海外版DVDを見てみた 第30回 ジャン・エプスタンの作品世界(2) Text by 吉田広明
『アッシャー家の崩壊』生き返ってきたマドレーヌ

『アッシャー家の崩壊』館の内部

『アッシャー家の崩壊』生命を抜き取られるマドレーヌ
『アッシャー家の崩壊』
『アッシャー家の崩壊』La chute de la maison Usher(28)。古い家系のアッシャー家、当主のロドリックは妻のマドレーヌの肖像を描いているが、それが生き写しのように本人に似る程にマドレーヌ自身は衰弱してゆく。その肖像画が完成した時、マドレーヌは息を引き取り、埋葬されるが、その後の館を覆う沈黙の中、ロドリックの緊張が高まり、その緊張の糸が張り詰めた瞬間、墓場で生き返ったマドレーヌが現れ、折からの強風で蝋燭の火がカーテンに燃え移り、館は焼け落ちる。妻の肖像画のエピソードは同じポーの『楕円形の肖像』から採られたとのことだが、妻が最後に生き返るのは実は死んでいたのではなく、仮死状態で埋葬されていたということらしく、その設定には『早すぎた埋葬』も少し入っているのかもしれない。
広い廊下の両脇にカーテンが垂れ下がり、それが風でゆらゆらと揺れている。そしてその廊下に置かれた書棚に乱雑に積み重ねられた書物が崩れ落ちる。それがスローで撮られているために、そして無音であるために(これはサイレント映画)、超現実的な不気味さをもって感じられる。この館自身が生き物で、ゆっくりと息づいている、というよりはゆっくりと死につつあるような印象なのだ。生きたマドレーヌが、肖像画という物体によって生命を吸い取られてゆくこととそれは対照的である(マドレーヌの肖像は実際のところ絵ではなく写真であり、生き写しなのは従って当たり前なのだが、それでも不気味。しかも彼女が生命を吸い取られてゆく様は、二重映しで撮られていて、これも効果的)。ここにはエプスタンのアニミスムが典型的に現れていると言える。ロドリックがギターを弾く場面も同断で、彼がギターを弾く様子と、揺れるカーテン、沼の波打つ表面、動く靄、風に揺らぐ木の枝がモンタージュされ、あたかもそれらがロドリックのギターによって動かされているかに見えるのだ。生きているものが生きているがままに死に、生命のないものが生命のないまま動く。映画という場は、生と死の、運動と不動のせめぎ合う境界地帯なのである。マドレーヌが死に、埋葬されるが、彼女の遺体は白いケープに包まれている。棺に押し込められた筈のそのケープが、棺から、墓場からあふれ出し、風に揺れる。それは冒頭から何度も繰り返される、廊下のカーテンの揺らぎと同じものであり、これも生と死の両方を宿す物体であるわけなのだ。というか、風=プネウマということかもしれない。実際、ロドリックがマドレーヌの蘇生を感じ取った瞬間、カメラ自身が風であるかのごとく、広い廊下の床を、落ち葉と共に素早く移動するのである。

本作の原作はアベル・ガンスが映画化を考えていたものといい、ガンスが製作を援助し、公開の手配をしたのも彼だということだ。マドレーヌ役を演じているのも、ガンスの妻マルグリット。本作でルイス・ブニュエルが助監督をしていたが、ガンスを巡ってエプスタンと口論になり、解雇されたのは前回記したとおり。エプスタンは本作の編集を終えると、公開を待つまでもなく、次回作へと向かった。次回作は、ブルターニュを舞台とした『大地の果て』である。