海外版DVDを見てみた 第32回 マルグリット・デュラス:彼女はなぜ映画を撮らねばならなかったのか(2) Text by 吉田広明
『ヴェネチア時代の彼女の名前』タイトル

『ヴェネチア時代の彼女の名前』廃墟の庭

『ヴェネチア時代の彼女の名前』廃墟

書籍『デュラス映画を語る』
『インディア・ソング』三部作、その三『ヴェネチア時代の彼女の名前』
『ガンジスの女』では、オフの声が画面外で語る一方で、画面上の登場人物たちが語る言葉は画面と同期していた。『インディア・ソング』では、オフの声が画面外で語る一方で、さらに画面上の登場人物たちが語る言葉すら画面と齟齬を来した。デュラスはさらに先に行く。『ヴェネチア時代の彼女の名前』(正確には『荒涼たる/人気のないカルカッタにおけるヴェネチア時代の彼女の名前』76)では、今度は人物が一切登場しないのだ。しかし声は存在する。『ヴェネチア』においてデュラスは、前作『インディア・ソング』のサウンド・トラックをそのまま使い、それに廃墟の映像を重ねたのである(題名の中のdésert「荒涼たる/人気のない」は、荒れ果てた廃墟と、人が出てこないことを同時に意味するだろう)。この作品が単独で、つまり『インディア・ソング』という前作の存在を知らない状態で、鑑賞される可能性を排除しないのは確かではあるだろうが、しかしやはり『インディア・ソング』を見ずにこの作品を見ることは、それが持つインパクトを十分に受け止めえない可能性は高い。この廃墟は、『インディア・ソング』の撮影の一部に使われたパレ・ロスチャイルド(パリのブローニュの森の中にあり、ロスチャイルド―フランス読みだとロートシルト―家の別邸であったが、ナチス・ドイツの占領下でゲーリングが住まいとした。戦後ロスチャイルド家はこの屋敷を放棄し、廃墟となっていた)であり、その前庭の敷石のひび割れ、打ち捨てられた庭の崩れ落ちた彫像、割れた窓ガラス、垂れ落ちた壁紙、燃え殻の残るマントルピース、がらんとした廊下、材木のようなものが積み重ねられた廊下などが、時に日に当たり、時に誰かのかざす照明に浮かび上がる中、緩慢な横あるいは縦の移動で捉えられてゆく。その映像に声たちが重ねられる時その声は、かつて同じこの場所にいた者たちが、幾世紀も経た後に亡霊として回帰し、昔語りをしているように聞こえるのである。『ヴェネチア時代の彼女の名前』自体が、『インディア・ソング』の亡霊と言える。

デュラスは「『ヴェネチア時代の彼女の名前』が生まれるには、幾世代にもわたる忘却を要する」(『デュラス映画を語る』みすず書房、岡村民夫訳、『ヴェネチア』についての章)と言っている。決定的な出来事は非人称化された「記憶」になるのだと先に述べた。決定的な出来事は、それが決定的であるだけ時空間の中に持続することができない。それは体験する者を訪れ、決定的な影響を残してゆくのだが、しかしそれ自体は持続を持たないのである。それは一瞬、その者を焼き尽くして去ってゆく。いかにそれが決定的な体験であったとしても、いずれそれは忘れられる。そうでなければその人間はまともに生きてはいられないだろう(実際そうなってしまったのが、狂気の女乞食であり、副領事であり、死んだアンヌ=マリーである)。忘却もまた、狂気や死に至る苛烈な体験から身を守るための極めて人間的な営為なのである。しかしその出来事が本当に決定的なものであるならば、それは本質的に忘却不可能なものなのではないか。それが起こった場所が朽ち果てても、あるいは失われても、はたまた当事者が忘れ去ったとしても、あるいは死んでしまっても、それが「記憶」となる限り、忘れ去られることは不可能なのだ。そもそも「記憶」とは、もはや誰のものでもなく、属する時間も空間もない、非在の経験である。それが残存する限り、決してそれは失われることはない。『インディア・ソング』の登場人物たちすらいない『ヴェネチア』は、その非在の経験そのものの表象なのである。デュラスは上掲『デュラス映画を語る』で、この映画を「巨大な破壊の建設」と述べているが、それも同じことの謂いであろう。

非在は題名にも表れている。題名の『ヴェネチア時代の彼女の名前』とは、イタリアのヴェネチア出身であるアンヌ=マリー・ストレッテルの結婚以前の名前アンナ=マリアのことである。アンナ=マリアとアンヌ=マリー。同一人物の名前のこのズレも、反響し、変質してゆく言葉として、デュラス的な語りの一変種であるが、副領事が遂に狂気に陥ったあのパーティの晩に叫ぶのが、この「ヴェネチア時代の彼女の名前」なのだ。今はそう呼ばれることがない(存在しない)名前。それは、映像を欠いた声たちと相まって欠如そのものを指し示しており、従って「ヴェネチア時代の彼女の名前」とはまた欠如の謂いであったことになる。欠如しているが故に一層強烈に感じられる声の存在感。この逆説に、この映画は賭けられている。

一方この映画が抱えている弱さについても述べておかねばならない。この映画では、音声と映像が確かにズレているとは言え、そのズレが我々に真に鋭い注意を喚起することはないのかもしれないのだ。一旦映画の構成が知れてしまうと、そのズレに我々は慣れてしまう。『インディア・ソング』のように、人物が映像として映っていて、なおかつ音声がずれている時に感じられる映像と音声の激しい葛藤が、ここでは薄れてしまっている。映っているのが廃墟であるという点も、映画的な創意(映像と音響の構成)とは関係のない、審美的な関心を呼び込みかねない(無論、廃墟趣味のようなものが本作をカルト化し、観客を惹きつけることそのものは否定すべきものではない。ただ本作の可能性の中心はそこにはないだろうというまでである)。