ。カフェでは客の顔を覚えている可能性が高く、カードを置いて行った人物が、本物のコリー・キバーではないことがバレ、アリバイが成立しない可能性がある。ピンキーはカードを取り戻すべくカフェに行くが既に遅く、カードは既にそのテーブル担当のメイドが拾ってしまっていた。しかも彼女は、カードを置いて行った人物が、新聞で見たコリー・キバーではないことにも気が付き、不審を抱いていた。ピンキーは彼女が真実に気付かぬよう彼女の気をそらし、また監視するため、彼女に言い寄る。純真というか、画面で見る印象では少し頭が弱そうなローズは、ことによると自分を殺しかねないピンキーに素朴な信頼と愛情を見せ始める。
本作のフィルム・ノワールとしての面目が、ピンキーという少年の、ニューロティックな造形にあることは疑いない。リチャード・アッテンボローはさすがに十七歳には見えないのだが、常に剃刀と硫酸を持ち歩いているというチンピラの、感情を押し殺したような無表情ながら、いつキレるか分からない不気味さを、その爬虫類のような顔に湛えている。彼が初めて画面に現れる場面でピンキーは綾取りをしている(その場面は主観ショットで、彼の見た目になっており、綾取りの紐が画面の下半分を占めることになる)。その後も何かイラついている時、焦った時に彼は、綾取りの紐を取りだし、必死に手繰り始める。また、手持無沙汰な時彼は、射的で獲った人形の髪の毛をむしり取ったりもしている。しかも丁寧に一本づつ。ざっと原作を見る限りこれらの細部は映画独自のもののようだが、ピンキーの性格の歪みをうかがわせる巧みな細部といえるだろう。また、この映画は実際ブライトンでロケされており、特に記者が街中を逃げ回る場面などでは、カメラが街路や商店街、路面電車をドキュメンタリー的にとらえている。フィルム・ノワールにも、ドキュメンタリー的な側面を持つものがあり、本作はその一例とも言えるし、そもそもイギリスにはドキュメンタリーの伝統があるので、その影響もあるだろう。