海外版DVDを見てみた 第23回 ヒューゴ・フレゴネーズのアメリカ時代 Text by 吉田広明
西部劇
フレゴネーズが『一方通行』の後に作ったのは西部劇Saddle tramp(未、52)「馬上の放浪者」が直訳。放浪癖のカウボーイ(ジョエル・マクリー)が旧友を訪ねてみると、彼は死んでいた。残された四人の子供を引き取って育てる羽目になるが、そこに意地悪な叔父から逃げてきた女の子が加わる、というような話らしい(筆者未見)。またしても庇護者が主人公であるわけだ。

「アパッチの太鼓」ポスター
リカルド・モンタルバンとシド・チャリシー主演のアクションものMark of the renegade(未、51)「裏切り者の印」を経て、二本の西部劇Apache drums(未、51)「アパッチの太鼓」とUntamed frontier(未、52)「屈せざる境界線」。「アパッチの太鼓」は、ウェールズ人の鉱夫の多く住む村に、アパッチが襲撃してくるという単純な物語。主人公はギャンブラーのスティーヴン・マクナリー。彼には酒場兼食堂の主人コーリン・グレイという好きな女性がおり、彼女も彼を憎からず思っており、彼が真っ当な道に戻ってくれることを願っているが、それがかなわない限り、彼を諦めようと思っている。彼女には、村の中心人物で、誠実な鍛冶屋(ウィラード・パーカー)も求愛している。マクナリーはギャンブル上のいさかいで相手を撃ち殺し、正当防衛ではあるが、村を追放される。同じころ村を追い出された娼館の女たちが乗る馬車が谷で何者かに襲われ、みな死んでいる。生き残った黒人召使から、襲撃したのはアパッチであることを知ったマクナリーは、村へ駆け戻る。谷を取り囲む岩場、その色は赤く、不気味。しかもインディアンはまったく画面に現れない。ただ岩場をゆっくりとパンするカメラが効果的。

「アパッチの太鼓」の教会に閉じ込められる人々
アパッチが井戸に毒を入れたため、水を汲みに男たちが遠く離れた川に向かう。老神父(アーサー・シールズ)も同道、帰り道を襲撃されると、マクナリーとシールズだけが下馬して戦う。何とか首領を撃ち、退却させるが、砂漠を歩いて戻らねばならない。その間、マクナリーはシールズに、誠実だが貧しいまま悲惨な死を遂げた父親の轍を踏みたくないのだ、と心情を吐露する。何とか村に帰り着くが、そこにアパッチが襲撃、村人は教会に立てこもる。土壁の高いところに窓が開いている。外の様子が全く見えない構造が、サスペンスを生む。アパッチの存在は、彼らの叩く太鼓によってしか見るものに告げられることはない。アパッチは、見えない存在なのだ。娼婦たちが襲撃された谷の場面もそうだが、インディアンをほとんど見せないことでこの映画は処理している。教会を取り囲む彼らにしても、教会の外景は決して示されない。タイトル部分でも使われている、太鼓と、それを叩くアパッチたちの手、その火影にゆらめく手だけが、彼らの存在を示すのだ。この映画が、RKOホラーの製作者、ヴァル・ルートンによる最後の映画だ、ということも記しておくべきだろう。ルートンこそ、怪物を見せないことで感じさせるという逆転の発想でホラーを変えた人物である。さて、この密室でのアパッチとの戦いの中で、マクナリーとグレーの心は近づいてゆき、遂に彼らが解放された時、二人は結ばれる。かくして本作は、簡素な設定ながら、人間関係の構成、見せないで想像させる視覚技法など、70分程度の上映時間の中で充実した作品となっている。

『屈せざる境界線』のスコット・ブラディ


スーザン・ボール
「屈せざる境界線」、こちらは大牧場主と、その周囲に迫る農民との争いを背景にしている。移住してきた開拓農民は、牧場を通らないと新天地に行けないのだが、一代で大牧場を作り上げた主人はそれを許可しない。その牧場主にはドラ息子がおり(スコット・ブラディ)、酒場での不図した争いから農民の一人を射殺する。その農民は、直前に酒場の女に銃を抜き取られており、丸腰だった。その場に居合わせた、重要な証人となる女(シェリー・ウィンタース)に証言させないため、ブラディは彼女を騙して結婚する(妻は不利な証言をできない)が、その事実にウィンタースは結婚後気づく。彼女はしかし、農民の娘でもあり、牧場の人間に父を殺された過去を持つ。従って、家父長にも唯一楯をつく存在である(ちなみにその家父長は、片足を悪くして杖をついて歩き、周囲を従わせるためには黒く、長いムチを使う)。ブラディの従兄で、実質牧場をやりくりしているジョゼフ・コットンも彼女が真っ当で、勇気があり、農場経営の確かな知識を持つ立派な西部人であることを認め、惹かれてゆく。

時代の変化で傾いてゆく大牧場と、そのドラ息子、有能ではあるが直系から外れた助手、という人間関係にアンソニー・マンの『ララミーから来た男』(55)を思わせるところがあり、無論それに比肩できる格を持った作品ではないけれども、型の力というべきだろうか、80分に満たない作品ながら、堂々としたドラマ性、風格を感じさせる。それもさりながらこの映画の魅力の一端を担っているのは、スコット・ブラディの颯爽とした悪役ぶりである。黒いシャツ、首に赤いスカーフを巻き、黒いジャケット、ぴっちりした黒いパンツに身を包んだ、堂々たる偉丈夫。悪で何が悪い、とでも言わんばかり、悪であることにまったく悪びれない態度にむしろ好感さえ覚える。彼は結婚してしまうとウィンタースは用済みとばかり、すぐに酒場の女を情婦にする。その女が農民の拳銃を隠したので、それを当局に出さない代わりに、自分を情婦にしてくれと頼みに来るのだ。据え膳いただきます状態だが、その酒場女(スーザン・ボールが演じている、ちなみにルシル・ボールの従妹)が艶っぽい女だし、ブラディは種馬のようにしか見えないし、で、何となく二人の激しすぎる行いが想像されて、やけにエロい印象を与える。

エロティシズムと言えば、恐らくそれが狙いではあったのだろう作品が、『吹き荒ぶ風』Blowing wind(53)である。かつて関係があった石油堀りのゲイリー・クーパーと、今結婚している南米男のアンソニー・クインの間を、色と欲とで天秤にかける女をバーバラ・スタンウィックが演じている。クインはともかく、二人の主人公がさすがに年で、クーパーはうらぶれて色恋どころでない印象だし、スタンウィックは、この年齢では色で男を操るファム・ファタルというより、ただの色情狂にしか見えない。かつて見た時は面白かったように思ったが、今回Olive Filmから発売されたDVDで改めて見てみて、やはり失望させられた作品の一つだ。