『インディア・ソング』② 映画が文学を殺し、文学が映画を殺す
デュラスが映画を撮らなければならなかった理由の一つは、この「非人称化」にあるのではないかと思う。言葉=声=語りと映像を齟齬させることで、その双方のアイデンティティを喪失せしめるのである。声が、映像が誰のものとも言えないものになる。小説の枠組みにおいて語り手、および出来事のステータスを揺るがせることならば既にデュラスは試みている。『モデラート・カンタービレ』では殺人事件を語る男女が殺人事件の男女を模して、存在を二重化し、殺人という出来事そのものも誰のものでもなくなってゆく。『ロル・V』では語り手は物語の内部と外部に存在し、物語内容をでっちあげるいかがわしい存在としての自身を露わにするし、ロルの決定的な出来事も、ロル自身によって反復されて二重化される。この二作品に限らず、そもそもデュラスにおいて出来事が何度も語り直され、その際にズレや記憶違いが生じて来ることは、出来事が記憶(しかし誰の?)に委ねられ、それ自体として独り歩きしてゆく事態である。しかし何事であれ言葉によって語られる時、それが過去の出来事として想定されていようと、またそれが実際にあった事柄ではないもの(例えば妄想)として想定されていようと、読む我々はそれを現に今起きている事柄としてまざまざと思い浮かべてしまうだろう。この現前性を消去するためにデュラスは直接的な語りではなく、かつて起こった出来事を第三者が語る噂話という枠組みを要請したわけなのだが、それでも語り手は今ここにおいて語るのだし、その語りの現在において、語られる出来事は聞く者(読む者)の心中にまざまざと現前することに変わりはない。一方映画にあっては出来事の現前性は一層強い。映画には現在時制しか存在せず、現に映っているものはすべて現前してしまうからである(フラッシュ・バックというものもあるが、過去の出来事を語っているとの想定の下ではあれ、それでも映画の現時点で映っていることにおいて出来事は現前している)。
それに対し、『ガンジスの女』のオフの声、『インディア・ソング』のダンス場面はどうか。そこでは映像と言葉がズレた状態で重ね合わされている。それぞれが単独では強固な現前性を感じさせる映像、言葉が、一般的な映画のように同期して重ねあわされるのでなく、ズレて重ねあわされることによって、映像と言葉それぞれの現前性が相殺されて消去されているのである。映像の方が今ここ、ならば、語る言葉は、ではいつどこなのか。語られる言葉の方が今ここならば、では映像はいつどこなのか。我々はこの時空間のアイデンティティを決定することが出来ない。上記の『インディア・ソング』のダンス場面が、映像、音声それぞれ単独で供されている場合を想像してみればよい。アンヌ=マリーとマイケルのたわいもない会話と音楽が真っ暗な中に響いている。あるいは二人の姿がサイレント映画のように音声を伴わずに映し出されている。いずれの場合にせよ、我々はそこに欠けている映像や音声を脳裏にたちまち補完して、パーティの様子をまざまざと想像することができる。これは、映像と音声が同期して供される場合も同じことである(むしろそれを当たり前として感じる我々には、それぞれが単独で供される場合よりその現前性は薄れて感じられさえするだろう)。しかし映像と言葉がズレた状態で接合されたこの場面では、映像と音声は互いに補い合うどころか矛盾し、しかもそれぞれに自己を主張するので、今ここという時空間の全一性=アイデンティティが阻害されるのだ。今ここが、そのままどこでもない場所、いつでもない時に変貌を遂げる。『シネマ2 時間イメージ』(邦訳、法政大学出版)のジル・ドゥルーズは、デュラスのこうしたオフの声の使用について書いた一節で、音声(物語)が引きはがされた空間(イメージ)を「もはや物語をもたない場所(視覚的イメージ)」と呼び、空間(イメージ)に定着することのない音声(物語)を「もはや場所をもたない物語(音声的イメージ)」と呼び、それが接合されたものがデュラス的音響=イメージであるとする。通常同期することによって音声と映像は、今ここ、を想像的に現前させるが、デュラスはそれをあえてズらした上で接合することで、今ここ(の幻想=制度)は瓦解させられる。イメージ(映画)は音声(文学)によって、音声(文学)はイメージ(映画)によって阻害される。文学が映画を殺し、映画が文学を殺す。その殺害作用は文学と映画にとって相互的なものではあるが、文学者としてのデュラスが映画を撮らねばならなかったとすれば、それはこうして(少なくとも一度は)文学を殺すためではなかったのか。