海外版DVDを見てみた 第32回 マルグリット・デュラス:彼女はなぜ映画を撮らねばならなかったのか(2) Text by 吉田広明
『アガタあるいは終わりなき読書』
ここで製作順番からすればずっと後になる筈の『アガタ』(81、テクストも同年)を取り上げておく。というのもこの作品は『インディア・ソング』と同じ「愛」という主題を取り上げ、『インディア・ソング』では必ずしも明確にされていなかったデュラスにおけるその意味を開示してくれるからである。また、本作が撮られたのは『ガンジスの女』のレ・ロッシュ・ノワールであり(『ガンジスの女』以来のことだ。ただし『オーレリア・シュタイナー』ヴァンクーヴァー篇もあるいはそこで撮られているかもしれないが未詳)、『インディア・ソング』三部作と本作の親近性を証している。

『アガタ』は、母の死後、別れるために海辺の空家のサロンで再会する兄と妹アガタを描く(別れるために再び出会う二人、という枠組みが既述の『ラ・ミュジカ』に似ている。ここでもデュラスは自作を「語り直して」いる)。二人は過去を語り合う。ロワール河沿いを歩き、不図入り込んだ人気ないラブホテルのロビーで兄の弾くピアノのブラームスのワルツを聞き、恍惚として「意識を失った」アガタ。アガタが十八歳になった年、夏の午後、薄い間仕切りの向うで兄がセックスする女友達の恍惚の声を聞いているアガタ。逆に、アガタが処女を失う行為、その恍惚の声を同じ薄い間仕切りの向うで聞いている兄(ここにも映画的な音声と映像のズレを見て取るべきかもしれない)。こうして明らかになってくるのは二人が近親相姦的愛情をたがいに抱いていること、アガタがその愛を一層確かなものにするためにこそ別れようとしていることだ。「出て行くのは、変わらずに愛していくため、この、あなたを掴まえておけないという、見事な苦痛の中で、この愛が、二人を決して死人にはしておけないという苦痛」(光文社古典新訳文庫、翻訳者渡辺守章)。映画はホテルのロビーのような広い部屋を亡霊のようにうろつくアガタ(ビュル・オジェ)と兄(ヤン・アンドレア)の姿や、人気ない海、誰もいないテニス・コートなどを映し出し、そこにアガタを演じるデュラス自身と兄を演じるヤン・アンドレアのオフの語りがかぶさる。

『アガタ』という題名はアガーテ、即ちオーストリアの小説家ムージルの未完の小説『特性のない男』の主人公ウルリッヒの妹の名前に由来する。『特性のない男』は、双子のようなウルリッヒとアガーテの兄妹が持つ近親相姦的愛情を巡って展開するが、デュラスは、恐らく79年に出た新訳を読むことで、自身の次兄への愛情の性質を「再発見」した。長兄への怖れと次兄への思慕は既に初期代表作『太平洋の防波堤』で描かれており、その語り直しである晩年の代表作『愛人ラマン』、『北の愛人』にも触れられているが、ここにおけるように近親相姦的な色彩は薄いことから、恐らく事実としてのデュラスの兄への感情はここにおけるように濃密に近親相姦的、性的なものではなかったのではないかと推定される(デュラスが偏愛する映画にチャールズ・ロートンのノワール『狩人の夜』があり、それも兄妹の映画―悪の権化である男に追われつつ二人きりで旅をする幼い「兄」と「妹」―であったからであることは間違いなく、しかしこの映画は聖書的な象徴性に満ちてはいるにしても、近親相姦的なところはほとんどない)。兄への感情を近親相姦的なものと見なす事で、デュラスは「愛」を新たな相貌の下に捉えることが出来るようになった、あるいは「愛」とは何なのかを改めて定義し直すことが可能になった。その契機を与えてくれたのが『特性のない男』であったわけなのだ。

では近親相姦の何がデュラスを惹きつけたのか。一言で言えば、それが禁じられた、あるいは不可能な愛だということだ。デュラスにおいて愛は常に不可能性を強く帯びている。ロル・V・シュタインが愛(歓喜)に貫かれるのは、それを失った瞬間(喪心)においてであったし、ラホールの副領事も、愛を拒絶されることで狂気に陥るが、それは同時に彼の愛の絶頂でもある。『ラ・ミュジカ』においても『アガタ』においても、二人が愛情を感じるのは別れることを前提としているからだ。デュラスにとって愛の絶頂の瞬間とは、同時にそれが失われる瞬間であるという逆説がある。ロルや副領事は絶叫し、気絶するが、それは愛が人間的身体に訪れた時起こる出来事である。愛が人に訪れる時、人は存在そのものを失うか狂気に陥るのだ。存在が失われる、という意味で、デュラスにとって愛はヒロシマ(『ヒロシマ、モナムール』)、強制収容所(『オーレリア・シュタイナー』)と同義ですらある。愛とは、人間存在を消尽する危険なものなのだ。それ以前の作品にあっても愛は不可能性の相の下にあったのだが、近親相姦という主題は、デュラスにとって愛がそもそも不可能なもの、禁じられたもの、それゆえに絶対的なものであるということを気付かせたのである。「男:(…)こうしてあなたは、僕に告げるためにやって来たのだ、あなたが僕から遠く離れて決めた決心を、それもこの禁止を、一層禁じられたものにするためだった。/女:そうよ。一層危険なものに、一層恐れられ、恐るべきであり、恐ろしいものに、一層未知なるものに、呪われて、常軌を逸した、耐えがたく、耐えがたいものに最も近い、この愛に最も近いものにするために」。愛とは、危険で、呪われた、そして禁じられたものでなければならない。

