コラム『日本映画の玉(ギョク)』Jフィルム・ノワール覚書⑥ 新東宝の衛星プロと日米映画   Text by 木全公彦
日米映画の設立
佐生正三郎
1953年、恒常的な赤字に苦しむ新東宝の初代社長・佐生正三郎は、東宝の森岩雄が提案した東宝への新東宝吸収案を退け、日活の堀久作に急接近し、堀を経営陣に参画させようと図る(日活が製作を再開するのは翌1954年)。だが反対勢力の抵抗に押されてこの計画は失敗し、それが遠因になって佐生は新東宝を辞任。代わって新東宝の二代目社長には東宝系で後楽園スタジアムの第四代社長である田辺宗英(小林一三の異母弟)が就任する。

新東宝を辞任した佐生は、自身が取締役にある新東宝の子会社、新東宝興行株式会社(社長初田敬)を足がかりに自主製作・配給をするため、代表取締役に就任すると、1953年12月末新たに日米映画として発足する。

佐生は、同じ1953年、製作会社・テレビ映画を設立した今村貞雄と企画・製作で提携し、目黒区芳窪町(現在の東が丘)にある今村の貸スタジオ専業のテレビ映画撮影所(旧・ラジオ映画撮影所)の代表取締役も兼ねることになった。日米映画では同スタジオをレンタルして、第1回自主作品『和蘭囃子』(1954年、若杉光夫監督)を製作する。続いて『神州天馬侠』全4部作(1954~1955年、萩原章監督)を製作し、続く『東京の空の下には』 (1955年、蛭川伊勢夫監督)で劇団民藝と提携。この作品は日活を通じて配給された。これがきっかけになり、五社協定に阻まれ俳優難に苦しむ日活は、民藝に急接近し、民藝のプロデューサーや俳優とユニット契約することになる。

一方、佐生が社長を務める日米映画は、テレビ映画製作を計画し、日本テレビ放送網(NTV)と共同製作で、テレビ映画撮影所を使って35ミリフィルムを使って40分~45分程度のオールロケ犯罪映画の製作を開始する。テレビ映画だけでは製作費が回収できないということから、NTV系列で放映したあと、新東宝の配給で劇場公開するというもので、これは併映作に悩む新東宝としても一挙両得であった。

第1作は樫原一郎原作の「白い粉の闇」を映画化した『麻薬街の殺人』(1957年、浅野辰雄監督)。1957年10月20日(水曜日)22時15分から22時45分まで放送されたのち、11月23日、新東宝の配給で『ひばりの三役・競艶雪之丞変化 後篇』(1957年、渡辺邦男監督)の併映作として上映された。以降、この日米映画・NTV提携の通称“犯罪捜査"シリーズは、『麻薬街の殺人』から『女の決闘』(1959年、金子敏監督)に至るまで、約2年の間に計10本製作された。「撮影日数は七日間というスピードぶりで三千フィートという短篇を完成、製作費は約百五十万円程度」(「キネマ旬報」1957年12月上旬号、「映画界の動き」)だという。全作品警視庁が協力している。

全10作中、樫原一郎原作ものが5本(①③④⑥⑦)。監督には3本(①②③)で最多の浅野辰雄を始め、左翼系(東宝争議組、レッドパージ組を含む)の人材や、のちにピンク映画に転身する者が目立つ。俳優は低予算なので名前のあるスターは出ておらず、民藝の俳優や劇団のユニット出演のほかに、これまた左翼系でレッドパージされた人の名前がちらほらある。劇団員にはのちに声優として名を成した人もいる。