ドキュメンタリーへの転向と『悲しみと哀れみ』
マルセルはその後TVでドキュメンタリーを撮ることになる。ヒトラーへの融和政策として、チェコのズデーテン地方のドイツ割譲を認め、ナチスを勢いづかせたことで悪名高いミュンヘン会議を取り上げた『ミュンヘン、あるいは百年の平和』Munich ou la paix pour cent ans(67)がその第一作。当時の映像資料と当事者のインタビューによってある出来事を浮き上がらせるという手法、第二次大戦の時代背景という題材の選び方において、その後マルセルが撮ることになるドキュメンタリーの嚆矢となる。同じTVシリーズで、マルセルの次回作として構想されたのが『悲しみと哀れみ』であった。
しかし、製作母体のTV局が国営で、68年の五月革命で報道規制をしたため、マルセルらスタッフはそれに抗議し、そのTVシリーズを降りる。その後彼らは、スイスやドイツのTV局の出資を受け、69年にこの作品を完成させるものの、その内容に恐れをなしたフランスのTV局はどこも放映を拒否する(スイスとドイツでは放映)。その事態を知ったトリュフォーが、パリ左岸で名画座を経営する人物に話をつけ、二日ほどの限定的なものではあるが、公開を実現した。初日、朝の回にはまばらな人数しか訪れず、落胆したマルセルが、三時間ほどして映画館を出てくると、午後の回を見ようと行列する人で黒山の人だかりだった。その瞬間をマルセルは、「私の生涯の最良の瞬間の一つ」(アメリカのインディペンデント系映画の配給、DVD販売業者Milestone Filmsのプレス資料)と述べている。
『悲しみと哀れみ』は、「ドイツ占領下のある町のクロニクル」と副題されているが、その町とは、中仏クレルモン=フェラン。政府のあったヴィシーの直ぐ南。ヴィシー政府の首相で、親独派だったピエール・レヴィの地元であり、また一方で仏におけるレジスタンス運動の発祥の地でもある。映画は、この地に駐留したドイツ兵、この町の薬屋、教師、レジスタンスに参加した農民、フランスに潜入したイギリスのエージェント、クレルモン=フェランの獄中から逃亡し、ロンドンの自由フランス政府に加わり、戦後首相になったメンデス=フランス、元ファシストの貴族など様々な人物へのインタビューと、当時のニュース映像をモンタージュしながら、当時のフランス人の心性を次第に浮き彫りにする。
降伏当時はドイツを恐れていた民衆も、次第にドイツ兵があえて危害を加えようとするものではないことを知り、安堵する。次第に日常生活が取り戻され、厭戦気分が反転、競馬や演劇などにパリは浮かれ騒ぐことになる(トリュフォーの『終電車』は、占領下パリの演劇界を題材にする)。またドイツ軍の規律正しさに感銘を受け、ドイツ軍に加わろうとするものも現れる。そうした、対ドイツの緊張の緩みが自国内の反体制派への締め付けにつながり、ヴィシー政府は、アフリカ経由でロンドンの自由フランスに加わろうとしたメンデス=フランスらを脱走の罪で告訴投獄する。ド=ゴールの自由フランスは、連合国の承認を得ているとはいえ、この時点では弱小組織に過ぎない。こんなものがフランスの役に立つと信じていた人は当時ほとんどいなかったのだ。
また、国内に根強く残っていた反ユダヤ感情がドイツ占領下で再び勃興し、ヴィシー政府はユダヤ人迫害法を制定するまでに至る。ニュース映像では、ユダヤ人の見分け方を展示する博覧会会場の模様を伝えている。ドイツ占領下でも、このような政令が出された国はフランス以外には存在しない。フランスは、連合国の中で自ら進んでユダヤ狩りを行った唯一の国なのだ。映画の中では、「自分はユダヤ人ではありません」と新聞広告を出した衣料店主がインタビューに応じている。また、ラヴァル首相の義理の息子が、「他国のユダヤ人の生存率が6パーセントなのに、フランスのユダヤ人の死亡率が6パーセント」と証言するのに、すかさずカットバックで、「フランスの市民権を持たない、あるいは奪われたユダヤ人の生存率は6パーセント程度」とユダヤ人レジスタンスの証言が重ねられる。さらにラヴァルの義理の息子は「当時は難しい状況で、多数を救うか、少数を救うかの選択だったのだ」と苦しい弁明をするのだが、まるで二人が直接対話、というか論争しているかのような一連の場面は、マルセル・オフュルスの映画術の典型だ。マルセル自身は客観性、中立性を装うことは一切しない。この場面にも強烈なアイロニーが漂っている。フランス人は、いやいやドイツ人に従っていたわけではない。自ら進んで協力していた者もいたのだし、またそれを見て見ぬふりをしていたものも多かったのだ。