海外版DVDを見てみた 第18回 ベイジル・ディアデンを見てみた Text by 吉田広明
『暴力のメロディー』ポスター
『暴力のメロディー』
『兇弾』と同じく、若者の非行を描く。リヴァプールの団地とその周辺で遊ぶ子供たちの群れを捉えた冒頭のタイトル部分でロックンロール(ロックというより、いかにもロックンロールという感じの)が鳴り響き、やかましさ、騒がしさ、を印象付けようとする意図が何とも露わ過ぎてかえって笑える。主演は凶悪犯担当から、非行少年少女を扱う部署に配置換えになった刑事スタンリー・ベイカー。その任務の過程で、団地のとある一家と知り合いになる。母は男と出奔し、父は船員でめったにおらず、20代半ば程の姉が一家の長として皆の面倒を見ているが、その弟の10代後半の長男は近所の不良仲間の頭、その下が6歳ほどの、釣銭詐欺を働くこまっしゃくれた双子の姉弟。最初は配置換えに腐っていたベイカーだが、子供を教導することで将来犯罪者になる子供を少しでも減らすことができれば、との上司の言葉を支えとして仕事に励む。実際一家の双子は彼になつき始め、最初は喧嘩腰だった姉も、次第に軟化し始める。かつ、彼は地域に習熟するにつれ、配置換えになる前に追っていた事件の手がかりを掴む。彼はリヴァプールで頻発する放火事件を追っていたのだが、どうもその犯人は長男ではないかと思われるのだ。何とか証拠をつかもうとするベイカーをあざ笑うかのように放火は続く。ついにベイカーは、彼の放火現場を押さえることができるものの、逃げた長男は、双子の通う小学校に逃げ込み、朝登校してきた、双子の妹弟を含む生徒たちを人質に、学校に立てこもる。

原題はViolent Playgroundで、「野蛮な遊び場(ないし、校庭)」だが、実際、思春期後半の放火犯は精神的な幼さを感じさせる。犯罪に後ろ暗さを覚えながらも、仲間に引きずられて犯行に及んでしまうような弱さを持ち、しかしながら一方でやっているうちに高揚し、自分を抑えられなくなるという造形。一旦ベイカーに真情を吐露し、友情を結びかけながら、帰宅すると仲間がレコードを大音量で掛けている。止めさせようとしながらも、仲間に圧倒され、すると今度は自ら音量をさらに上げ、ベイカーを挑発するように踊りだす、という場面は、その複雑な造形を象徴的に表現している。

確かに『兇弾』、『暴力のメロディー』と並べてみると、若者の非行というイギリス50年代の現在を取り上げてはいるのだが(付け加えておかねばならないが、本作は『暴力教室』55、『理由なき反抗』55など、アメリカの非行ものの影響下に作られている)、『兇弾』では、それに対抗すべき組織(仲間意識で強く結ばれた警察)というイーリング的な対抗軸があったのに対し、後者ではそれが不在である。ここでの警察はチームワークの場ではない。スタンリー・ベイカーという強烈な個性を持った俳優が刑事を演じているのも、集団よりも個人が目立つことになる一因である。ディアデンにおいて、イーリング的なチームワークの主題が成立しにくくなってきていることの表れと見ることができる。というか、実際これが作られた58年には既にイーリング・スタジオはなく(55年にスタジオをBBCに売却、その後もイーリングの名を冠した映画が作られるものの、それも数年で終わる)、イーリング的な価値観は既に過去のものとなってしまっていたのだ。