インディア・ソング三部作、その一『ガンジスの女』
今回は、デュラス映画の一つの極点をなす『インディア・ソング』三部作と、その持つ意義について書く。『インディア・ソング』三部作においてデュラスは、それまで文学的テクスト、映画の両方に萌芽的に現れていた「語り」の持つ可能性を十全に開花させるのだが、その「語り」において、文学テクストと映画は激しい葛藤の中に置かれ、互いが互いを相殺するという未聞の事態が生じる。文学テクスト、映画それぞれ単独では生じ得なかった事態。ここに文学者デュラスが映画を撮らねばならなかった理由があるのだが、それについては今少し先で語ろう。『インディア・ソング』三部作は、文学テクストと映画の関係が入り組んでおり、物語内容を紹介しつつ、その関係を素描することから始めることとする(なお、三部作のうち『ガンジスの女』は先述のように2014年にフランスでDVDが出た。『インディア・ソング』はフランス、日本でDVDが出ていたが共に廃盤、『ヴェネチア時代の彼女の名前』はフランスでVHSが出ていたが廃盤)。
書籍『ロル・V・シュタインの歓喜』
『インディア・ソング』愛人に取り巻かれるアンヌ=マリー
『インディア・ソング』アンヌ=マリーと副領事
映画『インディア・ソング』三部作には、先行する文学テクストが存在する。ロマン(長編小説)として書かれた『ラホールの副領事』(66)、『愛』(71)、および「テクスト・演劇・映画」と表題に表記され、もともと戯曲として書かれた『インディア・ソング』(73)であるが、『インディア・ソング』は、内容的にはロマン『ラホールの副領事』にほぼ準じている。先ずはロマン『ラホールの副領事』と『愛』の内容を紹介する。『ラホールの副領事』は、『ロル・V・シュタインの歓喜』でロルの婚約者を奪った大使夫人アンヌ=マリー・ストレッテルのその後の物語で、カルカッタにいる彼女は言い寄る男たちを受け入れ、結果数人の愛人に取り巻かれて無為な生活を送っているが、しかしそれにも倦み果てている(その中にはロルの婚約者だったマイケル・リチャードもいる。この男は『ロル・V』ではマイケル・リチャードソンだったが、このような表記のズレもまた語り直されるうちに生じるズレとしていかにもデュラス的なものだ)。
ある晩の大使館でのパーティに、ラホールで癩病患者に発砲するという不始末を起こしてカルカッタで処分を待っている副領事が現れる。テニス・コート脇で大使夫人アンヌ=マリーを見て以来、彼女に恋着し、執着する彼(テニス・コート脇に放置されたアンヌ=マリーの赤い自転車は、その宿命的な恋着の象徴として何度か画面に現れる)は、今晩だけはパーティの後も取り巻き連中と一緒に残りたいと懇願し、拒絶され、「絶叫」=発狂する。この物語と同時に、ラオスからカルカッタまで歩いてやってきた女乞食の物語が語られる(冒頭における乞食女の行程の描写は、文学においてなした最も高度な達成とデュラス自身評価するものだ)。女乞食は癩病患者の群れと共に大使館周辺をうろついている。パーティの一夜が明け、アンヌ=マリーは取り巻きと共に島に向かい、その海岸で入水して死ぬ。ロマン『ラホールの副領事』に続くロマン『愛』は、S・タラ(S.Tahla、『ロル・V』の舞台もS・タラであったが、そこでの表記はS.Thala)と呼ばれる海岸の町に「旅人」と名付けられる男がやって(帰って)くることから始まる。この男は恐らく『ロル・V』のマイケルであり、このほかにアンヌ=マリーであるらしい無名の黒衣の女、副領事であるらしい「狂人」と呼ばれる男、その男と共にいる高台に住む女(かつて狂気から立ち直ったとされ、ロル・Vであるらしい)が海岸周辺に現れる。『ロル・V』と『副領事』の登場人物が亡霊として一堂に会した格好だが、しかし皆が皆名前を失っており、過去の記憶も曖昧で、彼らはかつての登場人物の、いわば残響そのものと化している。実際彼らの間には出来事らしい出来事は到来せず、元の彼らの間に想定される関係性(例えば黒衣の女に対し狂人は執着していた筈だ)は感じられない。『愛』はいわば『ロル・V』や『ラホールの副領事』の廃墟であり、その関係はちょうど映画『インディア・ソング』と『ヴェネチア時代の彼女の名前』の関係に等しいかもしれない。
『ガンジスの女』海岸に佇む黒衣の女と「狂人」
『ガンジスの女』アンヌ=マリーらしき女
『ガンジスの女』ホテルのロビー
さて、映画の方の『インディア・ソング』三部作は、『ガンジスの女』(72-3)に始まる。これはテクストの三部作のうち『愛』の映画化であり、この映画のテクストがさらに『ガンジスの女』として出版される(73年)。上記のように『愛』の登場人物は『ロル・V』や『副領事』の主人公たちの残骸、残響であるわけだが、そのような存在を描くことから映画三部作が開始されていることは意味のないことではない。彼らは直接的にロルであり、アンヌ=マリーであり、副領事であり、マイケルであるわけではない。その記憶の残骸という間接的な資格でのみそうなのだ。登場人物のそのような境位を物語内容レベルで実現するのが、この映画で初めて全面的に使用された「オフの声」である。映画は、冬の人気のない海岸に黒衣の女や「狂人」たちが佇み、ホテルのこれまた人気ない廊下を亡霊のように彷徨う様を、とりわけ出来事らしい出来事が起こらないままに映し出す。そうした画面に彼らについて語る二人の声がかぶさるのだが、その声の語る物語が、今現に画面に映っている存在のそれなのかどうかは曖昧であり、何より、この声の持ち主が一体誰なのか不明なままなのだ。