デュラスがこの映画の語り手にヤン・アンドレアを選んだのも意味が無い事ではない。ヤンはデュラスの最晩年の愛人であるが、彼はホモセクシャルだった。デュラスとヤンの間には愛は禁じられていたのだ。それは精神的な愛だった、というのは偽善に過ぎない。デュラスにとって性は愛と切り離すことはできないものだ。ヤンとの間にセックスが禁じられている、不可能である、ということそのものが、デュラスにとってはヤンとの愛の根拠なのである。

デュラスにとって愛とは、狂気、存在の消尽と同意の極限的体験である。しかし我々はそのような事態をも生き延びてしまう。そしてそれを忘却する。『ヒロシマ、モナムール』で、ナチの兵士との愛を忘却した女のように、絶叫と失神から覚めて日常に戻ったロル・V・シュタインのように。しかし彼女らは思い出す。そして愛の行為を繰り返す。しかし反復とはオリジナルな体験の模倣であり、従って二度目の出来事は偽物に過ぎないのだろうか。そうではない、とデュラスは考える。反復においては同じでないことそのものが力となるのである。既述のようにデュラスにあっては、出来事は噂話として繰り返されるうち、誰のものでもない物語、非人称的な「記憶」になっていた。そのような出来事のアイデンティティ(同じであること)の揺らぎは、映画における音声と映像のズレとして最も先鋭な形で表れていた。イメージ上の人物は声の持ち主と同じであり、同時に違う。その人は、誰でもない人に変わる。音声と映像はズレることでそれぞれにアイデンティティを消去され(ドゥルーズ的に言えば脱領土化し)、今ここはどこでもない場所、いつでもない時に変わるのである。そしてそのような時空は誰のものでもない限りにおいて、誰のものでもある。同じものである限り、それはその人にとってのものでしかないが、同じものではない、アイデンティティが揺らいでいるからこそ、それは皆のものになりうる。我々は、そうして愛を、狂気を、存在の消尽を生き延びるのだし、狂人や死人といった人間的境域を外れた者にしかありえない事態を知りうるのだ。

アガタたちが過去の愛の記憶を語る行為もまた従って、単なる追憶ではない。語り直されることで、決定的な、一度きりのあの体験は純粋に過去のものでも、純粋に今のものでもない、「記憶」となる。映画においても、過去の出来事が例えばフラッシュ・バックなどで表象されてはならないのは言うまでもない。表象されてしまえばあの出来事は、あたかもあの時の、決定的な出来事としてアイデンティファイされてしまう。出来事そのものは表象不可能である、というよりは、表象はアイデンティティを偽装してしまうので避けられねばならないのだ。しかし、文学にしても、映画にしても、言葉、イメージという表象を使用しなければ成立しない。ではどうするか。表象の持つ(想像による補完という)疑似的なアイデンティファイ作用を揺るがすためにデュラスが用いたのが、映画における映像と音声のズレの可能性だったわけである。出来事の語りと出来事のイメージはあくまでズレたものとして接合されることで、出来事のアイデンティティは揺るがされる。出来事は、表象を経ながらも、今ここを疑似的に回復させることなく、どこでもない時空に変形させられる。映画『アガタ』にあっても、イメージ上のアガタはビュル・オジェであるが、音声上のアガタはデュラスである。ここでも言葉とイメージはズレた上で接合されており、表象は表象のままに、それが自然に要求してくる補完作用は挫折させられているのである。そもそもデュラスの兄への感情も、語り直されるうちに思慕から性愛へと変形されている。とは言え、それが嘘だったとは誰にも言い切れない。事後的に発見された真実なのかもしれないし、また確かに虚構なのかもしれない。恐らくそのどちらもが正しいのであって、その不確定性(アイデンティティの不確かさ)こそが、「愛」が「愛」として生き延びてゆく術なのだ。「愛」とは、至上であるがゆえに不可能な出来事であり、従って今ここに投錨できないアイデンティティなきものである。しかしだからこそ逆に、いつでもない時間、どこでもない場所(それこそが「記憶」の場だ)で、誰でもなく、誰でもある存在が体験するもの、そして同じでない限りにおいていつどこででも誰にでも分有される出来事なのだ、とデュラスは言うのである。(第二回了、以下次回)