『大地の果て』指を怪我するアンブローズ
『大地の果て』乾かされる海藻
『モル・ヴラン』冒頭のブルターニュの地図
『モル・ヴラン』打ち上げられた死体
『海の金』丘の上で突然死ぬ老人
『海の金』の少女
『アル=モールの歌』主人公二人
『アル=モールの歌』死んだ女性と嘆きの歌を歌う男
ブルターニュへ
エプスタンの作品に、野外の魅力が湛えられてあったことはこれまでの記述でも明らかであろうが、ブルターニュ作品群においてはもっぱらそれが追及される。エプスタンはスタジオでの撮影に倦んでもいた。
『大地の果て』Finis Terrae(28)は、ブルターニュのウェサン、バネックの島で、地元の人々をキャストして撮られた。漁師の仕事のない冬の間、無人島バネックに、海藻を焼いてその中に含まれる硫黄を採る仕事に来た四人の男たち。そのうちのジャン=マリーとアンブローズは家も隣同士の親友だが、アンブローズがワインの瓶を割ってしまったこと、自分のナイフを失くしてしまったことから仲違いする。アンブローズはワインの瓶のかけらで親指を切り、それが化膿して体調が悪化、一人ウェサンに帰ろうとするが体力がなく果たせない。事態に気付いた他の三人が協力してウェサンに帰ろうとするが、潮のせいで苦労する。折からウェサンの方でも異常を察し、医者を載せた船が出る。苦労の末二組の船が合流、アンブローズは無事治療を受け、ウェサンに帰る。アンブローズとジャン=マリーは仲直りする。
海藻を海から採る、それを乾かし、乾いた海藻を山にして火をつけるという一連の作業。井戸がないので雨水をため、それを細々と呑む。固いパンと、ワイン(といってもその絞りかすであり、最低級のワイン)のみの食事。それだけにワインは男たちの楽しみなのだ。熱にうなされたアンブローズが見る幻覚場面(過去の映像のモンタージュ、ウェサン島の灯台の逆さになった映像等)がそれまでのエプスタンを偲ばせるものではあるが、ここではもっぱらそういった生活の細部、海藻の煙、海の表情、そして素人の地元民たちの顔などがドキュメンタリー的につぶさに捉えられる。バネックで起こりつつある非常事態を、何故かウェサン島の人々が感じる、という辺り、二島の間の感応を感じさせ、エプスタン的。エプスタンはブルターニュの島々を、「大洋の顔に散らばったホクロ」と述べており、これも前回の
フォトジェニー理論について書いた際、エプスタンがクロース・アップにおける顔の変化を地の変動に擬していることを記したが、ここでも地理が顔に擬されていることは注目して置いてもいいかもしれない。
『大地の果て』を見たヴィユ=コロンビエ座(演出家ジャック・コポーが創始し、簡素なセットで深い文学的理解による演劇を目指した劇場。ルイ・ジューヴェが俳優兼舞台監督を務めた)のジャン・テデスコが見て感銘を受け、次回作『モル・ヴラン(鴉の海)』Mor-Vran(La mer des corbeaux)(30)を委嘱。これはサン島を舞台とする。溺死者の出ない日は無いというこの島では、すべての漁師が救助員であり、島の人々は皆常に黒い服を着ている旨の字幕。対岸のブルターニュ、ブレストで、家族へ、なのか恋人へ、なのかお土産のネックレスを買った男を含む男たちが島へ帰ろうと船を出すが、時化に巻き込まれる。嵐の波の様子がしばらく捉えられ、五週間後、岸壁に死体が打ち上げられている。その手にネックレスが絡みついている。