オフの音声そのものは『ナタリー・グランジェ』でも使われていたし、ノイズの音源が画面に映っていない、ということは映画において必ずしも珍しい事でもない。しかし、ここでデュラスが実現したように、これら登場人物の物語を語る二人の声の主が一切画面に現れず仕舞いというのは確かに前例がない。この声が噂話をする者として、『モデラート・カンタービレ』において殺人事件について語る主人公二人と同様の存在であることは確かである。彼らはさしたる根拠の無い噂話に耽る。彼女たちは彼らの間に起こった出来事にいかがわしい関心を覚えており、そしてそれを語ることそのものに愉悦を感じている。また、『モデラート・カンタービレ』の二人が殺人事件について語ることを通してそれを模倣し、疑似的な死に至っていたように、『ガンジスの女』の語り手たちもアンヌ=マリーを浸していた死の欲望に取り憑かれていて、その語りの最後において声1が声2に自分を殺すことを依頼し、声2がそれを肯い、語り手が語られる者たちを模倣し死に至るのだ(「声1:もし頼んだら、あなたは私を殺すことを引き受けてくれるかしら。/死をもたらすこの要求に対して、返答はゆっくりと返ってくる。返答が届く。返答は肯定的である。それは
死の欲望そのもの(原典では傍点)を肯定している。同じように、この欲望はS・タラの舞踏会の主人公たちを結びつけていた
完全な死の欲望(原典では傍点)でもある」)。語り手が、語ることを通して、語られる者たちを突き動かしていた欲望に同一化してしまう。反復による再現というこの声の行為そのものは、『モデラート・カンタービレ』から『ロル・V』を経由してここまで一貫している。しかしここでは大きな違いも生じている。『モデラート・カンタービレ』では語る人が主人公として存在していたのに対し、ここではただの声に還元され、その存在が欠如しているのである。
改めて整理すると、ロマン『愛』では、『ロル・V』や『副領事』ではアンヌ=マリーやマイケルと名付けられていた登場人物たちが固有名をはぎ取られ、「旅人」や「狂人」といった一般名詞に格下げされ、ある者に至ってはそうした一般名詞すら与えられない存在に格下げされていた。一方『愛』で語り手は、「われわれ」として設定され、彼らの行動を淡々と記述してゆくのみで、主観性が際立たされてはいなかった。映画『ガンジスの女』ではこれに対し、語り手として声1、2が設定されている。しかも語られる内容への、そして語ることそのものへの欲望に取り憑かれた彼女らはあからさまに主観性を帯びており、にもかかわらず、その存在を消去されている(つまり声の持ち主は画面に映らない)。要するにロマン『愛』では、シリーズ諸作の登場人物たちのステータスの格下げが起こっているのだが、映画『ガンジスの女』では、それに感染したかのように語り手そのもののステータスの格下げが起こっているのだ。あえて登場させられ、主観性を帯びた上で消去されている映画『ガンジスの女』の語り手の格下げは、ロマン『愛』の登場人物たち以上に深刻なものと言える。しかしでは、この格下げはネガティヴなものなのだろうか。そのようなことが行われることの意味は何なのか。その答えは、次作『インディア・ソング』によって明らかにされるだろう。
ところで、語り手のこのような格下げを可能にしたのは、映画という媒体の特性である。語り手の存在の消去は画面に映らないことによって実現されていたわけであるが、それは、映像と音声が分離されうるという媒体の特性によるものである。つまり映像はあっても音はしない(サイレント映画はそうだったわけだが)か、音はしてもその音源が映っていない(『インディア・ソング』はこれ)、ということが映画ではありうる。通常映画では、自然さを保つために(あるいは物語内容に集中させるために)映像と音響の不一致を避ける傾向があるが、デュラスはあえてその不一致を拡大し、新たな「語り」を創出したのである。映画を作る者なら誰でもが使用しうる道具を創意に高めることを、ここでもデュラスは成し遂げている。とは言えしかし、この分離可能性は『ガンジスの女』ではまだ十分に異様ではない。デュラスはさらに先に進むのだ。
本作からデュラス映画がカラーになったことも記しておくべきだろう。『破壊しに、』や『ナタリー・グランジェ』のモノクロは硬質な印象を与え、それは暴力という映画の主題にとっても相応しいものであった。一方愛(とその不可能性)が主題となっている『インディア・ソング』三部作では、カラーが似つかわしい(とりわけ『インディア・ソング』における夕陽の紅の、あるいは汗の粒をその周囲に散りばめたデルフィーヌ・セイリグの乳首の桜色の、官能性)。ここでついでに述べるならば、デュラスはほぼ全作において当時フランスにおける最高の撮影監督を迎えている。『ラ・ミュジカ』、『バクステル、ヴェラ・バクステル』はサッシャ・ヴィエルニー、『ナタリー・グランジェ』はギ(ス)ラン・クロケ(インタビュー映像などで発音されているのを見るとスは読まないようだが)、『インディア・ソング』三部作を始め『トラック』、『子供たち』はブリュノ・ニュイッテン、『木立の中の日々』はネストール・アルメンドロス、『船舶ナイト号』、『セザレ』、『陰画の手』、『オーレリア・シュタイナー』二作はピエール・ロム。一つのショットだけで映画世界がすっと立ち上がってしまう、そのようなショットがデュラス映画にはあり、これはこうした撮影監督たちの功績でもあるだろう(個人的に言えば例えば『ナタリー・グランジェ』における家の内外の空ショット、『ガンジスの女』の黒服の女の立ち姿、『ヴェネチア時代の彼女の名前』における緩慢な移動、などが直ぐに思い浮かぶ)。