『これが君の人生』主人公の少年エディ・アクスバーグ
『これが君の人生』蓄材場
『これが君の人生』レンガ工場
『これが君の人生』ラスト・ショット
『これが君の人生』
『これが君の人生』Here is your life(66)は166分。トロエルにとって初の長編でこの長尺は冒険のようにも思われるが、当時スウェーデン映画協会が設立されたばかり(63年)で、興収から5パーセントを徴収、映画製作の援助に充てるという制度ができ、トロエルはその援助を受けているのでこのような冒険も可能だったようである。映画は1910年代、家を出て働きに出た少年が、職を転々としながら成長してゆく姿を捉えたビルドゥングス・ロマンだと言えば内容自体の紹介は事足りる。少年の職業(職場)は、下流に流す材木の畜材場、レンガ工場、映画館でのキャンディ売り、巡業映写技師、射的場の雑用、汽車の操車場での洗車係、再び映画館と転々と変わり、その合間合間、映画館で働いている間に知り合った少女に自転車の乗り方を教えたり、巡業中泊めてもらっていた農家の少女と初体験をしたり、射的場の経営者の女性の愛人になったりと、性的経験を重ねてゆく様を織り込みながら、ラスト、真冬の鉄路上をどこへ向かってか歩いてゆく姿で終わる。
冒頭、家を出る少年を母親らしい女性が、いつでも帰っておいで、というようなことを言いながら心配そうについてくる。少年は汽車に乗り(車窓から見える森がカラーになり―この映画はモノクロ作品だ―飛ぶ鳥の姿が青く着色されて浮き上がる)、親戚らしい家に行くのだが、そこには瀕死の老人がいる。その後彼は最初の職場である蓄材場に行くのだが、この時点で見る者は、彼が実家を出て親戚の家に挨拶しているものと思うのだが、資料を読んでみると最初の女性が育ての親であり、親戚と思っていた家が彼の実家、貧しさ故彼が里子に出されていたということらしく、筆者自身この設定を、資料を読むまで気が付かなかった。実際に発話されている会話を理解できるネイティヴだと違うのかもしれないが、ことほど左様に台詞、編集が省略的である。蓄材場の上司が水上の木材を渡り歩いている映像が二重写しになり、材木を動かすためのダイナマイトの爆発で水しぶきが立っている映像がさらにそこに重なる。これが上司の事故死を示唆するものだったと気づくまでにも時間がかかる(無論、葬儀等の場面はない)。その後主人公はレンガ工場に移るのだが、そのレンガ工場の煙突は畜材場から遠く森の中に見えていたものだが、その関連も不明だ。
そのレンガ工場で少年は窓辺で死んでいる蝶を発見、それを指に挟んでトロッコに乗り、手を宙にかざして蝶が飛んでいるかのようにして遊ぶ。この蝶はトロエルが撮影の現場で発見、この場面を即興的に作ったとのことだが、他にも主人公たちを捉えていたカメラが被写体を離れ、窓辺の虫や屋根に飛んで上がる鳥などを捉えることも多い。これはトロエル自身がカメラを握って撮影も担当しているから起こることで、彼がアメリカ資本で撮った作品を除いてほぼ全ての作品で撮影も担当するのは、撮らねばならない場面を確かに撮りはするも、自分の関心に入ってくるものを捉えたいという欲求故である(『マリア・ラーション』の中で、アマチュア・カメラマンの主人公は「人は見たいものを見る」と言う。また同作で、窓辺の蝶は重要な役割を果たす)。本作は少年の成長を淡々と描く叙事的作品と言えるが、上記の場面のような詩情に満ちた場面もあり、他にも例えば、畜材場の上司が語る過去のフラッシュ・バックがある。自分には双子の子があったのだと彼が語り出すと画面はカラーになり、井戸に水を汲みにゆく女性の姿が映る。カット代わって、先ほどの普段着と違って白いドレスになった彼女が草叢にいて、その背後に双子の子供がおり、しかし彼らの姿は霧に紛れてよく見えない。再びカット代わると今度はハンモックに寝て、蓄音機にかかる音楽を聴いている男。彼が語り手の夫なのか。女が室内で鍋敷きのようなものを指で蓄音機のレコード盤のように回しているのが映る。これら一連のカラー(といっても全体に白っぽいのだが)は、脈絡、つかみどころがない印象で、夢の論理、心的論理によって構成されたように見える。詩情があるといっても、失われたものへのノスタルジアといった分かりやすい落としどころに落ちていないところがむしろ好感が持てる。トロエルの作品は基本的に叙事詩的であり、確かに詩情もあるとしても、ごく淡いものだ。その点詩情豊かで、時にそれが神秘に傾くベルイマンとは資質的に全く異なる作家であるようだ。
社会性
主人公は本を読む人物として描かれている。当時の労働者階級の識字率、読書率がどのようなものだったのか分からないが、暗闇の中、懐中電灯で照らしてまで本を読む少年に同僚が、そんなもの何の役に立つのか、社会主義者にでもなるつもりか、と揶揄する場面があり、少年の行動は普通ではなかったかもしれない。映画館で働いている間も映画のポスターと同時に社会主義的プロパガンダのポスターを貼っており、またニーチェを崇拝するデカダン的な友人(その後梅毒で死亡したらしいことが示唆される)と議論したりしている。その友人と川辺の(これは水車ででもあるのだろうか)廃墟で遊ぶ場面があり、二階から顔を出して下にいる友人に話しかけるのだが、その主人公の顔を真下から九十度の仰角で捉える画面にどことなく異様な感覚を覚える。その後その友人が死んだこと、畜材場で上司が水辺で死んだことを思い合せると、水が不吉なものとしてトロエルに感得されているのだろうか、とも思えるのだが、まだこの時点では確信が持てない。ともあれ少年は本を読み、多少社会主義や過激思想にかぶれるのだが、これは今いるところ(社会)とは別の場所(社会)の希求であり、彼が職を転々とするのもその憧れの表れなのだろう。トロエルの映画の主人公は、ほぼ全てが旅人(散歩者、移住者)といってよく、その背景には、今いる場所の閉塞感がある。
映画館で、あるいは巡業中に少年がかけるニュース映画には、第一次世界大戦中であることを示唆するものが多い。映画のほぼ終わり近くで映写されるニュース映画は、第一次大戦終結を祝うパレードだ。スェーデンは第一次大戦には参戦しておらず(スカンジナビア半島の三国王が会議を開いて中立を宣言、その模様を『マリア・ラーション』で描いている)、戦後は社会民主主義の道を取った。貧しいとは言え、政治的には比較的穏健な国柄だったらしく、主人公が社会主義にかぶれ、鉄道の操車場で働いている際にストを打ったり、アジったりする場面も描かれてはいるが、労使闘争が過激化することもない。映画そのものは主人公の成長の過程を淡々と描いており、その背後に時折社会やその動きが点描されるのであって、絵と地の地位はこの時点ではまだ揺るがない。