エプスタンは、サンクロ=シネで、シャンソン・フィルメ(映画になった歌)というシリーズを六本撮るが、そのうちの一本がDVDボックスに収められている。『ゆりかご』Berceau(32)。ガブリエル・フォーレの同名の歌曲に映像を付けたもの。赤子が生まれたばかりの一家、その主人である若者が海に出るというだけの映像だが、そのゆりかご(berceauベルソー)と、若い父の乗る船(vaisseauヴェソー)が歌曲で韻を踏む。船、海の映像に続き、十字架が映り、若い父の死が暗示される。生まれたばかりの赤子が象徴する生と、十字架が象徴する死。たった五分程度だが、エプスタンにおける海が、生と死の交錯する場所であることをきわめて典型的に示す作品だ。
同じサンクロ=シネの出資で作られた中編が『海の金』L’or des mers(33)。乞食同然の暮らしをしている老人、彼は神父から貰ったパンを自分ひとりで食べてしまい、娘にはかけらもやらない、そのくせ自分を飢えさせるとは怪しからん、と娘を叱るようなあくどい男だ。彼が海辺で何かが入った箱を見つける。その様子を見ていた村人が、老人が金を拾った、と言いふらす。話を聞き出そうと、あるいはおこぼれに預かろうと、老人をもてなす男たち。老人は尋問まがいのもてなしにうんざり、娘に隠し場所を教えて、海に向かった丘の上の突き立った岩を背に、皆を呪って死ぬ(なぜ死ぬのか?筆者にも分からない)。娘には恋人がいたが、その恋人の父親が、その宝の箱を渡すなら結婚を許すという。宝の箱は、海辺の流砂の岩の下にあり、娘は箱を探し出すが、流砂に呑まれてしまう。恋人が助けに来て、何とか救い出す。箱の中身は(何だったのか良く分からないが)流砂に呑まれて消えてゆく。ストーリー自体たわいもないもので、老人が死ぬのも良く分からないし、流砂という設定で危ない場所を避けながら進む体の演技も正直わざとらしく見える。しかし美人というわけでもない素人の娘の、何ということもないクロース・アップが妙に素朴で美しい。風にそよぐ髪が揺れるスピードを見ると、スロー・モーションを使っているようだが、それも一因なのだろうか。カメラは、その後ジャン・ルノアール『大いなる幻影』(37)、レオニード・モギー『格子なき牢獄』(38)、ジュリアン・デュビビエ『旅路の果て』(39)などの戦前の名作、マックス・オフュルス『輪舞』(50)、クリスチャン・ジャック『花咲ける騎士道』(52)、アンドレ・カイヤット『眼には眼を』(57)などのフランス戦後の名作を支えたクリスチャン・マトラ。セロファンやガーゼを使って周囲がぼやけ、光のハレーションを生み出す装置を作ったという。
エプスタンはパリで雇われ監督として商業映画を二本監督した後、ブルターニュの地方紙ウェスト=エクレール(現ウェスト=フランス)から、ブルターニュの宣伝映画を作って欲しいと頼まれ、『アル=モールの歌』Chanson d’Ar-Mor(34)を撮る。マグロ漁がない時は放浪の歌手である男と、地元の領主の娘の悲恋物語。男はブルターニュ地方のあちらこちらを放浪している設定なので、港町の水揚げ、市場、教会の聖人の儀式などがドキュメンタリー的に捉えられる。男はマグロ漁に雇われるが、指が曲がっているのを見咎められ、船を降ろされるという描写があり、不具者という設定なのだろうか(芸能に関わる者=異形の者)。一方娘には婚約者らしい中年男がいて、これも片足が悪いらしく杖を突き、足をひきずっている。領主一家はカジノで興じているが、一人抜け出した娘は、偶々それを見ていた男の目の前で岸壁から飛び降りる。娘の服の白い生地が岸壁に引っかかり、風に揺れる。男が天を見上げて歌い、カメラがゆっくり後退すると、体の所々を海藻に覆われた娘の姿が映りこみ、その娘のショットと海面がオーバーラップして映画は終わる。物語そのものは緩いが、あるいはそれだけに、ラストの自殺場面が突出している印象の作品。