再編曲版「ポーギーとベス」
そろそろプレヴィンの話に戻る。実は現在そう簡単には、アンドレ・プレヴィンの評価を高めた映画『ポーギーとベス』の映画音楽を聴くことが出来ない。サミュエル・ゴールドウィンとガーシュイン一族との間で何か契約トラブルがあった(或いは最初からそういう契約だったのかも)関係で、きちんとした盤のサントラは少なくとも現在は出ていないからだ(昔レコードでは出たことがある)。映画のDVD、ビデオもない。かくいう私自身も中学生時代にテレビで見ただけだ。いずれにせよプレヴィンはオペラ盤「ポーギーとベス」を指揮したことはない。オペラ盤の話も今回の原稿主題と直接関係はないので触れない。
しかしプレヴィンは「ポーギーとベス」をクラシックのジャンルでもちゃんと録音している。代表的なのはアルバム「ガーシュイン:ラプソディー・イン・ブルー、パリのアメリカ人、他」“Gershwin Rhapsody in Blue/Andre Previn”(東芝EMI)に収録された「交響詩“ポーギーとベス”~交響的絵画」“Porgy and Bess-A Symphonic Pucture”。「詩か絵かどっちやねん」と誰もが突っこまずにはいられないであろうが、英語で読めば一目瞭然であるから以後突っこまないように。でも実は「交響詩」という言葉はクラシック音楽の世界には元からあって、単純化して言えば楽章分けしない短めの組曲を概ねこう名づけることになっている。ここでは原オペラから八曲を抜粋して構成しているが、編曲は作曲者ではなくロバート・ラッセル・ベネットによる。おなじみの「サマータイム」他「ベス・ユー・イズ・マイ・ウーマン・ナウ」「イット・エイント・ネセセリリー・ソー」等から成る。
大指揮者フリッツ・ライナーの委嘱を受けて編曲、初演は42年2月5日、ピッツバーグ交響楽団の定期演奏会で披露されたものであったが、好評により以後も繰り返し演奏されることになった。何ゆえここに突然フリッツ・ライナーの名前が登場するのか、と疑問が湧くところだ。ブダペスト生まれのハンガリー人ライナーは当時ピッツバーグ響を拠点に活躍中で、以後はメトロポリタン歌劇場、シカゴ響へ移り、名声をさらに高めた。代表的なアルバムとしてバルトーク作曲でシカゴ響を振った「管弦楽のための協奏曲」“Concerto for Orchestra”(Victor)を挙げておく。
で、その答えというかヒントとして、やはりここにバルトークの名前が浮上するのである。ライナーは同国人としてバルトークに親近感を抱き、22年という比較的早い時期に渡米、以後アメリカに留まったものの、彼の最大のレパートリーは当然バルトークであり、「舞踊組曲」「中国の不思議な役人」等五つの管弦楽曲のアメリカ初演を実現させている。しかし時代はバルトークのようなヨーロッパにおける「現代的な民族主義者」には厳しいものになりつつあった。原因はナチスの台頭である。ヒトラー政権の影響力が全欧的に及ぶ中バルトークはアメリカ亡命を余儀なくされ、40年10月にニューヨークに到着、齢六十になろうという老年での新天地である。ヨーロッパでは音楽家として高名だった彼も、クラシック音楽的には野蛮国家と言わざるを得ない当時のアメリカでは中々仕事に恵まれず、ほとんど作品を発表する機会を得られない。そんな43年、ボストン響の常任指揮者セルゲイ・クセヴィツキーから「1944年生誕70年とボストン響常任指揮者就任20周年」を記念した祝いのために作曲を依頼されるのである。こうして完成したのが既述「管弦楽のための協奏曲」であったが、この委嘱活動の裏にいたのがライナーだったらしいのだ。結局これがバルトーク最後の大曲となり、彼は45年に世を去ることになる。初演は44年、そして初録音はライナーとピッツバーグ響による46年であった。