『兇弾』
ディアデンが40年代後半に撮る映画は、いずれも小集団が葛藤しながらも、共通の何かを見出してゆくという意味で、長編第一作の延長上にあり、またいかにもイーリング・スタジオ的な映画である。様々な人々が或るホテルに集まり、ホテルの主人とその娘、客同士の交流を通して、それぞれ抱えている問題の解決の道筋を見出すが、そのホテルは、爆撃で既に焼けてしまっていた幽霊ホテルだった、という『中途の家』The Halfway House(未、44)、九人の市民が理想の福祉国家に招かれ、そこに留まるかどうか決断を迫られる『彼らは都市にやってきた』They Came To A City(未、44)、強制収容所に入れられた男たちが、さまざまな屈託を、収容所内での生活を通して解き、戦後の生活に返ってゆく様を描く『とらわれた心』(46)。
以上三作の中でも、『彼らは都市にやってきた』は、あからさまに左派的な映画で、「富や地位を投げ出して社会主義的な理想に身も心も捧げようとしない者たちを容赦なく非難する」(チャールズ・バー)というような内容らしいのだが(筆者未見)、もともとJ・B・プリーストリーの戯曲であり、かつこの企画を持ち込んだのはスタジオの編集者で、「熱烈な社会主義者かつ労働組合の活動家であったシドニー・コール」(同上)とのことで、必ずしもディアデン自身の企画ではないのだが、以後ディアデンの作品に社会的な関心が現れてくることを思うと、ディアデン自身の意向もそこに入っていないことはないのかもしれない。実際ディアデンの以後の作品、『フリーダ』Frieda(未、47)は、ドイツ人女性と結婚したイギリス兵の帰還後を描き、『兇弾』(50)、『私は君を信じる』I Believe In You(未、52)、『暴力のメロディー』(58)の三作は若者の非行を主題とし、『サファイア』(59)は黒人差別を、『犠牲者』Victim(未、61)はホモセクシャルを、と社会的なタブーに取り組んでいる。60年代以降も医療と宗教的原理主義の対立を描く『ルースの命』Life For Ruth(未、62)、洗脳と科学の責任についての『マインドベンダーズ』The Mindbenders(未、ヴィデオ題、63)など硬派な作品を撮り続けた。以後はディアデンの犯罪映画を取り上げて記述してゆく。
『兇弾』は日本でも公開されており、ディアデンの映画の中でも一番知られている作品だろう。引退直前の老警官を殺された警察が、一丸となってその犯人である若者を追い詰める。警官たちはコーラス隊を組織していたり、新人警官が、殺されることになる老警官(ジャック・ワォーナー)の家に下宿することになったり、強い仲間意識によって結ばれている点、これまでのディアデン映画における小集団(しかも公共組織)の一変種である(原題のThe Blue Lampは、警察署の玄関に掲げられている青い角灯を指し、映画全体が、警察という組織を描くものであることを示している)。しかも今回の場合、ジャック・ウォーナー演じる、温厚で思慮深い、人情に厚い老警官が、無軌道な若者によって撃たれ、ついに助からない、という悲劇的な展開によって却って強いパッションを引き出すことになっている。この映画の老警官ジョージ・ディクソンは、皆に惜しまれるあまり、BBCのTVシリーズ『ドック・グリーンのディクソン』Dixon of Dock Greenで復活し、55年から76年までの二十年に亘って放映される人気ものとなる。
一方、無軌道な若者を演じているのはダーク・ボガード。映画出演は初めてではなかったが、これによって映画俳優として認知された。本作は彼にとっても出世作となる。ここでの彼は、何ら強烈な欲望もなく、ただ衝動的に犯罪に走る無軌道な若者である。計画的なものではない、ただ成り行きで引き起こされる犯罪。こうした犯罪に、イギリスの戦後の混乱が象徴されていることは確かである。死ぬことになる警官が、戦時下における一致団結、チームプレーを演じるイーリング的な集団を代表するのに対し、この若者は、そうした集団からは外れた存在である。一応ここでは集団の方が勝つことになりはするのだが、イーリングが、非イーリング的なものと対決さざるを得なくなる状況が、ここでは既に素描されているといえる(ちなみに脚本は、『ピムリコへの旅券』や『ラベンダー・ヒル・モッブ』でイーリング・コメディを代表するT・E・B・クラーク)。
映画の冒頭、タイトル部分は、警察署から走り出し、逃走する車を追うパトカーを捉えた映像であるが、パトカーの車内からの視点、そのサウンドトラック(音楽なし、パトカーのサイレン、と言うよりは手で回して鳴らしているようなベル音、無線の音声)も含めて、臨場感に溢れたリアルなもの。映画本編にも所々にロンドン市内のカーチェイス場面があるが、それを撮ったのはアレクサンダー・マッケンドリック。また、映画は、家出娘の捜索依頼から始まるが、その家出娘を探して街中を警官たちが歩いていると、街中にたむろする悪そうな若者たちの間にダーク・ボガードがいたり(その家出娘が一緒に暮らしている男がボガードなのだ)、また、夜中に夫婦げんかがあり、警官がそれを治めに行く、と、その夫婦の夫(宝石店の店主)が、店の鍵のないことに気づく、するとその宝石店がまさにボガードらによって強盗に入られるところだったり、と、何か蝶番になる人物やモノを介して、隣接によって物語が進められてゆくのだが、その雑さ(というと語弊があるが、必ずしも悪い意味でなく)がむしろリアルに感じられる。ロンドン市内のロケ、とりわけラストでの競馬場の人ごみに逃げ込んだ犯人を追う場面のリアリズムも特筆すべきだろう。