前回に引き続き、ジャン・エプスタンの作品(フランスのポチョムキン・フィルムから発売されたDVDボックス所収作品を主に)について。エプスタンは当時のフランス最大の映画会社パテ社(1900年代から1910年代には全世界にカメラ機材、短編映画作品を供給していて世界最大の映画関連会社だった。第一次世界大戦でパテ社の映画が供給できなくなったことが、アメリカに自国での映画供給を促し、ハリウッドの隆盛を招く)、ロシア革命から亡命してきた白ロシア人設立になる映画製作会社アルバトロス社などでの資金的に恵まれた環境での映画製作を経て、自身の映画会社フィルム・ジャン・エプスタンを設立し、そこを拠点とした自主製作に移行した。メロドラマ『モープラ』、サスペンス=メロドラマ『6 1/2×11』を撮った後、傑作として知られる二本の前衛映画『三面鏡』と『アッシャー家の崩壊』を撮ることになる。
『三面鏡』
『三面鏡』事故死する主人公
『三面鏡』ラストで三面鏡に向かって来る主人公
『三面鏡』Glace à trois faces(27)は、一人の男と、彼を愛している三人の女の関係を描く。ブルジョアのパール、彫刻家のアタリア、下町娘のリュシー。それぞれの女性との関係が描かれる一方(男はパールを彼女に気がある男に譲り渡す、公園をアタリアが散歩させていた猿が逃げ出し、偶々乗馬で通りかかった男が救うことで二人が知り合う、リュシーのアパートに夕食に誘われながらろくろく部屋に入りもせず帰る。それぞれの女性のエピソード終わりに、現在時点での彼が、それぞれの女性への別れの手紙や電報を出す)、男がガレージからレーシング・カーを出して郊外に向かう様子がそのつなぎ目に差し挟まれる。三人目の女性リュシーとのエピソードで、二人が車で郊外の湖?に行った時のフラッシュ・バックと、現在において男が郊外の村の祭りに出くわした様子がシンクロする。村を出て車を走らせ始める男。次第にスピードを増す車。車窓の風景がスピードによってブレ始め、そのモンタージュのスピードも増してゆく。電線に留まる鳥の映像、「危険、減速せよ」の看板の映像が時々差し挟まれ、看板の字が次第に大きくなってゆく。そして電線から離れた鳥が車のフロントガラスに激突、車は転覆して男が死ぬ。最後に「私は、三人の女性から聞いていた男が、私の知り合いである一人の男のことだと気付いた」という旨の字幕が出、こちら向きに置いてある三面鏡に男が歩いてゆく姿で映画は終わる。
原作はポール・モーランの同名の短編。三人の女性が語り手にある男との関係を話すという形式で、それはこの映画でもパール、アタリアがそれぞれ老人に話をする様子がフラッシュ・バックのきっかけになっている辺りにその名残が見られるが、形骸化してしまっている。小説作品であれば、「男」が同じ人物であることは最後にならなければ分からないが、映画では同じ人物が演じるわけであるから、その意外性はどうしても殺がれてしまうことになる。ここでは「男」が同一であることの驚きよりは、三人の女性のエピソードの並列と、それを一本に繋ぐ男の現在の構成に力点はある。三人の女性のエピソードはそれぞれが過去のことであり、フラッシュ・バックではある筈なのだが、それが順に語られることで時間的な経過として感じられる。それは、現在時において男が、それぞれの女への別れの手紙ないし電報を、車での旅の途中途中で出すことによって強められるだろう。さらに、リュシーとのエピソードでの郊外の湖での市民の様子と、男の現在時における郊外の村の祭りの様子が続けて映されることで、過去と現在時が混濁する(シンクロする)ことも、時間意識を混乱させることにつながる。本来並列であるはずのものが時間的な前後として語られる。過去と現在が並列されシンクロすることで時間感覚が狂う。時間はここで、一方向的であると同時に、並列可能なものとしても現れる。前回、
フォトジェニーについて書いた項で、時間における不均衡についてエプスタンが書いている一節を紹介したが、その典型がここに現れているといっていいだろう。時間感覚の狂いは、最後の彼の死の場面にも現れていて、そこで車の事故の原因となる電線の鳥の映像は、既に村祭りの場面の時点から一瞬差し挟まれており、その後の車のスピード・アップに合わせて頻度を上げてゆく。要するにフラッシュ・フォワードである。車のスピード・アップに合わせての素早いモンタージュは、アベル・ガンス的なモンタージュの典型で、それ自体に目新しさはないが、自動車=スピードが好きだったとされるエプスタンらしいものである。しかし一方で、郊外の湖でボートに乗る人々、水泳を楽しむ人々、村祭りでの楽隊、マラソンの模様などのイメージはドキュメンタリー的で瑞々しい(ドイツでロバート・シオドマクらが同じような郊外の湖の模様を描く『日曜日の人々』を作るのはその三年後の30年)。