海外版DVDを見てみた 第5回『メイズルズ兄弟を見てみた』 Text by 吉田広明
『グレイ・ガーデンズ』のDVD
『グレイ・ガーデンズ』二部作
メイズルズ兄弟は、トルーマン・カポーティやマーロン・ブランド、小澤征爾やウラジーミル・ホロヴィッツ、そしてとりわけ美術家のクリストを撮った一連の作品など、著名人を扱ったドキュメンタリーを多く撮っていることで知られているが、一方で『セールスマン』のような無名の人々も(数は少ないが)撮っている。その点『グレイ・ガーデンズ』Grey Gardens(75)の主人公たちは、忘れ去られてしまっていたという意味で無名であると同時に、その実アメリカでもっとも有名なセレブリティ一族の一員であるという意味で有名でもあって、従ってこの作品はメイズルズ兄弟の仕事の全領域をカバーするような作品ということになり、実際彼らの代表作となっている。

ブライスによるリトル・エディ人形
この映画の主人公は、イーディス・エウィング・ブーヴィエ・ビールとその娘イーディス・ブーヴィエ・ビール。どちらもイーディスなので、母がビッグ・エディ、娘がリトル・エディと呼ばれている。映画は、ニューヨークの北東、ロング・アイランド島イースト・ハンプトンの「グレイ・ガーデンズ」と呼ばれる屋敷と、そこでの彼女たちの暮らしを描く。イースト・ハンプトンは国内有数の避暑地で、かつては優雅であった御屋敷も、今ではうっそうとした木の茂みに覆われ、数十匹の猫と、壁の穴から入り込んで餌をあさるアライグマの棲家になっている。あまりの悪臭に近所から苦情が来て、市の衛生局が立ち入り調査したところ、膨大な量のキャット・フードの空き缶が積み上がり、天井が抜け雨漏りがし、床も腐って足元も危うく、しかも電気も通っておらず真っ暗。水も止められているので、まともに人が住める状態ではなかった。衛生局は、改善しない限り居住不可の命令を出す。社会からドロップ・アウトしてしまった人の住まいがゴミ屋敷、ネコ屋敷になる例は珍しくはないとしても、この「グレイ・ガーデンズ」が有名になったのは、そこに住んでいたエディ母娘があのジャクリーン・ケネディ・オナシスの実家ブーヴィエ家の人間だったからだ。ビッグ・エディはジャクリーンの叔母、リトル・エディはジャクリーンの従妹にあたる。ジャクリーンの親戚がゴミ屋敷に住んでいる、と新聞、雑誌で記事になり、たまたまその時、ジャクリーンの妹、リー・ラズィウィルの誘いで、ジャクリーンの幼少期を映画にしようとしていたメイズルズ兄弟はそれを読み、リーに頼んでエディ母娘に会ってみるのだが、二人の個性に惹かれて、彼女らを対象にドキュメンタリー映画を撮ることに決める。

ジャクリーンが手を差し伸べ、ともあれ人の住めるように補修工事が行われ、居住禁止命令は撤回されたものの、ネコ屋敷には変わりなく、ノミの跳ねまわる建物で、メイズルズ兄弟は二人きりで撮影を進める。生活能力がないのでゴミ屋敷にはなったものの、彼女たちはそれぞれ歌手、女優になりたいという夢があり(実際母親はパーティなどで歌を披露し、娘はフレッド・アステアの舞台を製作したマックス・ゴードンのオーディションを受けることになっていた)、その夢を見続けているのであった。気位が高くて誰に対して援助を申し出ることもなかったということだが、一方夢の世界の中に住んでいたのでもあって、現実世界とはそもそも隔絶していた。実際、二人は古いレコードをかけては歌を歌い、踊って見せる。またリトル・エディはありあわせのもので独自なファッションを築き上げてもいた(最も有名なのがスカートの逆履きで、その意表を突くセンスは、実際にデザイナーが真似てもいる。また脱毛症で髪の毛がなかったので、常にスカーフやらカーディガンを頭に巻き、特徴のあるブローチで留めているのがトレードマーク)。この作品によって母娘は一挙に有名になるが、世間の反応の中には、ただ驚くべき事実の衝撃ばかりでなく、二人が独特な世界観やセンスを、この暮らしの中でも維持してきたことへの驚きと、ある種の敬意もあるだろう。とりわけリトル・エディの生き方は、独自なセンスを持ち、世間にどう思われようが、それを貫き通す者に対して敬意を払うゲイの世界で、高い評価を受けたという。

しかし映画は二人の間にある確執も映し出す。ビッグ・エディは身勝手な振る舞いで夫と離婚、リトル・エディが嫌がるのに、レッスンの相手と称して、音楽家を常に傍においていた(愛人のように思えるが、この男はゲイだったという話もある)。また、女優になりたかったので、ニューヨークに住みたがっていたリトル・エディを「グレイ・ガーデンズ」に無理やり引きとめたのもビッグ・エディだったという。またビッグ・エディはリトル・エディが結婚してもいいと思った男性たちをことごとく気に入らず、遂に彼女を手放さなかった。映画の中でリトル・エディは、ロバート・フロストの詩を暗唱してみせる。「黄色い森の中で二つに道が分かれていた。私は人の通っていない方を選んだが、それがどんな違いを生んだことか」。「人の通っていない道を選ぶ」ことは、前人未到の道を行くという勇気の表現、というのが普通の解釈らしいのだが、自分が夢の実現を諦め、世間と関わりを断って、母との暮らしを選んだことへの後悔を表現しているようにも見える。

ビール母娘
この映画によって二人は有名になるものの、ビッグ・エディはまもなく(77年)死去、その二年後にリトル・エディは、建物を保存する約束でグレイ・ガーデンズを売却、ヴィレッジ・ガーデンでステージに立ったりした後、フロリダに移り住み、そこで02年に死去する。二人の、悲惨であると同時に優雅な、そしてやはり途轍もなくエキセントリックな生涯はフィクション作品にもなり、06年はミュージカル化、09年はTVドラマ化(これはWOWOWで『グレイ・ガーデンズ 追憶の館』として放映、ビッグ・エディをジェシカ・ラング、リトル・エディをドリュー・バリモアが演じているが、二人とも本当に特徴を捉えており、よく似ている)、また日本でも舞台になっている(それぞれ草笛光子、大竹しのぶ)。さらに、デイヴィッドの死後、残ったフッテージを使って『グレイ・ガーデンズのビール母娘』The Beales of Grey Gardens(06)が作られている。母娘の関係に力点が置かれていた前作に対し、リトル・エディの哲学やファッションが中心的に描かれていて、肯定的で明るい印象の作品になっている。前作でも二人ともカメラを持つアルバートや、マイクを持つデイヴィッドに直接話しかけたりしていたが、本作ではリトル・エディが、「誰にしようかな、神様の言う通り」とアルバートとデイヴィッドを指さし、疑似恋愛、疑似三角関係を楽しんでいるかのようなところもある。また、家がボヤになり、デイヴィッドがマイクをほったらかして水を掛ける場面もあり、被写体であるエディ母娘と二人の映画作家の間の交流が直接的に画面に現れてもいる。

『グレイ・ガーデンズ』予告編